2016年11月24日木曜日

横浜に雪が!!


 横浜に雪が!!


樹木が紅葉した公園で雪が降り続いた=24日午前8時39分、東京都練馬区の光が丘公園
(林紗記氏撮影)


深夜(11月23日の夜~24日未明)から、雨がしっかり降っていた。

2階で一人寝なので、ガルバリュムの屋根に当たる雨音は、私だけには強く感じられた。
雨を受けるクッションがリズム的なのだ。
ときには安寧に、脳の端くれが落ちついてないときには、五月蠅(うるさ)いのだ。

畜生、糞くらえ。
朝から雨なら、悔しいけれど辛抱するしかない。
と、深夜から早朝にかけてそう思っていた。
まだ11月だ、この雨が雪になることはない。
そんな気持ちで、パジャマを脱ぎ、歯を磨いた。

ところが、朝飯を食っている最中に、その雨に雪粒が混ざってきた。
そして、その雪が霙(みぞれ)状態のまま、すっかり中身の濃い霙になった。
その後、霙が雪になったり、霙のままだったり。
昼飯前には、雪や霙は少しになって、昼過ぎにはすっかり止んだ。




ネットで、「ゆき女」のイメージをいただいた。


歌手の新沼謙治さんが、「津軽には七つの雪が降るなんて」、と歌っていたが、果たしてどんな種類の雪だったのだろう?
その歌は、「津軽恋女」だ。

愛に生き、恋に生きる津軽恋女は、枕乱して引いていく。
こんな歌だった。
こな雪、つぶ雪、わた雪、ざらめ雪、みず雪、かた雪?
それでも、今日のこの雪は、春待つ氷雪なんてものじゃない、だろう。

ところで、横浜の雪はどんな雪だったんだ。
こんなに早くに雪が降るなんて、どういうことだ? と疑問は残った。

夕刻、自宅に帰って朝日新聞・夕刊を読んで、今日の雪の内容を知った。。
雪の要因は、偏西風の蛇行が強く、大陸から真冬並みの寒気が東日本にかけて流れ込み、零下3度以下の寒気が南下したことが大きい。
ここに、本州の南側を通る「南岸低気圧」が加わった。
24日も、東京・伊豆諸島付近の前線を伴った低気圧が東に進み、この低気圧によって雨雲が発生。雨から雪に変わった。

東京で11月に初雪が観測されるのは、1962年以来54年ぶりで、記録的には早い初雪となった。
横浜、甲府市でも54年ぶりだ。
ただ、地上までの空気の層によって気温が異なるため、地上に到達するまでに雪が解けてしまうこともある。
24日の午前6時の都心の気温は1,9度。
こうした条件が重なったことが、54年ぶりの初雪になったのだろう。

2016年11月22日火曜日

白瀬探検隊


白瀬探検隊(2016 11 21 朝日新聞朝刊)を
そのまま転写した。

白瀬探検隊のことは、25年前ほどの日々、神経をピリカン、体は膠着状態にして、全ての出版物を読みまくった。

このような探検者の探険物に、私の頭は気が狂いそうなほどだった。
本田勝一の探検物や、冒険物を読んでいて、この白瀬物に加わってしまった。
書物にでてくる内容の全てを、学校の教科書のように読み漁った。

今日(11月21日)の朝日新聞・朝刊に、白瀬中尉の南極点を目指した際の記録映画の記事が載せられていた。

私、今、少し体の調子がよくないので、記録されていた上映会に参加できないのが、血が煮え滾(たぎ)るほど悔しい。
かってなら、参加者のだれよりも、気合を入れて見に行ったことだろう。

私は、他の記事に見向きもせず、その記事に狂(繰る)ってしまった。
「クルって」を表現するのに、どちらの「狂う」、「繰るう」を使えばいいのか、本気で、私の頭は可笑しくなったようだ。

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これからは、下線までの文章は紙面のままだ。


百年前の南極動画 デジタル復元





白瀬探検隊が撮影 無声記録映画  (東京で24日上映)





