2018年9月24日月曜日

「ビルマの竪琴」に啼く

此の夏、7月から今(9月21日)まで、体の状態が好いことと、併せて読書の量が凄まじく多かった。
この数年、足腰が自由に動かすことができなかった故に、情けないことに本を読むことが少なかった。
そんなことを、自省(じせい)紛(まが)いに書いたって、読む人は誰も、面白くも可笑しくもないだけのことだ。

ところが、此の7月から読み出した本は豊かだ。
7月8月には井伏鱒二さんの「山椒魚」(新潮文庫)、「黒い雨」(新潮文庫)、そして夏目漱石の「坊ちゃん」(新潮文庫)、島崎藤村の「夜明け前」1部/前後(岩波文庫)。
昨日読み上げたのが、松本清張の「十万分の一の偶然」(文春文庫)。




今、読書中なのが竹山道雄の「ビルマの竪琴」(新潮文庫)だ。

私の小学中学生時代だったと思うが、映画化されたことは知っていた。
内容は知らないまま今に至った。
映画の宣伝広告では、派手な取扱いをしていた。

そして、大いにサービスを提供してくれる安売り中古本屋さん通いしかない私にとって、こんな本が廉く仕入れられるので、この中古本屋こそ有難い味方だと思っている。
正確に言えば、今流行りの若い人の書いた物には、私の脳波は作者の意図に就いていけない。
上に揚げた本は、7月に纏めて仕入れた。

ここまで仕上げた今朝。
朝日新聞・朝刊の増刷分/BEの掲げられている山本祐ノ介さん(55歳)の顔写真に驚いた。


タイトルは、赤いタキシードに音楽の原点。
この山本さんの父親は「男はつらいよ」のテーマ曲も手がけた作曲家・指揮者の故・山本直純さん。
この父親がテレビなどに出る時、楽しさいっぱいの表情で、お馴染みの赤いタキシード。
この親父に、何とか負けたくないと思っていたのではないか。
希代のエンターテイナーの背中を見て育った。
幼い頃から音楽教育を受け、28歳で東京交響楽団の首席チェリストへ駆け上がる。
順風万帆の音楽人生を歩んでいるはずなのに、「自分の音楽を響かせたい。指揮者になりたい」と悶々としていた。
正直、もやもやしていたのだろう。
3面でのタイトルは、「音楽は聴く人のためにある」だった。

そんな時期、2001年にできたミャンマー・ヤンゴンのミャンマー国立交響楽団は、長い活動休止期間があり、指揮者もいないような状態だった。
そこにひょこっと山本氏が、見学で現われたものだから、団員から「教えてくれ!」となった。

山本氏だけの力では到底できない。
日本の音楽仲間に状況を話したら、ミャンマーまで楽器持参で来てパート練習をしてくれる。
楽器をメンテナンスしてくれる。
一流どころの音楽家たちが力を貸してくれる。
国際交流基金が公演の共催になり助成金を出してくれた。
楽器がよくなり、熱意のある指導があり、演奏がよくなっていく。
そうすると、やる気も出てくる。

こんな新聞記事を読んで、俺は今、幽霊にでも頭が引っ張られたのか?と思った。
読んでいる本は「ビルマの竪琴」。
話は、ビルマのある地域を舞台に、日本軍の小隊と竪琴、連合軍と共に進んでいく。
上に書いた新聞記事も合わせて、私の頭の中でひっくるめて廻りだす。
こういう場合は、連奏とか合奏と言えばいいのだろう。
地元の人々、連合軍の人たちを含めた小話となって、果てしなく音楽・竪琴を中枢に共鳴する!
私の頭は、どこまでも、大きなショックを受けながら、共感しまくっていく。



ネットに掲載されていたあらすじに私なりの文を含めた。
★「ビルマの竪琴」のあらすじーーーーーーー。
1945年7月、ビルマ(現在のミャンマー)における日本軍の戦況は悪化していた。
物資や弾薬、食料は不足し、連合軍の猛攻になす術がなかった。

