2016年11月22日火曜日

白瀬探検隊


白瀬探検隊(2016 11 21 朝日新聞朝刊)を
そのまま転写した。

白瀬探検隊のことは、25年前ほどの日々、神経をピリカン、体は膠着状態にして、全ての出版物を読みまくった。

このような探検者の探険物に、私の頭は気が狂いそうなほどだった。
本田勝一の探検物や、冒険物を読んでいて、この白瀬物に加わってしまった。
書物にでてくる内容の全てを、学校の教科書のように読み漁った。

今日(11月21日)の朝日新聞・朝刊に、白瀬中尉の南極点を目指した際の記録映画の記事が載せられていた。

私、今、少し体の調子がよくないので、記録されていた上映会に参加できないのが、血が煮え滾(たぎ)るほど悔しい。
かってなら、参加者のだれよりも、気合を入れて見に行ったことだろう。

私は、他の記事に見向きもせず、その記事に狂(繰る)ってしまった。
「クルって」を表現するのに、どちらの「狂う」、「繰るう」を使えばいいのか、本気で、私の頭は可笑しくなったようだ。

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これからは、下線までの文章は紙面のままだ。


百年前の南極動画 デジタル復元





白瀬探検隊が撮影 無声記録映画  (東京で24日上映)





白瀬陸軍中尉率いる探検隊が、100年余前に日本人で初めて南極点を目指した際の記録映画を、東京国立近代美術館フィルムセンター(東京都中央区)がデジタル復元した。
24日に上映される。
46分で日本最古の長編記録映画でもある。

白瀬隊は、南極点への初到着を果たしたノルウェーのアムンゼン隊、2番種の英国スコット隊と競い、1912年1月28日に南緯80度5分までたどり着いた。
その地を「大和雪原」(やまとゆきはら)と名付けた。
この快挙を当時、動画で記録していた。



同年に公開されたオリジナルのフィルムは現存しないとみられるが、フィルムセンターによると、探検出発から20周年の30年に、探検隊関係者が複数のフィルムを集めて、無声映画「日本南極探検」を作ったとされる。
白瀬は探検に要した多大な借金の返済のため、映画を上映し、講演して各地をまわった。

フィルムセンターは約9年前、白瀬隊の支援者だった村上俊蔵氏の遺族が所有する「日本南極探検」のフィルムを見つけた。
35ミリで5巻851メートルあり、40年に内務省の検閲を受けた記録もあった。

探検隊員らの顔ぶれ、ペンギン、南極上陸から帰国までの映像のほか、後援会長だった大隈重信の屋敷での壮行会、「開南丸」出航の様子も入っていた。

一部オレンジや青に染調色が施された可燃性ポジフィルムのため、フィルムセンターは最新のデジタル技術で傷を消し、不燃性フィルムに復元して、当時の色調で着色も一部に施した。

24日は午後3時から7時からの2回、フィルムセンター2階大ホールで上映される。
定員310人(各回入れ替え制)、一般520円、高校・大学生・65歳以上310円など。
問い合わせはハローダイヤル(03・5777・8600)へ。
上映の前と後に、復元にかかわったフィルムセンター研究員の講演もある。

(中山由美)

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以下は、2010年12月30日の私のブログからーーー
 



白瀬矗(のぶ)の名に、胸に高鳴りが

探検はロマンだ。未知の分野であればあるだけ、そのロマン度も高まる。

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20101221の朝日新聞・夕刊に「南極探検100年、白瀬の伝言」の記事が掲載されていた。
題字は「苦難の道のり 世界が評価」で始まっていた。
この白瀬陸軍中尉の名を、新聞の一コーナーと言えども、目にしてしまった以上、私の胸の高鳴りはどうしても抑えようがない。

かって集中的に白瀬に関するものや、アムンゼン、スコットなどに関連する探検本を読み漁った時期があったのです。
今から20年程前のこと、私が40歳頃のことでした。

新聞記事を読んで、私は探検モノにちょっとばかり知識があることを、密かに自負していることに赤恥したものの、この胸の高まりはどうにもおさまらない。

新聞記事にはスペースに制限があるので、そんなにノタリクタリとは書けないのはよく解っているのですが、他にも知っていることが「私」にはいっぱいあるので、皆、聞いて、みんなもっと聞いて、状態になってしまっていた。
またまた不遜、恥ずかしい限りだ。

とっかかりは本多勝一さんの本「アムンゼンとスコットー南極点への到達に賭ける」(出版社・教育者)だった。

本多さんが所属していた京都大学探検部の指導者で精神的主柱の今西錦司さんを知り、この今西錦司氏の個性の魅力にはまった。
その種を蒔いたのが西堀栄三郎、学問の分野は違えども生態学研究センターの井上民治、最後は国立民族博物館を創立した梅棹忠夫。

この人たちの研究論文は読めないし理解できないが、エッセイや記者との会話を文章にしたものに触れて、一時期彼らに現(うつつ)を抜かした。
東京を中心とした中央に対する在野の意地が感じられ、京都府出身の私には彼らの活躍が快く感じられた。勝手に親近感を持っていた。

それから、ここにたどり着くのです。共同通信の記者だった加納一郎さんの訳したスコット隊の生存者であるアスリー・チェリー・ガラードの探検記「世界最悪の旅」(出版社・中央公論新社)だ。

戦中に発行された、この本を読んで尻に火が点いた。
それから、アムンゼンの先輩ナンセンの「フラム号 漂流記」(加納一郎訳)。
興奮しまくりの勢いのまま、これらをまとめた加納一郎著作集全5巻を手に入れた。
そのときの感動は忘れない。

探検に興味のある方は、どうか私にお申し出ください、貸し出します。
探検とは何かを生涯説き続け、極地研究と啓蒙に尽くした加納一郎氏、この全5巻は私の脆弱な精神構造を強く支えてくれているのです。

精神的に落ち込んだり、苦しくなったとき、引っ張り出してきて、端々をつまみ読みする習慣が身についてしまった。

苦しい時の--------、神ならぬ、加納一郎氏であり、ドフトエフスキーさんだのみだ。
1巻=極地の探検  2巻=フラム号漂流記  3巻北海道の山と雪  4巻=自然のなかで  5巻=世界最悪の旅(5巻のみが、我が書庫に見つからず)