白瀬陸軍中尉率いる探検隊が、100年余前に日本人で初めて南極点を目指した際の記録映画を、東京国立近代美術館フィルムセンター(東京都中央区)がデジタル復元した。
24日に上映される。
46分で日本最古の長編記録映画でもある。

白瀬隊は、南極点への初到着を果たしたノルウェーのアムンゼン隊、2番種の英国スコット隊と競い、1912年1月28日に南緯80度5分までたどり着いた。
その地を「大和雪原」(やまとゆきはら)と名付けた。
この快挙を当時、動画で記録していた。



同年に公開されたオリジナルのフィルムは現存しないとみられるが、フィルムセンターによると、探検出発から20周年の30年に、探検隊関係者が複数のフィルムを集めて、無声映画「日本南極探検」を作ったとされる。
白瀬は探検に要した多大な借金の返済のため、映画を上映し、講演して各地をまわった。

フィルムセンターは約9年前、白瀬隊の支援者だった村上俊蔵氏の遺族が所有する「日本南極探検」のフィルムを見つけた。
35ミリで5巻851メートルあり、40年に内務省の検閲を受けた記録もあった。

探検隊員らの顔ぶれ、ペンギン、南極上陸から帰国までの映像のほか、後援会長だった大隈重信の屋敷での壮行会、「開南丸」出航の様子も入っていた。

一部オレンジや青に染調色が施された可燃性ポジフィルムのため、フィルムセンターは最新のデジタル技術で傷を消し、不燃性フィルムに復元して、当時の色調で着色も一部に施した。

24日は午後3時から7時からの2回、フィルムセンター2階大ホールで上映される。
定員310人(各回入れ替え制)、一般520円、高校・大学生・65歳以上310円など。
問い合わせはハローダイヤル(03・5777・8600)へ。
上映の前と後に、復元にかかわったフィルムセンター研究員の講演もある。

(中山由美)

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以下は、2010年12月30日の私のブログからーーー
 



白瀬矗(のぶ)の名に、胸に高鳴りが

探検はロマンだ。未知の分野であればあるだけ、そのロマン度も高まる。

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20101221の朝日新聞・夕刊に「南極探検100年、白瀬の伝言」の記事が掲載されていた。
題字は「苦難の道のり 世界が評価」で始まっていた。
この白瀬陸軍中尉の名を、新聞の一コーナーと言えども、目にしてしまった以上、私の胸の高鳴りはどうしても抑えようがない。

かって集中的に白瀬に関するものや、アムンゼン、スコットなどに関連する探検本を読み漁った時期があったのです。
今から20年程前のこと、私が40歳頃のことでした。

新聞記事を読んで、私は探検モノにちょっとばかり知識があることを、密かに自負していることに赤恥したものの、この胸の高まりはどうにもおさまらない。

新聞記事にはスペースに制限があるので、そんなにノタリクタリとは書けないのはよく解っているのですが、他にも知っていることが「私」にはいっぱいあるので、皆、聞いて、みんなもっと聞いて、状態になってしまっていた。
またまた不遜、恥ずかしい限りだ。

とっかかりは本多勝一さんの本「アムンゼンとスコットー南極点への到達に賭ける」(出版社・教育者)だった。

本多さんが所属していた京都大学探検部の指導者で精神的主柱の今西錦司さんを知り、この今西錦司氏の個性の魅力にはまった。
その種を蒔いたのが西堀栄三郎、学問の分野は違えども生態学研究センターの井上民治、最後は国立民族博物館を創立した梅棹忠夫。

この人たちの研究論文は読めないし理解できないが、エッセイや記者との会話を文章にしたものに触れて、一時期彼らに現(うつつ)を抜かした。
東京を中心とした中央に対する在野の意地が感じられ、京都府出身の私には彼らの活躍が快く感じられた。勝手に親近感を持っていた。

それから、ここにたどり着くのです。共同通信の記者だった加納一郎さんの訳したスコット隊の生存者であるアスリー・チェリー・ガラードの探検記「世界最悪の旅」(出版社・中央公論新社)だ。