日本軍のある小隊では、音楽学校出身の隊長が隊員に合唱を教え込んだ。
隊員たちは歌うことによって、隊の規律を維持し、辛い行軍の中も慰労し合い、さらなる団結力を高めていた。

隊員の中でも水島上等兵は特に楽才に優れ、特にビルマ伝統の竪琴の演奏が上手だった。
部隊内でたびたび演奏を行い、隊員の人気の的だった。
さらに水島はビルマ人の扮装もうまく、その姿で斥候に出ては、状況を竪琴による音楽暗号で小隊に知らせていた。

ある夜、小隊は宿営した村落で印英軍に包囲され、敵を油断させるために「埴生(はにゅう)の宿」を合唱しながら戦闘準備を整える。
小隊が突撃しようとした刹那、敵が英語で「埴生の宿」を歌い始めた。
両軍は戦わないまま相まみえ、小隊は敗戦の事実を知らされる。

隊が部隊で合唱したのは、「春高桜(こうろう)のーー」、「菜の花畑(はなばたけ)にーー」、「パリの屋根の下ーー」、「庭の千草」、「都の西北」だ。

降伏した小隊はムドンの捕虜収容所に送られ、労働の日々を送る。
しかし、山奥の「三角山」と呼ばれる地方では降伏を潔(いさぎよ)しとしない日本軍がいまだに戦闘を続けており、彼らの全滅は時間の問題だった。

彼らを助けたい隊長はイギリス軍と交渉し、降伏説得の使者として、竪琴を携えた水島が赴くことになる。
しかし、彼はそのまま消息を絶ってしまった。
その後の水島のことについては、後の方で書く。

収容所の鉄条網の中、隊員たちは水島の安否を気遣っていた。
そんな彼らの前に、水島によく似た上座仏教の僧が現れる。
彼は肩に青い鸚哥(インコ)を乗せていた。
隊員は思わずその僧を呼び止めたが、僧は一言も返さず、逃げるように歩み去る。

大体の事情を推察した隊長は、親しくしている物売りの老婆から、一羽のインコを譲り受ける。
そのインコは、例の僧が肩に乗せていたインコの弟に当たる鳥だった。
隊員たちはインコに「オーイ、ミズシマ、イッショニ、ニッポンヘカエロウ」と日本語を覚え込ませる。

数日後、隊が森の中で合唱していると、涅槃仏の胎内から竪琴の音が聞こえてきた。
それは、まぎれもなく水島が奏でる旋律だった。
隊員たちは我を忘れ、大仏の体内につながる鉄扉を開けようとするが、固く閉ざされた扉はついに開かない。

やがて小隊は3日後に日本へ帰国することが決まった。
隊員たちは、例の青年僧が水島ではないかという思いを捨てきれず、彼を引き連れて帰ろうと毎日合唱した。

戦う小隊は収容所の名物となり、柵の外から合唱に聞き惚れる現地人も増えたが、青年僧は現れない。
隊長は、日本語を覚え込ませたインコを青年僧に渡してくれるように物売りの老婆に頼む。

出発前日、正面の柵のむこうの人ごみのなかに、黄色い衣を着た姿を現した。
あのビルマ僧のことです。
ビルマ僧がきらきら光る青いインコを両肩に一羽ずつのせて、立っていた。
合唱はやみました。

柵にもたれていた人びとはふしぎそうにざわめきました。
ビルマ僧は凝然と立ちすくしたまま、顔色も少しも動かしません。
ただ、彼の肩の上のインコがのびあがって、かんだかい声で、その耳にせわしなく囁(ささや)いています。
「おーい、水島。いっしょに日本にかえろう!」

実はこのビルマ僧は、水島上等兵だったのだ。

収容所の柵ごしに隊員たちは「埴生の宿」を合唱する。
ついに青年僧はこらえ切れなくなったように竪琴を合唱に合わせてかき鳴らす。
彼はやはり水島上等兵だったのか?

