2011年3月31日木曜日

サマータイム・ブルース

LOVE ME TENDER

忌野清志郎(いまわのきよしろう)

天国の忌野さん、あなたは勇気あるシンガーだったのですね。正直な話、忌野清志郎という歌手のことは、亡くなったときのニュースで初めて知ったのでした。今、あなたがかって作詞して、歌っていた反原発歌「サマータイム・ブルース」を、多くの人が聞いています。悔やしいんです、もう少し早く、あなたのことを知りたかった。

私は、昔からずうっと原子力発電所を忌まわしい建造物だと思って、家庭でも仲間等との談笑の折にも、必ずこの原発はいつか、何かの拍子で危険な魔物に変身するんだと強調してきた。その際、こんな危なっかしいものに頼るぐらいなら、エアコンもエスカレーターも要らないとも言ってきた。時々、停電することぐらい、甘受しなきゃ、アカンよ。エスカレーターは、体の不自由な人が使用するときだけの簡便な物でいいのではないか。コンビニストアーの照明は異常に明る過ぎないか。

原子力発電の安全神話なんて元々誰も信じてはいなかったのに、地元には莫大な金がばら撒かれ、莫大な費用をかけての広報活動の嵐で、地元住民は電力会社に否応なしに認めさせられてしまった。都会の住民は我関せずの態度をとった。総体として我々は屈したのだ。そして、狭い日本に原子力発電所が彼方此方に建てられた。

東京電力、福島第1原子力発電所。20110311、東日本大地震の「想定外の津波」の直撃を受け、冷却機能を失い、原子炉の心臓部が損なわれ、炉心溶融(メルトダウン)を起こして、今尚停止すらできない状態で、今後どのように終局を迎えることができるのか、方向性が定まらないまま、廃炉に向けて、必死に作業が進められている。周辺の海水、大気からは高濃度の放射能が検知されている。最悪のことが起こるのだろうか?

やっぱりと言うか、案の定、怖れていたことが現実に発生してしまった。

この冬、エアコンを買おうと思っていながら買いに行くきっかけが作れなくて、今まで何とかやり過ごしてきた。春が過ぎて、夏。暑い夏がもう直ぐにやって来る、それでも買わないで頑張り通せるか、不安だが、辛抱我慢、できるだけ買わないでやってみようと考えている。

数年前、オーストラリアの大学に通っていた長男の学友のスウェーデン人が、我が家に来た時、東京の夜の明るさに異状に反応したことがあった。そこまで、明るくする必要がないのではないか、と言外に表していた。駅のエスカレーターに驚き、又、タクシーの自動ドアーにも吃驚していた。

我が家には、福島原発の避難民=大学時代の友人・西が住み着いてもう10日になる。彼は帰りたがっているが、原発はなかなか鎮まりそうにない。むしろ、報道から察するに危険度を増しているように感じる。福島県いわき市在住の彼は、日々いわきに住む友人達のことを気遣い、そのことを私は毎日聞かされるので、頭の中から、原発は抜けないのです。

そんな精神状態の私が、朝の散歩中に新聞を読みたくなった。でもポケットには100円玉1っ個しかない。とりあえず東京新聞を買うしかなかった。初めて、東京新聞をお金を払って買ったことになる。

特報で、忌野清志郎の「サマータイム・ブルース」を取り上げていた。その記事を以下に転載させていただいた。 早速、YouTubeで忌野清志郎の「サマータイム・ブルース」を聴いてみた。

 

サマータイム・ブルース (歌詞)

暑い夏がそこまで来てる

みんなが海へくり出していく

人気のない所で泳いだら

原子力発電所が建っていた

さっぱりわかんねえ 何のために?

狭い日本のサマータイム・ブルース

 

熱い炎が先っちょまで出てる

東海地震もそこまで来てる

だけどもまだまだ増えていく

原子力発電所が建っていく

さっぱりわかんねえ 誰のために?