戦中に発行された、この本を読んで尻に火が点いた。
それから、アムンゼンの先輩ナンセンの「フラム号 漂流記」(加納一郎訳)。
興奮しまくりの勢いのまま、これらをまとめた加納一郎著作集全5巻を手に入れた。
そのときの感動は忘れない。

探検に興味のある方は、どうか私にお申し出ください、貸し出します。
探検とは何かを生涯説き続け、極地研究と啓蒙に尽くした加納一郎氏、この全5巻は私の脆弱な精神構造を強く支えてくれているのです。

精神的に落ち込んだり、苦しくなったとき、引っ張り出してきて、端々をつまみ読みする習慣が身についてしまった。

苦しい時の--------、神ならぬ、加納一郎氏であり、ドフトエフスキーさんだのみだ。
1巻=極地の探検  2巻=フラム号漂流記  3巻北海道の山と雪  4巻=自然のなかで  5巻=世界最悪の旅(5巻のみが、我が書庫に見つからず)



2016年11月21日月曜日

牡蛎をいっぱい食べたゾ

牡蛎をいっぱい食べたゾ

平成28年(2016)11月16日

10:45~

 
横浜市金沢区の「海の公園 かき小屋」へ、新鮮な海産物をいっぱい食いに行った。



横浜市金沢区海の公園10  海の公園内
シーサイドライン八景島駅改札を出て右方向、3分。
屋外104席(テーブル 26)
屋内80席(テーブル 20)
犬同伴席16席
コンテナ席には、4人掛けのテーブルが4卓入っていて、最大16人で個室利用が許されている。



行ったのは、我が家の3人だけ。
我々夫婦と、妻の母。
義母は89歳。
我々夫婦の子供か?孫の一人でもいれば、もっともっと楽しかった!

我が家の道路向かいに住んでいる孫は、風邪のために欠席。
年齢は1歳4か月の女の子。
私にとって、7番目の孫だ。
この子とその母親が一緒に行く予定だったのに。
病欠とは、とっても辛いワ~
両親が働いているので、昼間は保育園。
この子の可愛らしいことを述べるには、このブログぐらいでは、何もかも足りない。

さあ~て、小屋でのお話に入ろう。
色んな種類の魚産物が山のように置かれいて、そこからお好みの品を選び出して、お勘定を済まし、真っ赤な炭火の囲炉裏の網にのせて、いただいた。

選び抜いた品物は、★三陸産かき(牡蛎)、★いか(烏賊)、★三陸産ホタテ、★サザエ、★イワシ丸干し、★とり手羽、★乙舳汁(おっともじる)、★かき飯などだ。


車のハンドルをもたない私の左手には、ビールのグラスと日本酒の瓶。
私にとって、この手の舞台は、堪らなく好きなのだ。
妻の顔はウ・ラ・ヤ・マ・シ・イ印(じるし)。
年取った義母だって、旺盛な食欲を発揮、その嬉しい表情に感動した。

 
 

2016年11月9日水曜日

政子の井戸


政子の井戸


昭和49年(1979)、学校を卒業した。


昭和53年(1983)、学校を卒業して入社した会社の都合で、当時横浜駅前で一番高かったビルの20階にある不動産会社に転勤になった。
入学が他人(ひと)よりもおくての私は、27歳だった。

昭和54年(1984)、イラン革命に端を発する石油の供給危機で、日本経済は大いに狂いだしていた頃で、会社の方でも、方向転換を大いに狙っていた。
第二次石油危機とも呼ばれた。

手持ちの不動産を、できるだけ早く、多く、売り逃げたかったのだろう。
私にとっては、そんな環境が面白くてしょうがなかった。

お世話になった会社は、神奈川県においては、鎌倉、逗子、横須賀で戸建やマンションを、嫌と言うほどハゼに売り出しをやっていた。
これらの資源は、先代が、戦後のドタバタ時代に、多くを取得していた。
売り出しでは圧倒的にボリュームが多く、他社の人間からは、羨ましがられた。
私は、お客さんの住宅資金、今まで住まいにしていた戸建やマンションの売却を担当するセクション、仲介部に配属された。