隊員は躊躇した。
もし別人だったら、ビルマ人が尊崇している僧侶に対して無礼になることは、あたりの人々に対しても遠慮しなくてはならない。

隊員たちは一緒に日本へ帰ろうと必死に呼びかけた。
しかし彼は黙ってうなだれ、『仰げば尊し』を弾く。
やっぱり水島上等兵だったのです。

日本人の多くが慣れ親しんだその歌詞に「今こそ別れめ!(=今こそ(ここで)別れよう!)いざ、さらば。)と詠う別れのセレモニーのメロディーに心打たれる隊員たちを後に、水島は森の中へ去って行った。
水島には、日本軍人の戦争で亡くなった人たちの心、霊が染みついていた。

翌日、帰国の途につく小隊のもとに、1羽のインコと封書が届く。
そこには、水島が降伏への説得に向かってからの出来事が、克明に書き綴られていた。
水島は三角山に分け入り、立てこもる友軍を説得するも、結局その部隊は玉砕の道を選ぶ。

説得するための時間は、30分と決められた。
やむなく、戦闘に巻き込まれて傷ついた水島は崖から転げ落ち、通りかかった原住民に助けられる。

ところが、実は彼らは人食い人種だった。
彼らは水島を村に連れ帰り、太らせてから儀式の人身御供として捧げるべく、毎日ご馳走を食べさせる。

最初は村人の親切さに喜んでいた水島だったが、事情を悟って愕然とする。
やがて祭りの日がやってきた。
盛大な焚火が熾され、縛られた水島は火炙(あぶ)りにされる。

ところが、不意に強い風が起こり、村人が崇拝する精霊・ナツの祀られた木が激しくざわめきだす。
「ナツ」のたたりを恐れ、愕く村人たち。

水島上等兵はとっさに竪琴を手に取り、精霊を鎮めるような曲を弾き始めた。
やがて風も自然と収まり、村人は「精霊の怒りを鎮める水島の神通力」に感心する。
そして生贄の儀式を中断し、水島に僧衣と、位の高い僧しか持つことができない腕輪を贈り、盛大に送り出してくれた。

ビルマ僧の姿でムドンを目指す水島が道々で目にするのは、無数の日本兵の死体だった。
葬るものとておらず、無残に朽ち果て、蟻がたかり、蛆が涌く遺体の山。

衝撃を受けた水島は、英霊を葬らずに自分だけ帰国することが申し訳なく、この地に留まろうと決心する。
そして、水島は出家し、本物の僧侶となったのだった。

水島からの手紙は、祖国や懐かしい隊員たちへの惜別の想いと共に、強く静かな決意で結ばれていた。
手紙に感涙を注ぐ隊員たちの上で、インコは「アア、ヤッパリジブンハ、カエルワケニハイカナイ」と叫ぶのだった。

私はこの異国の僧となって、これからはこの道を行きたいと願います。
山をよじ、川をわたって、そこに草むす屍(かばね)、水づく屍を葬りながら、私はつくづく疑念に苦しめられました。

ーーーーいったいこの世には、何故にこのような悲惨があるのだろうか。
何故にこのような不可解な苦悩があるのだろうか。
われらはこれをどう考えるべきなのか。
そうして、こういうことに対してはどういう態度をとるべきなのか?