狭い日本のサマータイム・ブルース

 

寒い冬がそこまで来てる

あんたもこのごろ抜け毛が多い

それでもテレビは言っている

「日本の原発は安全です」

さっぱりわかんねえ 根拠がねえ

これが最後のサマータイム・ブルー

 

あくせく稼いで税金とられ

たまのバカンス田舎へ行けば

37個も建っている

原子力発電所がまだ増える

知らねえうちに 漏れていた

あきれたもんだな サマータイム・ブルー

 

電力は余っている 要らねえ 

もう要らねえ

電力は余っている 要らねえ 

欲しくない

原子力は要らねえ 危ない

欲しくない

要らねえ 要らねえ

電力は余っているよ

要らねえ 危ねえ

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20110329 東京新聞(特報)

故・忌野清志郎さんのタブー曲

よみがえる 反原発ソング 「サマータイム・ブルース」

ーー  --  --  --  

「サマータイム・ブルース」は、米国ロック歌手、エディ・コクランの同名曲のメロディーに、人気ロックバンド、RCサクセションのボーカリストだった忌野さんが、オリジナルの日本語歌詞を付けた作品だ。

86年の旧ソ連・チェルノブイリ原発事故は世界的な反核、反原発のうねりを巻き起こし、日本のロック界にも及んでいた。当時、RCのほかにも、ブルーハーツの曲「チェルノブイリ」も話題になっていた。

ところが、シングル盤の「サマータイム・ブルース」と、これを収めたアルバム「カバーズ」は88年6月、突然発売中止になった。

アルバムにはエルビス・プレスリーの名曲「ラブ・ミー・テンダー」をカバーした反原発ソングもあった。こちらも「放射能は要らね 牛乳を飲みてえ」と強烈だ。

発売元の東芝EMIは当時、中止の理由についてノーコメントを繰り返したが、音楽関係者の間では、EMIに出資する日本の原子力産業の有力グループ・東芝との関連が取り沙汰された。このシングルとアルバムは結局、別の中堅レコード会社から発売された。

今回の福島での大事故は、この曲を思い起こさせることになった。二十数年間、原発問題が日本の音楽産業で「タブー視」されてきたことの裏返しでもある。

2011年3月29日火曜日

被災地に義援金を送る

早朝、まだ誰も来ていない事務所で、コーヒーを飲みながら新聞を読んでいた。

経営責任者の中さんが出社して来て、開口一番、「ヤマオカさん、うちの会社の財務状況はまだまだ余裕ないのですが、何とか工面して、幾許(いくばく)かの義援金を、東日本大震災の被災地に送りたいのですが、どうでしょう、か」と尋ねられた。

余程思いつめたのだろう、顔つきは真剣だった。う~ん、そうやな、やるしかないかなあ、と肯きながらも、こういうことは社員の皆に話をして、同意を得ることが大事やと応答した。昨夜、テレビの報道番組を見て、居ても立ってもいられなくなった、と言う。

次の定例会議20110328で、皆に話をして社員全員から快諾を得た。我々が所属している同業者等の協会に受付てもらうことにした。

一人ひとりでは、志があっても時間を割(さ)いてまで何かの行動を起こすことは、余程の強い意志がなければできないが、このように会社としてなら、なにかと行動し易い。

日々の公私に及ぶ生活の中で、何をするにつけても、東日本大地震で被害に遭われた人々のことが脳裏から剥(は)がれない。付き纏ってくる。小さな可愛い花を見ても、大空を気持ちよく泳ぐ鯉幟(こいのぼり)を見ても、心はどうしても晴れない。そんなことにウツツを抜かしている場合じゃないだろう、そんな言葉が風に乗って耳に入ってくる。気分が沈みがちになる。

そんな気分を払いのけるには、自分にできることを少しでも実行することだろう、と思い込んでいた矢先だったので、この中さんの動議は、私を元々の私に復活させるには十分なものでした。

被災者の皆さん、心からお見舞い申し上げます。山岡 保 他社員一同より

2011年3月26日土曜日

スノーフレーク

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 20110325の昼飯どき。

横浜市中区本牧荒井に、現在リフォーム工事進行中の現場があって、そこの庭に咲いていたのがこの写真のスノーフレークです。

ヒガンバナ科。葉はニラの葉のよう。根は球根になっていて、多年草。自然では、きっと群生しているのだろう。

スノーフレーク(snow flake)直訳すると「雪のかけら」。空から舞い降りてきた雪の結晶のさまが、その花の名前になぞらえたようだ。

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早春、花茎にスズランに似た釣鐘状の花を咲かせる。一つの花は6枚の花弁で構成されていて、その花弁の先端には、緑の斑点がある。この花が、小さくて可愛いのです。東日本大地震で被害に遭われた方々のことが頭の中を過(よ)ぎった。それでも、どうしても手が伸びてしまった。コップに挿して、会社の打ち合わせ用テーブルに置いた。