私は、いつもの負けん気強さを発揮して、誰よりも誰よりも多く仕事をこなした。

住宅に関しては、様々な法律、条例をマスターしていないと、賢い社員になれないし、いいお客さんに対して喜んでもらえない。

その法律、条令らとはこのようなものだ。
これを、陰日向関係なく理解し、きっちり説明できないと、アカン垂れになってしまう。
建築基準法、宅地建物取引業法、国土利用計画法、宅地造成等規制法、
区分所有法、民法、刑法。

私は、社内で優秀な営業社員だけでなく、いつでも、何があっても、独りで生きていくだけの知恵や方策を身につけていた。
田舎育ちの一匹狼だ。
同業他社からの友人も増えていた。
学校に入る前からドカタ稼業になれていたものだから、このような仕事は一人前。


昭和58年、会社の仲間と保土ヶ谷駅界隈のドライブ中、今回の「政子の井戸」を発見した。
「御所台の井戸」とも言われていた。
なんだ、こりゃ?

政子さんのことは、受験勉強で大いに親しくなった御仁(おひと)だ。
JR保土ヶ谷駅を戸塚方面に1号線を100メートル程進んだところに、細い道で横浜清風高校へ向かう道があり、その道の入り口にある。
この坂道を、旧金沢街道(かなざわかまくら道)のいわな坂(石名坂、磐名坂、石離坂と諸説がある)と言われている。

あの源頼朝の北条政子さんのことか?と同乗者に話しても、色よい返事は返ってこなかった。
私は、受験勉強で、日本史に関しては、どんな問題が出されようと95点以上は稼げるだけの力を身につけていた。
英語は70%、日本史はほぼ満点、国語は70%をとれるだけの実力を身につけていた。
ぶっちゃけた話、英語や国語で多少失敗しても、日本史で100%とれば、何とかなる。
これが、私の受験戦略だった。


北条政子。

伊豆の国の豪族だった北条時政の長女の北条政子は、鎌倉幕府を開いた源頼朝の正室になった。
どこで、どのような縁があったのか、正室とは奥さんのことだ。
頼朝が1192年に鎌倉に政権を樹立すると、御台所と呼ばれ、頼朝の死後は尼御台、最後には尼将軍とか女将軍とか称され、抜群の力をつけた。
私が受験浪人だったときに、鎌倉幕府ができた年のことを、「1192をイ・イ・ク・ニ作ろう鎌倉幕府」として憶えた。

社会の先生が、政子が自陣の兵への演説で、「頼朝公の恩は、山よりも高く、海よりも深い」を、意味深長に話したことが、印象深い。

ここで、何故、井戸?なんだろうと考えた。
綺麗な人だったのだろう、お化粧をしたのか、身についた汗を拭き切るためだったのか?
別嬪さんで、色香たぐわしい人だったのだろう。
力をつけた女将軍のことだから、政子が来たからには、地元の民衆は騒ぎたてたのだろう。

その後、天皇や将軍が保土ヶ谷宿の軽部本陣に立ち寄った際には、この井戸の水で料理を作った。


 政子の井戸 その2



それから、20年後。


7年前のこと、私の勝手な都合で、一時的に住んでいた横浜市泉区のアパートのそばに神社があって、馬頭観音の碑が建てられてあった。

相鉄線の「弥生台駅」から、歩いて10分。
木が幾つも樹立していて、小さな森になっていた。
神社の名は、横根稲荷神社。

その森の一番奥まったところに本殿があって、その脇に碑が建てられていた。

近所の老人に神社の話を聞いたところ、昔、ある女性が使った井戸がかってあったのですよ、だった。

早とちりの私は、政子の井戸が、ここにもあるんだ、とかん違いをしていたようだ。



むかし、木曾義仲の夫人、巴御前は女武者として義仲とともに勇名をはせていました。
しかし、寿永3年(1184)に近江で義仲が敗れると捕われの身となり、和田義盛に引き取られて、義盛の本拠地三浦で暮らすことになりました。
そして建歴3年(1213)の合戦で義盛も敗れ、巴御前は木曾へと落ち延びていきました。
途中、横根稲荷神社で一夜を過ごした巴御前は、境内にある鎌倉石と七沢石で囲われた古井戸の水を化粧の水として使ったと言われています。
その後、この井戸は「横根の感念井戸」といわれるようにな泉区役所掲示による横根稲荷神社の由緒です。



