20190122の朝日新聞で知ったことなんだが、
「登頂断念 86歳三浦さん 挑戦続けたい」
の記事を読んで、それはそれは三浦雄一郎さんは、大変な想いをされただろう。
この新聞記事は、20190124のブログに、私が感じたことと新聞記事をそのまま転載させてもらった。
「挑戦」という言葉が私の頭の廻りを、初めて知ったときのように、回転仕出した。
果たしてそれ程、企画力に溢れた挑戦だっただろうか。
「挑戦」とはどういう意味なんだろうか。
頭の中には、元朝日新聞・編集委員の本多勝一氏の著作物が湧出し、私自身も複雑な気持ちでいた。
探検、冒険、挑戦、未知の分野、勇気と危険とロマン。
本多勝一の「アムンゼンとスコットーーー南極点への到着に賭ける」や、極地探検の数々を著した加納一郎著作集全5巻を読むと、探検や冒険の本質が解る。
これらの著作物のなかで、白瀬矗(のぶ)中尉のことを、「白瀬は世界の名だたる探検家と並んで評価されている」とあった。
そんな折、下の題字の記事が、私の目頭に突撃してきた。
「人力車で鍛え 南極点踏破」
「36歳冒険家、単独で」
何と、爽やかで企画力があって、実に挑戦的で冒険的なこと。
36歳の冒険家・阿部雅龍(まさたつ)さんが、単独で徒歩で南極点に到達したというのだ。
私の生血(なまち)に漲(みなぎ)る挑戦心と冒険心が、またまた活気付いてきた。
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★20190124(木)の朝日新聞・夕刊よりそのまま転載させてもらった。
人力車で鍛え 南極点踏破
36歳冒険家、単独で
南極点に到達した阿部雅龍さん。
お気に入りのロボット「aibo」を前に置き、記念撮影=18日、本人提供
浅草・雷門前で人力車を引く阿部雅龍さん
2015年、東京都台東区、中山由美撮影
東京・浅草で人力車を引いて肉体を鍛えた冒険家、阿部雅龍(まさたつ)さん(36)=東京都板橋区=が単独徒歩で南極点に到達し、23日、到達時の写真が国内の応援本部に届いた。
阿部さんは「諦めなければ夢がかなうと強く感じた」とのメッセージも寄せた、
阿部さんは同じ秋田出身で日本人初の南極探検家・白瀬矗(のぶ)中尉にあこがれて冒険を志した。
秋田大学を卒業し、10年あまりにわたって浅草で人力車をひく仕事をしながら資金をためつつ、足腰を鍛えた。
2017年には、全国各地を人力車をひいて回り、220日間で6、400キロを走破した。
寒さと雪や氷に慣れようと、北極圏のカナダやグリーランド沿岸では解氷が割れて冷たい海に落ちたこともある。
今回は資金協力も募って、南米チリから南極大陸に入り、昨年11月23日に海岸を出発。
食料やテントを積んだ約100キロのそりを引っ張って、1人で南極点まで918キロを歩き通した。
55日間かけて、今月17日(日本時間)に南極点に着いたという。
阿部さんは食料や燃料の補給を受けずに到達することを目指した。
しかし、悪天候に阻まれ、想定より半月ほど時間がかかったため、ルート上にあった備蓄の食料を使い、無補給はかなわなかった。
19日に南極点からチャーター機にピックアップされ、21日に南極大陸から南米チリに戻った。
26日に帰国する予定で、「応援に支えられました。チャレンジする素晴らしさを多くの人に伝えたい」という。
あこがれの白瀬中尉らは1912年1月28日、南極80度5分まで達した。
阿部さんは来年、これと同じルートをたどり、その先の南極点まで、今回より距離が長く厳しい道のりを単独無補給で歩きたいという。
(中山由美)
こんな男に魅力を感じるのは、私だけではない筈だ。
以前に白瀬矗中尉のことを著したブログを思い出して、この下の方に添付させてもらった。
この男は異常に偉大なのだ。
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白瀬矗(のぶ)の名に、胸に高鳴りが
探検はロマンだ。
未知の分野であればあるだけ、そのロマン度も高まる。
20101221の朝日新聞・夕刊に「南極探検100年、白瀬の伝言」の記事が掲載されていた。
題字は「苦難の道のり 世界が評価」で始まっていた。
この白瀬陸軍中尉の名を、新聞の一コーナーと言えども、目にしてしまった以上、私の胸の高鳴りはどうしても抑えようがない。
かって集中的に白瀬に関するものや、アムンゼン、スコットなどに関連する探検本を読み漁った時期があったのです。
今から20年程前のこと、私が40歳頃のことでした。
新聞記事を読んで、私は探検モノにちょっとばかり知識があることを、密かに自負していることに赤恥したものの、この胸の高まりはどうにもおさまらない。