この何故ということは、所詮人間にはいかに考えても分からないことだ。
われわれはただ、この苦しみの多い世界に少しでも救いをもたらす者として行動せよ。

そうして、いかなる苦悩・背理・不合理に面しても、なおそれにめげずに、より高き平安を身をもって証(あか)しする者たちの力を示せ、と。
このことがはっきりとした自分の確信となるよう、できるだけの修行をしたい、と念願しだした。

このことをよく考えたい。
教わりたい。
それを知るべくこの国に生きて、仕え、働きたい、と念願いたしますとあった。


2018年9月21日金曜日

希林さんも去った

20180918の朝日新聞・天声人語より。

おととい訃報が届いた俳優の樹木希林さんは子どもの頃、運動が苦手だった。
小学6年生の水泳大会で選んだ種目はクロールや平泳ぎでなく「歩き競争」である。
泳げない子向けの競技で、ほかは1,2年生ばかり。
あっという間にゴールして1等賞を取った。

同級生から軽蔑されながらも賞品をもらい、得した気分になった。
「これで私はきっと味をしめたんだね。いいんだ、これでって。そのまま来ちゃったわね。私の人生」。
昨年のアエラ誌で語っていた。

他人と比べない。
周りの価値観にとらわれない。
そんなスタイルで役者人生を貫いた。
だからなのか、呼び名に困る人でもある。
名脇役ではぴったり来ないし、怪優や名優も違う気がする。
「樹木希林」としか、言いようがない。

おばあちゃん役ながら、「沢田研二」さんのポスターを前に「ジュリー!」と身もだえする。
写真フイルムのCMでは「美しい人はより美しく、そうでない方はそれなりに」と言われ、がっかりする。
そんなコミカルな演技に、いつしか重厚さが加わっていた。

病との付き合い方もこの人ならではであった。
全身に転移したがんを受け入れ、振り回されはしない。
最後まで仕事を続ける姿は、生きることを楽しむかのようだった。
人生の素晴らしさも悲しさも包み込んだ作品が、残された。

「現在まで、それなりに生きてきたように、それなりに死んでいくんだなって感じでしょうか」。
ひょうひょうとした言葉をいくつも残して、去ってしまった。


2018年9月20日木曜日

熱中症になっちゃった!

7月から1ヶ月に泳ぐ日は7日、7キロメーター。
歩数は、出社する日は1万5千歩、休日には2万5千歩、それで月間45万歩。
泳ぐのは馴染みの深い趣味でもあったから、いとも簡単に済ませた。
問題は歩くことだった。
ところが、5月のゴールデンウィークを過ぎた辺りから、筋肉痛や腰に痛みが残らないように、足腰は良くなっていた。
そんな足腰の都合で、歩いて泳いで、その気持ちは最高だった。
大学のサッカー部で鍛えられたお陰で、心身に辛苦をかけることなんて、ヘッチャラのヘッチャラだった。
7月から8月と真夏日が続いて、朝早くから30度近い日もあったが、それこそヘッチャラの屁だ、歩くこと泳ぐことが快調だった。
往年のスポーツ心が騒いだ。

ところが、9月のいつの日だったか。
自宅から徒歩で会社に着いて、何だか今日は少し体がキツイと感じた。
会社までの50分間、7、500歩はいつまでの感じだったが、椅子にに座ってコーヒーを飲んで大汗を拭いた。
それでも不快感までは達してはいないが、体の何処かが緩(ヌル)?く感じて、可笑しさが込み上げてきた。
そして、コーヒーを1口2口飲み終えた頃、10本の指の先の第一関節が、揃って痙攣(けいれん)仕出した。
エアコンの発射温が低過ぎるのではないかと、エアコン下のスタッフに、「今日のエアコンは低過ぎないか?」と聞いたら、そんなことはないですよと返答された。
ここで、やっと、私の体に異変が起こっていることを自覚した。
社長が後、2,3分で出社すると聞いて、事情を説明して帰社することにした。
それでも、指を机の上に載せてゴリ押しで強制したが、その時は指は動かなかったが、いつまでもそんな事をしていられなかった。

この症状が、今流行りの熱中症のことだとはを知らないまま、浮かぬ思いで自宅まで歩いて帰った。
熱中症なんて、露程(つゆほど)も考えなかった。
だって、めまいや吐き気、頭痛など感じなかった。
ただ、体が少しばかり怠(だる)く感じたことと、手の指が痙攣することだった。
この症状だけから、熱中症は思いつかない。
昼飯も食わず、ただ、水だけを飲み、ぐったり眠った。