ヤマオカさんは、余裕がありますね、とスタッフに冷やかされた。被災地のことを思うと、後ろめたさは消えない。いつもは余り花などに興味を示さない経営責任者の中さんも、何故か今日は、花があるのはいいですね、と喜んでくれた。それで、又、心が痛んだ。

毎年、私は辛夷(こぶし)の花が忽然と開花するのを観て、ハッと驚かされて春の訪れを知るのです。辛夷は既に今は満開で、春の季節に少しづつ入りつつあるようだ。

今年から、辛夷に加えて、春を知る花が一つ増えたことになります。

暑さ寒さも彼岸まで、と昔から言われている。お彼岸の中日、春分の日は21日だった。三寒四温、もう春ですよ。

東北地方太平洋海岸、東日本の海岸に向かって、スノーフレークを手向(たむ)けつつ手を合わせた。

2011年3月23日水曜日

リフォーム工事と小田原城

今日は水曜日、20110323。毎週水曜日は、弊社の営業部の定休日だ。

水曜日は、私にとって、楽しみながら仕事する?ってちょっと不真面目に聞こえるかもしれないが、スタッフのことも気にしないで、勝手気儘(きまま)に仕事をしながら、何かを楽しむ日なのです、と言えば解ってもらえるだろうか。その何かは、種々雑多、多種多様です。

今まで、そのように定休日を過ごしてきたのですが、今日は最も典型的な私流の休日になった。

10:00に国府津にある中古の戸建住宅のリフォーム工事の手直しを施工会社と打ち合わせをした。弊社の売却済みの商品です。購入して頂くお客さまは決まっています。物件の担当者はお休み。担当者のためにも抜かりなく打合せをしておかないと、笑われてしまう。和やかなうちに、打合せは終了した。

それから小田原城に車で向かった。車の中は、私、原発避難民の西、それから孫・晴の男三人の晴れ姿。晴に本物のお城を見せてやりたかったのです。

これからが、私のお楽しみの部分なのです。ネットやお城でいただいた印刷物から知り得たことも、書き加えました。楽しい一日になりました。晴は、私たちに無理なことや、駄々っ子はしなかった。

復興天守

(復興天守閣。ウィキペディアから頂いた)

娘=次女の長男、私にとっては目に入れても痛くない可愛い孫・晴が、昨日が卒園式で、今日から小学校の入学式までが休みなのです。ところが、晴は可哀相に、昨日の卒園式をインフルエンザで欠席せざるを得なかった。その鬱憤(うっぷん)晴らしに、大いに家の中で暴れまくってくれたようだ。母親は、体のでかい子どもにさどかし手を焼いたことだろう。なんせ、体力があるのです。

この春休みの一日をジジイである私と一緒に過ごそうよ、と声を掛けたのでした。その企画として、今日の、リフォーム工事打合せと小田原城見学をセットしたのです。なかなかいい企画だワイと我ながらご満悦でした。

下の写真は小田原城天守閣ですが、入口の入場券売り場で貰ったパンフレット「相州小田原城」の小田原城関係略年表を読んでギョッとした。過去の地震の記載に目を奪われたのです。

20110311、未曾有の強い地震「東日本大地震」に遭ったばかりで、地震の恐ろしさが未だに冷めやらない。被災地では懸命な救助活動が今も夜を徹して行なわれている。福島原発の炉心溶融が止まらない。原子炉に損傷が発生して大気や海水の放射線濃度が高まってきている。今でも一万人以上の行方不明者の消息が判明していない。

略年表には、小田原城が築城されてからの歴史が年譜で著されていて、度々の震災の歴史に瞠目した。やはり、日本は地震の歴史なのだ。今だからこそ、震災をより痛く感じるのだろうが、復興に立ち向かった先人達の逞(たくま)しい精神力とその凄然とした労苦を思うに心が重くなった。

地震の歴史というのは、次の通りです。元禄16年 1703 元禄関東地震発生し、天守など倒壊焼失/宝永3年 1706 天守再建される/享保6年 1721 元禄関東地震による修復工事が完了/天明2年 1782 天明地震により、天守が傾く/嘉永6年 1853 嘉永地震により、石垣などが崩落/大正12年 1923 関東大震災で石垣が崩落。この小田原城の震災の歴史だけでも、凄いものを感じた。