2016年11月1日火曜日

金閣寺炎上

金閣寺炎上

三島由紀夫の著作・「金閣寺」は、1956年(昭和31年)に新潮社からは出版された。
私は、それから20年後に読書した。
金閣寺は、京都府京都市上京区金閣寺町にあった。

学校を卒業して2年、結婚した年だ。
主人公の心模様は、難しい文字で綴られていた。
それでも、この本に関しては、三島由紀夫の不思議な虜(とりこ)なった。
大学時代の私は、「いじけた左翼ぶり青年」だった。

そして、今年2016年の10月。
100円でも買える安売りブックストアーで、水上勉の「金閣寺炎上」を手に入れて読了。
この本は恐ろしいほどのノンフイクションで、気合を入れて、入れて読んだ。

仕上がるまでに、書き始めてから26年とか29年掛かった。
目くるめく?詳細な記述に、読書の初めは、頭が痛くなった。
水上勉の、生まれながらの修練か?なんて言うと、叱られそうか。

水上勉は福井県本大飯郡本郷町(現:おおい町)生まれ。
放火した林承賢は、京都府舞鶴成生で生まれ育った。
水上が舞鶴で、教員として勤めたころに、林に会っている。
同じく仏教徒をめざしていたので、それなりに意識していたのだろう。


三島由紀は人間のいわゆる美意識を金閣寺炎上事件に見たが、水上勉はそこに人間を見た、とある評論家は述べていた。

三島由紀夫は「自分の吃音や不幸な生い立ちに対して金閣における美の憧れと反感を抱いて放火した」と分析したほか、水上は「寺のあり方、仏教のあり方に対する矛盾により美の象徴である金閣を放火した」と分析した。

この金閣寺の炎上事件を、三島由紀夫は「金閣寺」を水上勉は「五番町夕霧桜」を書いている。



鹿苑寺金閣(臨済宗相国寺派の別格地)




足利義満 (室町幕府3代将軍)


鹿苑寺金閣は、国宝保存法により国宝に指定されていたが、1950年(昭和25年)7月2日未明、学僧・林承賢(当時21歳)の放火により炎上。
私の生まれは、1948年(昭和23年)なので、生まれて2年後に炎上したことになる。

国宝金閣(舎利殿)は全焼、国宝足利義満坐像、運慶作の観世音菩薩像、春日仏師作の夢窓疎石像等10体の木像等も焼失した。

林承賢は、寺の裏山で「カルモチン」を飲んで自殺を図ったが、一命を取り留めた。
大谷大学予科 中国語学科1年生。

彼の母親は事情聴取のために京都に呼ばれ、その帰りに、山陰本線の列車から亀岡市馬堀付近の保津峡に飛び込んで自殺した。

逮捕当初の取り調べによる供述では、動機として「世間を騒がせたかった」や「社会への復讐のため」などとしていた。
しかし、金閣寺炎上では、実際には自身が病弱であること、重度の吃音症であること、実家の母から過大な期待を寄せられていることのほか、同寺が観光客の参観料で運営されており、得度を授かった僧侶よりも事務方が幅を利かせていた。

寺の運営は、金銭欲を持たず自身を無にする禅寺修行が行われず、拝金主義であった。
林には、厭世感情からくる複雑な感情が入り乱れていたとされる。


 焼失直後の金閣寺 (昭和25年7月2日)


1956年(昭和31年3月7日)、結核と重度の精神障害により、京都府立洛東病院に入院中に、26歳で亡くなる。その後、この病院はなくなった。