自宅に着いて、水を腹一杯飲んでベッドで横になった。
どんなことが起こっても、動くものかと腹を括(くく)った。
何故か? 指の痙攣は自然に止まった。
そして、晩飯は何げなく喰えたが、直ぐにベッドに入ったら、何故か痙攣中枢が狂いだして、またまた痙攣が始まった。
それまでは、私自身は風邪ぐらいに考えていたので、焼酎とウイスキーに氷を入れだけ、願を込めて、大きいコップで丸呑み。
痙攣の治まりと、眠気が激しくなるのと同時に来襲して、寝てしまったようだ。
眼が覚めたのは、深夜1時だった。
暫らくして、ネットでこの熱中症のことを探して、、、、、まさしく私は、熱中症であることを知った。

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★以下はネットで調べた内容。
熱中症とは、暑い環境や体温が下がりにくい環境で起こる、体の異常のことをいいます。
かつては、夏の暑さや炎天下で具合が悪くなったり倒れたりする状態は、日射病などと呼ばれていました。
また、医学的には、以前は重症度に応じて熱疲労、熱けいれん、熱射病などと呼ばれていました。
しかし、2017年現在では、必ずしも熱が加わる灼熱しゃくねつのような状況でなくても発症する恐れがあることから、「熱中症」と一括りにして呼ばれるようになりました。
熱中症は炎天下での運動などで発症しやすいことが知られていますが、高齢者の方が熱帯夜にエアコンを使用せずに寝ているうちに発症することもあります。

★熱中症の症状には、以下のようなものがあります。
  • めまいや立ちくらみ、顔のほてり
  • 筋肉痛や筋肉のけいれん、足がつる
  • 倦怠感けんたいかんや吐き気、頭が重い、頭痛(体がぐったりし、力が入りにくい状態)
  • 汗のかき方がおかしい(何度拭いても汗が出る、もしくはまったく汗が出ない状態)
  • 体温が高く皮膚が赤く乾いている
  • 呼びかけに反応しない、おかしな返答をする
  • まっすぐ歩けない
  • 自分で動けない、水分補給ができない
など
特に、呼びかけに反応しないなど意識障害がみられる場合には重症である可能性も高いため、速やかな治療が必要となります。


2018年9月15日土曜日

9月って

今日は、9月なか日の15日。
昨日は朝の間と午後になってから、今日は早朝から雨がしっとりと降っている。
秋雨前線の影響だ。
このしっとりと言うのが難敵である。
しっとりとは、降雨が楽々と続き、止むことがない。
流行(はやり)の歌手のように、Septemberの雨なんて、気楽に歌ってはいられない。
中学校時代の私には、真っ青な空と、爽やかな空気、朝夕のひんやりした気温、が9月10月のイメージだった。

4日に徳島県南部に台風21号が上陸した。
この台風は、大阪湾と紀伊水道の沿岸に高潮をもたらした。
そして和歌山、滋賀、愛知、福井、石川県で大雨。
そして、北海道で歴史的な大雨をもたらし、次に起こった地震で、その大雨が大いに原因がありそうな大被害が発生した。

不幸なことに、9月6日未明の3時、北海道胆振東部地震が発生。
厚真町鹿沼では震度7を観測した。
気温の暑さが続いている渦中、大雨が続いたと思いきや、こんなにでかい大地震がやってくるとは、鼻も頬も目ん玉に耳が、へし曲がられた。
17日は敬老の日で、23日秋分の日。そして、24日は私の70歳の誕生日。
大事に細事、煩事、色々ある月だ。

7月8月は連日、真夏日は猛暑日になり、暑さ過ぎて、避暑日になってしまった。
昼夜の気温にはホゾホゾくたばってしまった。
小さな日本の南から北の端っこまで、多くの人々を悩ました。
活動的な年齢層には何とか無理はできても、老人や子供たちには大層な痛手だっただろう。