戦(いくさ)としては、北条早雲の小田原城を、上杉謙信や武田信玄が攻め、ついには豊臣秀吉の攻めにより、北条氏が滅び、徳川家康側の家臣が入城した。これらが代表的な戦いであり、政変でもあったのであろう。

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(原発避難民の西と孫・晴)

天守閣を見学した。

いつもは、この類の見学に参加しても、見聞きすることにいい加減だった。ところが今回は、何故か、落ち着いてゆったりした気分で、展示物を見て回ることができた。私の心の中にも、変化が生まれているようです。忙(せわ)しなく、時間を気にして、いらいらすることもなくなっていた。

 

以下、天守閣の紹介に「小田原城歴史見聞館」を利用させて貰う。

江戸時代に造られた雛型や引き図を基に昭和35年に復興されました。3重4階の天守に付櫓(つけやぐら)、渡櫓(わたりやぐら)を付しています。なお、最上階の高欄(こうらん)付き廻縁(まわりえん)は復興に際して新たに付けられたものです。内部には、甲冑・刀剣・絵図・古文書など、小田原の歴史を伝える資料や、武家文化にかかわる資料などが展示」されています。

 

最大の特徴は、豊臣軍に対抗するために作られた広大な外郭である。八幡山から海側に至るまで小田原の町全体を総延長9キロメートルの土塁と空堀で取り囲んだものであり、後の大坂城の惣構を凌いでいた。1614年、徳川家康は自ら数万の軍勢を率いてこの総構えを撤去させている。地方の城郭にこのような大規模な総構えがあることを警戒していたという説がある(Wikipediaより)

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(食堂で、サッカーボールおにぎりを頬張る)

次女は、昼飯用としておにぎりにお漬物を添えて、晴に持たせてくれたのですが、寒くて、外では食う気になれなかった。温かいうどんについ惹かれてしまった。北条うどん、750円。次女もお母さん役を立派にこなしているな、と嬉しくなった。

晴は、お店の中は暑いよと言って、半そでシャツ1枚になっていた。

晴にとっては、何処へ行くにも、サッカーボールは必携です。晴は、言ってくれるんですよ。俺はジジイにあこがれているんだ、サッカーが上手くなりたいんだ、って。どこまでも可愛い孫だ。

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(猿とにらめっこ)

キッカーとキーパー役を交代で、何度もなんども繰り返すのです。

私にとっては、寒さしのぎ程度の付き合いなら耐えられるのですが、それが長時間になってくると、なかなかの苦痛モノです。15分だけよと言っても、その15分を3回も4回もやらされるのです。最後の5分を誤魔化してやろうとして、後1分だよ、と言っても近くにある時計で確認していて、私の姦(奸)計(かんけい)を、いとも簡単に確実に見破る。流石(さすが)、私の誇り高い孫だ。お利口さんです。

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(北条氏の家紋だろう)

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ここで、ワンポイントレッスン。

「小田原評定(おだわらひょうじょう)」の由来=小田原城が豊臣秀吉の軍に囲まれたとき、和戦の相談が長い間まとまらなかったことから、話し合いがだらだらと長引いて容易にきまらないこと。このようなときに使われるようになった。(日本語大辞典 講談社より)

1590年、豊臣秀吉は天下統一の仕上げとして、小田原城を総攻撃した。この戦は小田原の役とか小田原征伐と呼ばれる。秀吉は圧倒的な物資をもって取り囲むとともに別働隊で関東各地の北条氏の支城を撃破し、篭城戦によって敵の兵糧不足を待ち逆襲しようとした北条氏の意図を挫き、3ヶ月の篭城戦の末ほとんど無血で開城させた。この篭城戦において、北条氏側が和議と抗戦継続を巡って議論したが一向にまとまらなかった故事が、小田原評定という言葉になっている。〈Wikipediaより)

2011年3月18日金曜日

買いだめ、浅ましいぞ

20110314日の朝、出勤のために車で、会社に向かっていた。片側2車線の道路の左側の車線が異常に車の列が長く続いているので、よく見るとその列の先がガソリンスタンドで、ガソリンを給油するために並んでいるのだと、やっとのことで気づいた。2車線のうち1車線だけが通常の通行に使われていて、当然、道路は大混雑に陥っていた。

