三島由紀夫の著作・「金閣寺」は、1956年(昭和31年)に新潮社からは出版された。
私は、それから20年後に読書した。
金閣寺は、京都府京都市上京区金閣寺町にあった。
学校を卒業して2年、結婚した年だ。
主人公の心模様は、難しい文字で綴られていた。
それでも、この本に関しては、三島由紀夫の不思議な虜(とりこ)なった。
大学時代の私は、「いじけた左翼ぶり青年」だった。
そして、今年2016年の10月。
100円でも買える安売りブックストアーで、水上勉の「金閣寺炎上」を手に入れて読了。
この本は恐ろしいほどのノンフイクションで、気合を入れて、入れて読んだ。
仕上がるまでに、書き始めてから26年とか29年掛かった。
目くるめく?詳細な記述に、読書の初めは、頭が痛くなった。
水上勉の、生まれながらの修練か?なんて言うと、叱られそうか。
水上勉は福井県本大飯郡本郷町(現:おおい町)生まれ。
放火した林承賢は、京都府舞鶴成生で生まれ育った。
水上が舞鶴で、教員として勤めたころに、林に会っている。
同じく仏教徒をめざしていたので、それなりに意識していたのだろう。
三島由紀は人間のいわゆる美意識を金閣寺炎上事件に見たが、水上勉はそこに人間を見た、とある評論家は述べていた。
三島由紀夫は「自分の吃音や不幸な生い立ちに対して金閣における美の憧れと反感を抱いて放火した」と分析したほか、水上は「寺のあり方、仏教のあり方に対する矛盾により美の象徴である金閣を放火した」と分析した。
この金閣寺の炎上事件を、三島由紀夫は「金閣寺」を水上勉は「五番町夕霧桜」を書いている。
鹿苑寺金閣(臨済宗相国寺派の別格地)
足利義満 (室町幕府3代将軍)
鹿苑寺金閣は、国宝保存法により国宝に指定されていたが、1950年(昭和25年)7月2日未明、学僧・林承賢(当時21歳)の放火により炎上。
私の生まれは、1948年(昭和23年)なので、生まれて2年後に炎上したことになる。
国宝金閣(舎利殿)は全焼、国宝足利義満坐像、運慶作の観世音菩薩像、春日仏師作の夢窓疎石像等10体の木像等も焼失した。
林承賢は、寺の裏山で「カルモチン」を飲んで自殺を図ったが、一命を取り留めた。
大谷大学予科 中国語学科1年生。
彼の母親は事情聴取のために京都に呼ばれ、その帰りに、山陰本線の列車から亀岡市馬堀付近の保津峡に飛び込んで自殺した。
逮捕当初の取り調べによる供述では、動機として「世間を騒がせたかった」や「社会への復讐のため」などとしていた。
しかし、金閣寺炎上では、実際には自身が病弱であること、重度の吃音症であること、実家の母から過大な期待を寄せられていることのほか、同寺が観光客の参観料で運営されており、得度を授かった僧侶よりも事務方が幅を利かせていた。
寺の運営は、金銭欲を持たず自身を無にする禅寺修行が行われず、拝金主義であった。
林には、厭世感情からくる複雑な感情が入り乱れていたとされる。
焼失直後の金閣寺 (昭和25年7月2日)
1956年(昭和31年3月7日)、結核と重度の精神障害により、京都府立洛東病院に入院中に、26歳で亡くなる。その後、この病院はなくなった。