2019年1月26日土曜日

WMWスポーツ強化基金に寄付をする

      

大隈重信立像

私が大学を卒業して、この春で45年以上経つことになる。
詳しく言えば、23歳で卒業していたら、48年になる。
私は、現在70歳。
正直な話、こんな1年、2年はどうでもいいと感じている。
振り返ってみて、在学中、卒業してからの幾つかの経済危機下、何とか逃げ遂(おお)せた。
頑張ったねと言われれば、ちょっとは恥かしい気もする。

私は決して上等で優秀な経済人ではなかったが、後継者が優秀で、私だって、余り会社に利益を生み出せないにも拘わらず、後何年かは勤めてくださいと言われている。
今の社長さんは、私が社長だった時に、ずっと専務をやっていてくれた。
有難いことと言えば、こんな有難いことはないよ、と妻や娘や息子から言われている。

そして、家庭人として否(いな)父としてやれることは、よ~くやったと自慢できる。
だが、それには妻の過大な踏ん張りがあったからこそ、と感謝している。
子どもは、娘が3人息子が1人。
どいつもこいつも、伴侶を得、息子は豪州に転勤中だが、女性はそれぞれ住宅を手に入れ、何とも豊かにやっている。
各家族の詳しい内容については知らないから、イーディーな表現は勘弁させてもらうが、孫を立派に育てていることを思うと、ま~ま~なんだろう。

そんな環境にあって、この俺様の生活の今までのこと、これからのこと? と不思議に自信がなく感じられるときがあって、夜中、なんだか奇怪(きっかい)極まりなく眠れない夜が偶々(たまたま)ある。
今までの生活の反省、これからの生活をどうすればいいのか、反省や不安にさいなまれる。

そんな時、いっつも想い込みながら心の平和を見いだせるのは、大学時代4年間のサッカー部の一切合財のなかに、現在の自分の位置を置き換えて、あれこれ思い出すことだ。
すると、心は安穏なものに包まれる。
それと、経済人として付き合ってきた人々、なかでも今、会社の責任者をやってくれている社長を思うと、なんとも幸せな気分になる。
注意深くいろいろ考え巡らすこと、これこそが、私の生きていくためのエネルギーになっている。

そして、先ほどの、私を45年以上も前のサッカー部に自分の身を置き換えて、あの時代の些少なことまでを思い出すこと。
思い出した結果、私は恥ずかしながら、誇りを持ちながら、ちょっと少額だけれど部に寄付することにした。

少し前に樹木から落下した結果、高次脳機能障害を受け、心身ともに多少なりの障害を受けている。
今でも3カ月毎の定期検査を受けている。
担当医師は私に、どうですか? 良くなってきましたか? と聞くので、ええ、もう大丈夫だと思っているんですよ、と応える。
妻にも聞くと、妻は、記憶が悪いとか、勘違いのことを話す、いろんな可笑しなことがあるので、夫のことを本当に心配している、と返答内容は悪いことばかり。

それで昨日、給料の一部を経理の者が手渡ししてくれたので、そのお金を持って銀行に行った。
そして気付いたことなんだが、送金額が極めて少額なのに、税込手数料が髙く、月毎に送金すると当然その額は大きく増えることになる。
それで、来月にはこの1年分を纏めて送金することにした。
これは、「WMWスポーツ強化基金」だ。
私のような者、ちょっと変則的な人間には関係のない口座なのに。
サッカー部に異常に感謝して、ちょっとでも貢献したがっている人間が使う口座だ。
何故お前、仁徳者でもなく、そんなにまでするんだ?と先輩は思われるかもしれない。

それほど、早稲田のサッカー部には感謝しているだけの話だ。

この口座に寄付として入金を受ける事務局長は、私とサッカー部同期の者。
同期の父は、ベルリンオリンピックに日本代表のサッカー選手として出場した。
この者が、寄付金として学校当局と打ち合わせをして、厳格にサッカー部の費用のみに使用する。
繰り返す、何も大学が嫌になった訳ではない、サッカー部の費用に使って欲しいだけなのだ。
在学中、あんなに貧乏だったのだから、ヤマオカのやらかすことなら、何とか皆は理解してくれそうだ。

学校側からは、私に対しては領収書を発行し、私が確定申告に寄付金として使用できる。




★早稲田大学ア式蹴球部のホームページより

チーム・選手

1924(大正13)年の創部以来、早稲田大学ア式蹴球部は常にサッカー界をリードし、数々の日本代表選手を輩出してきました。関東大学リーグ1部優勝26回、全日本大学選手権優勝12回、総理大臣杯優勝2回、天皇杯優勝4回は、他大学の追随を許さない成績です。
皆様、熱いご声援をよろしくお願い致します。
外池 大亮 監督からのご挨拶
この度、歴史と伝統あるア式蹴球部の監督を拝命いたしました外池大亮です。監督というポジションは自分の人生にとって新しく、かつ壮大な挑戦となりますが、プロ選手11年、企業人10年で培った経験を糧に、学生と熱いビジョンを共有し、共に成長していく所存です。「早稲田ここに有り」と発信するため、目標である「タイトル奪還」に向けて情熱を注ぎます。皆様どうぞ宜しくお願い致します。

日本で初めてサッカーの国際的競技会が開催されたのは、1917年の第3回極東大会。この大会に日本を代表するチームとして臨んだのは「東京高等師範学校」、これが日本チーム初の国際試合でした。結果は中華民国に0-5、フィリピンに2-15と大敗でしたが、この大会を契機にサッカーの普及が進み、翌年には国内で多くの大会が開催されることになりました。
それから100年の時を経て、日本は6大会連続でFIFAワールドカップに出場するアジアの雄へと成長を遂げます。
100年の間に日本代表を率いたのは現監督森保一まで数えて31人(代行を含む)、その中でア式OBはザッケローニ着任前に代行を務めた原博実(昭和56年卒)を含めて9人。挑んでも、挑んでも跳ね返される世界の壁、長いトンネルを抜け出た先には、さらにそそり立つ世界の壁……しかし、その中でわずかながら光明がさした瞬間が3度ありました。自国(共同)開催だった2002年の日韓大会、2010年南アフリカ大会、そして2018年ロシア大会でグループリーグを突破し、ベスト16に駒を進めたのです。とりわけ、開幕2ヶ月前の電撃交代から、死闘の果てに力尽きたベルギー戦まで、西野ジャパンの闘いは多くの人たちの心に深く刻まれました。
今回は、西野朗(昭和53年卒)の駆け抜けた44日間を振り返りながら、岡田武史(昭和55年卒)をはじめWASEDA魂を胸に日本を率いた名将たちの闘いを紹介します。