後日、歌手の泉谷しげる氏が「いっつも車に乗らない奴がガソリン入れて、このバカヤロー」と叫んでいたと聞いた。その通りだ。

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20110318の朝日新聞朝刊より

「ガソリン完売となりました」と書かれた紙を持ち、車列の最後尾に立つガソリンスタンド店員=16日午後、横浜市西区

そして夕方。スーパーマーケットやコンビニでは、品物がなくなっていますよ、と誰からとなく耳にしたので、働いているスタッフを尻目に、晩飯にウドンでもと思いつき、近所の生協の店に出かけた。

2階に上がって吃驚仰天。商品の陳列棚から品物がすっかり姿を消していたのです。18:00。麺類、パン、小麦粉、米、水、牛乳、缶詰類、豆腐、納豆は完全に姿を消していた。突然、立っている場所が、店ではなく倉庫にでもいるような錯覚をおこした。何か、寒々しい気分になった。そして、馬鹿馬鹿しくなって、厭(あ)きれてしまって、ついには、無性に悲しくなってしまった。

その状況を会社に帰って、スタッフに話しかけても、関心を示して肉迫してくる者はいなかった。まさか?とでも思われていたのだろう。

パンは冷凍しておくといいんですよ、なんて会話が漏れ聞こえる。被災地でもないのに、冷蔵庫をいっぱいにして、食糧も食料も何でもかんでもため込んで、そのためこんだ物をどうする心算なんですか。

被災地こそ、食料や燃料、医薬品、暖房器具、寝具を今すぐにでも必要としている。その窮状を思うに、居ても立ってもいられない思いだ。

私は、今、経済人としては特別な状況に置かれている立場なので、何とも歯痒く、どうにも身動きできないのが残念だ。

我が社の経営責任者・中さんが夜中に電話をしてきた。その内容は、ヤマオカさん、うちの会社の3階にベッドだって30台位は並べられます。いっときの食事ぐらいは用意できます。親を失った子ども達の面倒ぐらいはみられます。今、テレビを観ていたら、何もやってあげられない、何もできない自分がもどかしくって、、、、、と一通り嘆いて、元気なく電話を切った。俺も同感だよ。

そして今日20110318は、私の大学時代の友人・西が福島いわき市から原発避難民としてやって来た。子ども水泳教室の仕事に忙殺されて?、止むを得ず?、独り身のままだ。40年前、彼の母は、私たちに自分の息子のことを東京ルンペンなんて言っていた。水球の元日本代表選手だったが、今じゃ丘の上の河童だ。

私の家族の誰もが、この地震が起こったとき、いの一番に彼の安否を気づかった。やっと電話が通じて、返ってきた言葉は、今、寿司屋で飯食ってんだ、といかにも彼らしく、あきれながらも、無事だったことに家族全員ほっとした。

被災地や被災された人々に対して、一人ひとりの力は、ささやかだけれど、できることをすることだろう。

被災地でもないのに、買いだめとは浅ましいぞ。

2011年3月15日火曜日

炉心溶融って、これから何が起こるの?

東京電力福島第1原発2号機のことだ。炉心溶融が起きている可能性がある、なんて言われても、私たちはどうすりゃいいんですか? 一体全体、これから何が起こるんですか?

まさか、放射能が漏れていることはないでしょうね、と友人に話しかけたら、友人は何を言っているんですか、そんなにのんびりしている場合じゃないですよ、そのまさかのマサカが、もう発生しているんですよ、と真顔(まがお)そのもの。

この友人の発言を、狂人もしくは気がふれた奴の血迷い言として、馬耳東風、それでいいんですか? それとも、まさかのマサカが、現実の出来事として、もう既に起こっているんですか。心配性の私は、正確な情報が欲しいんです。

東京電力は、14日の午後7時45分、東京電力福島第1原発2号機の冷却水が大幅に減少し、燃料棒が露出したと福島県に通報した。原子炉は2時間にわたって空焚きだった。空焚きって、なんじゃ? 子供の頃の農繁期に、子ども担当の風呂焚きで、空焚きで怖い思いをしたことはあるのですが、原子炉での空焚き?って、オー、テリブルだ。 その後海水が注水されたが、再び水位が下がり、核燃料棒が露出した。

