2016年11月9日水曜日

政子の井戸


政子の井戸


昭和49年(1979)、学校を卒業した。


昭和53年(1983)、学校を卒業して入社した会社の都合で、当時横浜駅前で一番高かったビルの20階にある不動産会社に転勤になった。
入学が他人(ひと)よりもおくての私は、27歳だった。

昭和54年(1984)、イラン革命に端を発する石油の供給危機で、日本経済は大いに狂いだしていた頃で、会社の方でも、方向転換を大いに狙っていた。
第二次石油危機とも呼ばれた。

手持ちの不動産を、できるだけ早く、多く、売り逃げたかったのだろう。
私にとっては、そんな環境が面白くてしょうがなかった。

お世話になった会社は、神奈川県においては、鎌倉、逗子、横須賀で戸建やマンションを、嫌と言うほどハゼに売り出しをやっていた。
これらの資源は、先代が、戦後のドタバタ時代に、多くを取得していた。
売り出しでは圧倒的にボリュームが多く、他社の人間からは、羨ましがられた。
私は、お客さんの住宅資金、今まで住まいにしていた戸建やマンションの売却を担当するセクション、仲介部に配属された。

私は、いつもの負けん気強さを発揮して、誰よりも誰よりも多く仕事をこなした。

住宅に関しては、様々な法律、条例をマスターしていないと、賢い社員になれないし、いいお客さんに対して喜んでもらえない。

その法律、条令らとはこのようなものだ。
これを、陰日向関係なく理解し、きっちり説明できないと、アカン垂れになってしまう。
建築基準法、宅地建物取引業法、国土利用計画法、宅地造成等規制法、
区分所有法、民法、刑法。

私は、社内で優秀な営業社員だけでなく、いつでも、何があっても、独りで生きていくだけの知恵や方策を身につけていた。
田舎育ちの一匹狼だ。
同業他社からの友人も増えていた。
学校に入る前からドカタ稼業になれていたものだから、このような仕事は一人前。


昭和58年、会社の仲間と保土ヶ谷駅界隈のドライブ中、今回の「政子の井戸」を発見した。
「御所台の井戸」とも言われていた。
なんだ、こりゃ?

政子さんのことは、受験勉強で大いに親しくなった御仁(おひと)だ。
JR保土ヶ谷駅を戸塚方面に1号線を100メートル程進んだところに、細い道で横浜清風高校へ向かう道があり、その道の入り口にある。
この坂道を、旧金沢街道(かなざわかまくら道)のいわな坂(石名坂、磐名坂、石離坂と諸説がある)と言われている。

あの源頼朝の北条政子さんのことか?と同乗者に話しても、色よい返事は返ってこなかった。
私は、受験勉強で、日本史に関しては、どんな問題が出されようと95点以上は稼げるだけの力を身につけていた。
英語は70%、日本史はほぼ満点、国語は70%をとれるだけの実力を身につけていた。
ぶっちゃけた話、英語や国語で多少失敗しても、日本史で100%とれば、何とかなる。
これが、私の受験戦略だった。


北条政子。

伊豆の国の豪族だった北条時政の長女の北条政子は、鎌倉幕府を開いた源頼朝の正室になった。
どこで、どのような縁があったのか、正室とは奥さんのことだ。
頼朝が1192年に鎌倉に政権を樹立すると、御台所と呼ばれ、頼朝の死後は尼御台、最後には尼将軍とか女将軍とか称され、抜群の力をつけた。
私が受験浪人だったときに、鎌倉幕府ができた年のことを、「1192をイ・イ・ク・ニ作ろう鎌倉幕府」として憶えた。

社会の先生が、政子が自陣の兵への演説で、「頼朝公の恩は、山よりも高く、海よりも深い」を、意味深長に話したことが、印象深い。

ここで、何故、井戸?なんだろうと考えた。
綺麗な人だったのだろう、お化粧をしたのか、身についた汗を拭き切るためだったのか?
別嬪さんで、色香たぐわしい人だったのだろう。
力をつけた女将軍のことだから、政子が来たからには、地元の民衆は騒ぎたてたのだろう。

その後、天皇や将軍が保土ヶ谷宿の軽部本陣に立ち寄った際には、この井戸の水で料理を作った。


 政子の井戸 その2



それから、20年後。


7年前のこと、私の勝手な都合で、一時的に住んでいた横浜市泉区のアパートのそばに神社があって、馬頭観音の碑が建てられてあった。

相鉄線の「弥生台駅」から、歩いて10分。
木が幾つも樹立していて、小さな森になっていた。
神社の名は、横根稲荷神社。

その森の一番奥まったところに本殿があって、その脇に碑が建てられていた。

近所の老人に神社の話を聞いたところ、昔、ある女性が使った井戸がかってあったのですよ、だった。

早とちりの私は、政子の井戸が、ここにもあるんだ、とかん違いをしていたようだ。



むかし、木曾義仲の夫人、巴御前は女武者として義仲とともに勇名をはせていました。
しかし、寿永3年(1184)に近江で義仲が敗れると捕われの身となり、和田義盛に引き取られて、義盛の本拠地三浦で暮らすことになりました。
そして建歴3年(1213)の合戦で義盛も敗れ、巴御前は木曾へと落ち延びていきました。
途中、横根稲荷神社で一夜を過ごした巴御前は、境内にある鎌倉石と七沢石で囲われた古井戸の水を化粧の水として使ったと言われています。
その後、この井戸は「横根の感念井戸」といわれるようにな泉区役所掲示による横根稲荷神社の由緒です。