新聞記事にはスペースに制限があるので、そんなにノタリクタリとは書けないのはよく解っているのですが、他にも知っていることが「私」にはいっぱいある状態になった。
またまた不遜、恥ずかしい限りだ。
とっかかりは本多勝一さんの本「アムンゼンとスコットー南極点への到達に賭ける」(出版社・教育者)だった。
本多さんが所属していた京都大学探検部の指導者で精神的主柱の今西錦司さんを知り、この今西錦司氏の個性の魅力にはまった。
その種を蒔いたのが西堀栄三郎、学問の分野は違えども生態学研究センターの井上民治、最後は国立民族博物館を創立した梅棹忠夫。
この人たちの研究論文は読めないし理解できないが、エッセイや記者との会話を文章にしたものに触れて、一時期彼らに現(うつつ)を抜かした。
東京を中心とした中央に対する在野の意地が感じられ、京都府出身の私には彼らの活躍が快く感じられた。
勝手に親近感を持っていた。
それから、ここにたどり着くのです。
共同通信の記者だった加納一郎さんの訳したスコット隊の生存者であるアスリー・チェリー・ガラードの探検記「世界最悪の旅」(出版社・中央公論新社)だ。
戦中に発行された、この本を読んで尻に火が点いた。
それから、アムンゼンの先輩ナンセンの「フラム号 漂流記」(加納一郎訳)。
興奮しまくりの勢いのまま、これらをまとめた加納一郎著作集全5巻を手に入れた。
そのときの感動は忘れない。探検に興味のある方は、どうか私にお申し出ください、貸し出します。
探検とは何かを生涯説き続け、極地研究と啓蒙に尽くした加納一郎氏、この全5巻は私の脆弱な精神構造を強く支えてくれているのです。
精神的に落ち込んだり、苦しくなったとき、引っ張り出してきて、端々をつまみ読みする習慣が身についてしまった。
苦しい時の--------、神ならぬ、加納一郎氏であり、ドフトエフスキーさんだのみだ。
1巻=極地の探検 2巻=フラム号漂流記 3巻北海道の山と雪 4巻=自然のなかで 5巻=世界最悪の旅(5巻のみが、我が書庫に見つからず)
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これより下は、20101221の朝日新聞・夕刊による (中山由美)
「3人の探検家に与えられた運命はそれぞれ栄光、死、そして苦難ーーーー」100年前に白瀬矗(のぶ)が南極点をめざして出航した東京・芝浦で、11月28日に開かれた記念式典。
DVD「白瀬・開南の夢」のナレーションが流れると、白瀬の孫、潤さん(79)の表情が曇った。
同時に南極点をめざした探検家3人のうち、「栄光」が与えられたのは、1911年12月14日、世界初到達を果たしたのはノルウェーのアムンゼン。「死」は、1ヶ月遅れで南極点に立ったが、帰途に隊員全員が遭難死したイギリスのスコット。
「苦難」は、12年1月28日、南緯80度5分の氷の上で南進を断念した白瀬だった。
国の威信をかけた国家事業に比べ、白瀬隊は資金や装備でははるかに劣った。
スコット隊のテラノバ号は750トン、アムンゼン隊のフラム号は402トン、白瀬隊の開南丸はわずか204トンの木造船だった。
国は資金を出さず、民間支援に頼る探検だった。
新聞社とのつながりもあった早稲田大創設者の大隈重信を会長に、南極探検後援会を創設。
出発前、朝日新聞は5千円を出し、義捐金を呼びかけた。
当時の記事には、約4万8千円が集まり、後援会に渡した、とある。
だが、白瀬が帰国した時には後援会は消え、借金4万円が残されていた。
今の1億~2億円相当という。
白瀬が一人で背負った。
新聞で初めて見ることとなった他の親族には、複雑な感情が残された。
救いの手を差し伸べなかったわけではない、との思いがあるからだ。
白瀬は帰国後、ともに暮らしていた三男家族の元を離れ、秋田県の生家・浄運寺からも離れて疎遠になっていたという。
孫の潤さんは「白瀬の晩年が不遇だったと語られると心が痛むのです」と言った。
今回の記念式典には、白瀬に関する文献をまとめた本を出版したチェット・ロスさん」(63)が米国から駆けつけた。
「民間の支援を懸命に集め、諦めずに挑戦し、一人の犠牲者も出さずに帰った」。
自らの力で夢をかなえ、責任を全うした魅力を語る。
出身地である秋田県にかほ市の白瀬南極探検隊記念館には、海外からの訪問客が絶えない。
記念館職員だった佐藤忠悦さん(70)は言う。
「苦難の道だったが、白瀬は世界の名だたる探検家と並んで評価されている」
100年の時を経て、うねりは動き始めた。
「故郷の秋田から全国へ発信しよう」