そして核燃料の一部が溶ける炉心溶融が起きた可能性が高い、などとネット情報で知ったが、じゃあこれからはどうなるの? 不安は募るばかりだ。そこのところを、誰か正確に教えてくれませんか。

その後、昨日、注水ポンプの燃料切れなどがあったり、再起動に時間がとられたりしながらも、午後8時過ぎには海水の注入が再開、燃料棒の下半分まで水位を回復させたが、11時に原子炉容器の弁が閉まり、内部の圧力が高まったため注水ができなくなった。再び核燃料棒は露出した。

そして15日の午前0時過ぎに、圧力を下げるため外側の格納容器の弁を解放した。この状況下で、弁を解放したらどうなるの?濃い放射能が、外部に漏れるのではないの。

以上がヤフーのどこかの新聞から得た情報に、私なりのコメントをした。もう懲り懲りだ。こんな物騒な原発など、もう嫌だ。

私の友人は、洗濯物を乾している私に向かって、福島原発で発生した放射能が、体に悪影響を及ぼす濃度になって、今、風に乗ってこちらに向かって吹いているんだよ、ヤマオカ先輩、洗濯物を外に乾してはだめですよ、と諌(いさ)めてくれた。友人は物分りの悪い私を、明らかに憫笑(びんしょう)していた。

私も、些(いささ)か動転しているようです。文章がしっちゃかめっちゃかになってしまった。スマン。

2011年3月12日土曜日

私の娘、三女・ソの最近の作品です。

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20110309に撮影した。

それぞれ、一体の全長は10センチ ほどです。顔や、体つきを本物そっくりさんに作成  しているのです。向かって左がサクラで長女の家に住んでいて、黒いのがツバサで右がポンタ、この二匹は我が家のものです。

本物に、なかなか、よく似ているんです。制作者本人はまだまだ満足していないようですが、子供の頃から図工が苦手だった私には、天晴(あっぱ)れなモンだ、と感心させられっ放しです。

2011年3月9日水曜日

河津桜が満開だった

雪が溶けて川になって 流れてゆきます

つくしの子がはずかしげに 顔を出します

もうすぐ春ですね ちょっと気取ってみませんか

この陽気、キャンディーズの「春一番」の歌声が聞こえてきそうだ。蘭ちゃんら三人の可愛い顔がちらちら脳裏に掠(かす)め、私の顔にニンマリ線が走る。

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弊社は、不用〈要〉になった中古住宅を取得して、間取りの変更、内装外装、トイレやキッチンを取り替えるなど、リフォームを施して再び住宅市場に流通させることを、主たる事業にしている会社です。中古の戸建住宅を年間を通じて、これだけのボリュウムをこなしている会社は、神奈川県内では弊社以外には、類をみないと自負しています。

先日のことです。20110304、AM11:30。

三浦市南下浦町(したうらまち)上宮田で最近、売主さんから引渡しを受けた中古戸建を、リフォーム前に見ておかなくてはイカンと思って、別件、横須賀市秋谷での打合せを終えてそちらに向かった。

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その中古戸建の最寄の駅は京浜急行久里浜線・三浦海岸駅で、駅から徒歩15分、三崎口駅からも、同じぐらいで歩けると思いますよ、とは担当者・佐の弁。京浜急行が開発した整然と区画された分譲地内だ。土地、建物の大きさや外観は、どの家も似たり寄ったりで余り特徴的な印象はない。家の主(あるじ)はせめてもの、自分の家こそはとの思いから、奇抜な色で外装を施した家が、ところどころにあって、その程度がせめてもの特徴と言える。大概にして、どこにもある普通の街並みだ。

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国道134号線を、三崎口駅を過ぎたところで、三崎に向かって左に折れた。

三崎口駅の周辺が、なんだか様子が変だぞと感じた。昼間なのに駅前周辺には人だかリができていて、その人たちが列をなして、脇の道を歩いていくのです。梅とは思えない樹木がところどころにあって、それが桜の木だと気づいたのは、少し時間が経ってからのことだ。花を愛(め)でている老人たちの視線は熱い。

