2011年3月23日水曜日

リフォーム工事と小田原城

今日は水曜日、20110323。毎週水曜日は、弊社の営業部の定休日だ。

水曜日は、私にとって、楽しみながら仕事する?ってちょっと不真面目に聞こえるかもしれないが、スタッフのことも気にしないで、勝手気儘(きまま)に仕事をしながら、何かを楽しむ日なのです、と言えば解ってもらえるだろうか。その何かは、種々雑多、多種多様です。

今まで、そのように定休日を過ごしてきたのですが、今日は最も典型的な私流の休日になった。

10:00に国府津にある中古の戸建住宅のリフォーム工事の手直しを施工会社と打ち合わせをした。弊社の売却済みの商品です。購入して頂くお客さまは決まっています。物件の担当者はお休み。担当者のためにも抜かりなく打合せをしておかないと、笑われてしまう。和やかなうちに、打合せは終了した。

それから小田原城に車で向かった。車の中は、私、原発避難民の西、それから孫・晴の男三人の晴れ姿。晴に本物のお城を見せてやりたかったのです。

これからが、私のお楽しみの部分なのです。ネットやお城でいただいた印刷物から知り得たことも、書き加えました。楽しい一日になりました。晴は、私たちに無理なことや、駄々っ子はしなかった。

復興天守

(復興天守閣。ウィキペディアから頂いた)

娘=次女の長男、私にとっては目に入れても痛くない可愛い孫・晴が、昨日が卒園式で、今日から小学校の入学式までが休みなのです。ところが、晴は可哀相に、昨日の卒園式をインフルエンザで欠席せざるを得なかった。その鬱憤(うっぷん)晴らしに、大いに家の中で暴れまくってくれたようだ。母親は、体のでかい子どもにさどかし手を焼いたことだろう。なんせ、体力があるのです。

この春休みの一日をジジイである私と一緒に過ごそうよ、と声を掛けたのでした。その企画として、今日の、リフォーム工事打合せと小田原城見学をセットしたのです。なかなかいい企画だワイと我ながらご満悦でした。

下の写真は小田原城天守閣ですが、入口の入場券売り場で貰ったパンフレット「相州小田原城」の小田原城関係略年表を読んでギョッとした。過去の地震の記載に目を奪われたのです。

20110311、未曾有の強い地震「東日本大地震」に遭ったばかりで、地震の恐ろしさが未だに冷めやらない。被災地では懸命な救助活動が今も夜を徹して行なわれている。福島原発の炉心溶融が止まらない。原子炉に損傷が発生して大気や海水の放射線濃度が高まってきている。今でも一万人以上の行方不明者の消息が判明していない。

略年表には、小田原城が築城されてからの歴史が年譜で著されていて、度々の震災の歴史に瞠目した。やはり、日本は地震の歴史なのだ。今だからこそ、震災をより痛く感じるのだろうが、復興に立ち向かった先人達の逞(たくま)しい精神力とその凄然とした労苦を思うに心が重くなった。

地震の歴史というのは、次の通りです。元禄16年 1703 元禄関東地震発生し、天守など倒壊焼失/宝永3年 1706 天守再建される/享保6年 1721 元禄関東地震による修復工事が完了/天明2年 1782 天明地震により、天守が傾く/嘉永6年 1853 嘉永地震により、石垣などが崩落/大正12年 1923 関東大震災で石垣が崩落。この小田原城の震災の歴史だけでも、凄いものを感じた。

戦(いくさ)としては、北条早雲の小田原城を、上杉謙信や武田信玄が攻め、ついには豊臣秀吉の攻めにより、北条氏が滅び、徳川家康側の家臣が入城した。これらが代表的な戦いであり、政変でもあったのであろう。

小田原城 003 

(原発避難民の西と孫・晴)

天守閣を見学した。

いつもは、この類の見学に参加しても、見聞きすることにいい加減だった。ところが今回は、何故か、落ち着いてゆったりした気分で、展示物を見て回ることができた。私の心の中にも、変化が生まれているようです。忙(せわ)しなく、時間を気にして、いらいらすることもなくなっていた。

 

以下、天守閣の紹介に「小田原城歴史見聞館」を利用させて貰う。

江戸時代に造られた雛型や引き図を基に昭和35年に復興されました。3重4階の天守に付櫓(つけやぐら)、渡櫓(わたりやぐら)を付しています。なお、最上階の高欄(こうらん)付き廻縁(まわりえん)は復興に際して新たに付けられたものです。内部には、甲冑・刀剣・絵図・古文書など、小田原の歴史を伝える資料や、武家文化にかかわる資料などが展示」されています。

 

最大の特徴は、豊臣軍に対抗するために作られた広大な外郭である。八幡山から海側に至るまで小田原の町全体を総延長9キロメートルの土塁と空堀で取り囲んだものであり、後の大坂城の惣構を凌いでいた。1614年、徳川家康は自ら数万の軍勢を率いてこの総構えを撤去させている。地方の城郭にこのような大規模な総構えがあることを警戒していたという説がある(Wikipediaより)

小田原城 009

(食堂で、サッカーボールおにぎりを頬張る)

次女は、昼飯用としておにぎりにお漬物を添えて、晴に持たせてくれたのですが、寒くて、外では食う気になれなかった。温かいうどんについ惹かれてしまった。北条うどん、750円。次女もお母さん役を立派にこなしているな、と嬉しくなった。

晴は、お店の中は暑いよと言って、半そでシャツ1枚になっていた。

晴にとっては、何処へ行くにも、サッカーボールは必携です。晴は、言ってくれるんですよ。俺はジジイにあこがれているんだ、サッカーが上手くなりたいんだ、って。どこまでも可愛い孫だ。

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(猿とにらめっこ)

キッカーとキーパー役を交代で、何度もなんども繰り返すのです。

私にとっては、寒さしのぎ程度の付き合いなら耐えられるのですが、それが長時間になってくると、なかなかの苦痛モノです。15分だけよと言っても、その15分を3回も4回もやらされるのです。最後の5分を誤魔化してやろうとして、後1分だよ、と言っても近くにある時計で確認していて、私の姦(奸)計(かんけい)を、いとも簡単に確実に見破る。流石(さすが)、私の誇り高い孫だ。お利口さんです。

小田原城 011

(北条氏の家紋だろう)

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ここで、ワンポイントレッスン。

「小田原評定(おだわらひょうじょう)」の由来=小田原城が豊臣秀吉の軍に囲まれたとき、和戦の相談が長い間まとまらなかったことから、話し合いがだらだらと長引いて容易にきまらないこと。このようなときに使われるようになった。(日本語大辞典 講談社より)

1590年、豊臣秀吉は天下統一の仕上げとして、小田原城を総攻撃した。この戦は小田原の役とか小田原征伐と呼ばれる。秀吉は圧倒的な物資をもって取り囲むとともに別働隊で関東各地の北条氏の支城を撃破し、篭城戦によって敵の兵糧不足を待ち逆襲しようとした北条氏の意図を挫き、3ヶ月の篭城戦の末ほとんど無血で開城させた。この篭城戦において、北条氏側が和議と抗戦継続を巡って議論したが一向にまとまらなかった故事が、小田原評定という言葉になっている。〈Wikipediaより)