私は、近所のオジサンから以前に河津桜のことを聞かされたことがあったので、この時期、ひょっとして、この赤みの帯びた花は河津桜なのでは、と思い当たった。河津桜の色は赤味を帯びたピンクなんだと教えてくれた。桜は、染井吉野のあの淡く薄いピンク色が、日本の代表として相応しいじゃないの、と生意気なことを言ったことも憶えている。帰途、三崎口駅に寄って、駅員さんにこの花は河津桜ですよねと確かめたら、よくご存知ですねと言われた。伊豆の河津ですよね、あの温泉のある、河津七滝とかもありますよね、ーーこれは私の発言です。

当該物件に向かって車を走らせた。三崎口駅から三浦海岸駅への線路に沿った道を走っていたのですが、桜見物の人びとがぞろぞろ、向かう人戻る人が路肩からはみ出していた。1キロメートル程は人間の数珠繋ぎ。小松ヶ池公園では茣蓙を敷いて酒宴を楽しむグループもいた。楽しそうだった。酒好きの私は、酔っ払いが突然道路に飛び出してこないか、と慎重にハンドルを握った。酔っ払いの人にこそ注意を払わなくっちゃ。同類相憐れむようなことが断じてあってはならない。

同じ時期に花が咲く河津桜と菜の花がセットになっていた。この光景は本場の伊豆の河津でも同じだ。どちらの河津桜の紹介写真も、この菜の花とのコンビだった。河津桜紹介の定番のようだ。

桜の花の盛りは過ぎてはいるが、まだまだ楽しめるようですから、足を運ばれては如何かなと、三浦市観光協会のオジサンになった心算で広報しているのです。

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昨年、東京演劇アンサンブルのブレヒトの芝居小屋で観た坂口安吾の「桜の森の樹の下で」が、余りにも印象的な演出だったので、桜の花吹雪とその下で繰りなす男女の諍いを、どうしても思い出してしまった。皆さん、桜の下を歩いていて、気が狂わなくてもいいのですか、と途方もないことを言い出しかねない。このオヤジは危険だ。一時的にちょっとだけ、可笑しな人間になってしまったようです。気になさらないでください。

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アホな私のことは放っぽらかして、皆さんは、どうぞ静かに桜の花をお楽しんでください。

河津桜は、1955年、静岡県賀茂郡河津町田中で原木が発見された。早咲きで、2月中旬に咲き出し、3月の初旬まで花を楽しめる。花が咲いている期間は、染井吉野などよりも長いように感じる。

桜の花に気をとられて、本業をすっかり失念してしまいました。下の写真が桜の花見の場所から少し離れたところで、弊社が今後、リフォーム後に販売する予定の物件です。いい物件ですから、弊社のホームページの販売物件欄を注意していてください。リフォーム後公開します。物件の詳しいことは弊社にお問い合わせください。外装は全面的にペンキの塗り替えをしますので、今度ご紹介するときには大変身しているでしょう。

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20110315、古新聞を整理していたら、20110306の朝日新聞で河津桜を報道している写真を見つけた。写真と記事をそのまま、ここに使わせてもらった。流石(さすが)、一葉の写真からでも、本場王者の貫禄のようなモノが感じられる。

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静岡県南伊豆町の青野川沿いで、満開の河津桜と菜の花が共演している。写真=吉本美奈子撮影。暖かな春の日差しに包まれた5日、約800本の河津桜が並ぶ土手は菜の花の香が漂い、家族連れなど散策する人たちでにぎわった。

2011年3月7日月曜日

何故、人間は食事をするのか

何故、人間は食事をするのか

一人暮らしを始めて、最初の壁にぶつかったのが食事だ。

食事は一日の生活の中では、ありふれた作業の一つだけれども、抜くわけにはいかない。だって食わないと体は弱り果て、どこかに不具合が発生し、最期は死んでしまうことになりかねない。私の場合はと言えば、体が弱る前に精神の狂乱が顕著に表出するだろう。食うことが絶対的な生活習慣になっている。食事はありふれた作業なのに、誰にとっても生活していく上で最優先重要課題だ。だから、食事に関わる全てのことに楽しく取り組みたいと思っている。

汚れ物を洗濯して乾してしまい込む、そして奇麗に畳んで収納する、私にとってこれは一番困難で苦手なのですが、洗濯を暫くしなくたって、当面死に至る程の危険に晒されることはない。掃除についても然りだ。今はその件についてはちょっと横に置いて、食事のことを話そう。

食事は楽しくなければならない。そうでないと毎日が続かない。高級なレストランでは、照明や装飾が豪華に施され、サービスが行き届き、立派な食器が用意され、気の利いた音楽が流れ、贅を尽くしたメニューがテーブルいっぱい並べられる。一流のシェフ。厳選、吟味された食材。世界各地から取り寄せた名品揃いのドリンク類。このようなレストランでは、内容も演出も完璧に整っている。たまには、こういう所での食事も必要だ。全ては食事を深く楽しむために。そして、楽しい人間ドラマの開幕のベルが鳴る。

何も高級レストランでなくても、粋な店主の人柄が地元で支持され、充分に食事を楽しませてくれる食堂も結構あるものだ。私は、この類の店をいくつも知っている。このような店では、店主との会話が重要な要素になることもある。店主は、オッサンのときもあれば、オバちゃんのときもある。決して高価な食材は使われていないが、家庭的な雰囲気で、ザックバランで、肩肘張らない、行儀は二の次、寛いだ状態で食事を楽しめる。大声、哄笑、へっちゃらだ。量販の飲み物でさえ、このような店では、何故か美味(おい)しく味わえる。

料理の前に、先ずは何をどのように作るか、出来上がりをイメージして算段する。肝腎なことは、今、俺が何を食いたいのかをハッキリさせることだ。肉なのか魚なのか、野菜なのか。肉なら何の肉か、魚ならどの魚を食いたいのか、緑黄野菜は足りているか、旬の物も当然添えなくてはイカン。

それから、栄養のバランス、消化がし易いのかし難(にく)いのか、主菜は動物性なのか植物性なのか、農薬などの薬品の残留はどうなっているか、防腐剤、着色や添加物に危険性のあるものが含まれていないか、そんなことも考える必要があるだろう。

そうこうしていると、毎日の朝昼晩の食事のことが頭から離れなくなってしまった。変化が起こっている。確実に次の食事の準備の体制を知らず知らずのうちに整えている。

何故? 食事のことが、これ程までに比重がかかってきたのか?と思いを巡らせてみたが、よく解らない。生きるために食うという本能のなせる仕業(しわざ)だけなのだろうか。科学的な根拠を知りたいと思っても、これ以上の考察は自力では進まない。

そんな折、20110306の早朝(06:00前後)のNHKで、この私の行き詰った疑問に対する答えのような放送があった。私は貧しくも楽しい食事中だった。そこでオーソリティーの話のダイジェストを試みた。

何故、人間は食事をして、食べ物を摂取するのか?

栄養素の中でたんぱく質は保存ができないそうなのです。学校で学んだことを思い出してみよう。栄養の五大要素とは、たんぱく質、脂質、無機質(ミネラル)、炭水化物、ビタミンの5種類のことをいう。たんぱく質は、アミノ酸が多数連結してできた高分子化合物。たんぱく質は血液や筋肉、臓器の主要な構成成分であり、また酵素、抗体、ホルモンの原料にもなる。その五大栄養素の中で、たんぱく質だけは保存が利(き)かないのです、と何度もオーソリティーは話されていた。

たんぱく質以外の栄養素は保存、貯蔵が利く。よって、太って体重が増えたり、腹の周りに脂肪がつくのはこのためだ。偏食による弊害もこのことで発生するのだろう。

たんぱく質の細胞は、長く生きるのではなく、細胞が生まれては死ぬ、また死ぬことによって新しい細胞の生成が促される、とのことだった。この発言を裏付けようと、なんだかんだと調べてみたのですが、このことに触れている情報は身近には見つけられなかった。

だから、大怪我や病気になって食事ができないと、病院などでは直ぐに点滴をする。流動食を摂らせる、口から摂取できない時は喉を切開してまで流動食を流し込む。そこまですることはないんじゃないの?昨日までは満足に食事をとっていたのだから、ストックはあると思うのですが、やはり、どうしても食事をしなくてはならない理由が、この辺りにあるようなのだ。納得した。

たんぱく質は保存が利かない、だから、生きるためには食事がどうしても必要なのだ。そのために食事を迷わずに、楽しく頂ける(なんチュウ、適切な感謝の言葉よ。天から頂いている、そんな気持ちが込められている)ように知恵と技巧を駆使しながら料理をすすめる。その作業こそが、人間の生きる喜びにつながり、生きていく力の源泉になるのだろう。

食わないと死ぬのではなくて、死なないために、食うようだ。