皆が、暑い暑いと言うものだから、それに文句を言うように、百姓にはこの日射が大事なんですよ。
この暑さで、美味い米ができるんですよ。
今は枯れ葉の向こうに逝っちゃった父が、元気だったころ、そのように言っていた。

暑いとか、北海道は地表そのものが弱いですね、なんてことだけでは、ちょっと寂しいから、気の利く話もしてみよう。
弊社の玄関の前にある駐車場の傍にある空地に、種を蒔いた百日草とカタカナ文字で書かれていた花だけは、気分よく花を咲かせてくれている。
但し、陽が差す部分だけだ。
陽が差さない部分の花は、元気がなく茎も萎えていた。
我が社の園芸部としては、せめてその部分だけでも喜びとしたい。

百日草らが枯れ果てたときのことを考えると、コスモス(秋桜)の苗でも手に入れてこようと思っている。
コスモスの花言葉は「乙女の真心」、わが社にはピッタリだ。

今日は17日。
会社に着くまでの徒歩中、何故、2,3日前にこんな文章を作ったのだろうか?と考えた。
まだ、9月には2週間もあるではないか。
狂喜乱舞、腹を抱えて喜ぶようなできごとは起こらないかもしれないが、自重慎重に生きれば、きっと何かが起こるではないか。
9月こそ今年の華だと、実りの多い月にしたいものだ。
そんなことも考えて、本日は社内に掲げる標語を書いてみよう。

2018年9月14日金曜日

トランプ氏は壊し屋か

20180912(木) 朝日新聞・オピニオン

耕論/オピニオン&フォーラム
トランプは壊し屋か
同盟国を批判し、北朝鮮やロシアの強権指導者と親密を誇示。
トランプ米大統領は自由で開かれた国際秩序の「壊し屋」か。見方が異なる米国の識者3人に聞いた。


国際秩序の維持 無頓着
ロバート・ケーガンさん 米ブルッキングス研究所上級研究

58年生まれ。米国の価値観を世界に広めるためには軍事力行使も辞さない新保守主義(ネオコン)の論客

トランプ外交と向き合うには、彼が「何を信じるか」だけではなく「何を信じないか」を理解することが大切です。

第2次世界大戦後、歴代の米大統領は戦前の危機を繰り返さないよう、民主的な価値観や法の支配、開かれた通商を基盤に国際協調を重んじる「リベラルな国際秩序」を築く決断をしてきた。
しかし、トランプ氏は、この仕組みが米国自身に恩恵となることをまず信じていません。歴史的な経緯や各国の国民感情などにも無頓着です。

信じる物差しは損得勘定。
それも米国ではなく「自分」にとって得かどうかです。
さらに重視するのは「歴代の米大統領は(外国に)だまされて金を巻き上げられた。私なら彼らと取引ができる」というイメージをいかに支持者に印象づけられるか。

対北朝鮮では「もう心配無用。彼らの核・ミサイルの脅威を私が取り除いた」。
プーチン大統領との首脳会談は「対ロ関係を自分が修復した」と自賛しています。

現実は逆です。
北朝鮮はトランプ氏のおかげで国際的孤立から一歩抜け出し、プーチン氏は米欧関係にくさびを打ち込むのに成功した。
でもトランプ氏にはどうでもいいことなのです。

そんな外交でも、与党の共和党内からほとんど異論が聞こえてきません。
同党支持者の8割以上がトランプ氏を応援しています。
11月の上下院の選挙で再選を期す候補は彼と一戦を交えたくない。
共和党内で支持を得ないと予備選に勝てないからです。

こうした状況から、「リベラルな国際秩序」の先行きに私は悲観的です。

そもそも秩序の維持には費用がかかり、労力も多大でした。
保護主義に陥らないように開かれた経済システムを作る。
紛争を抑え込むために米軍が前方に展開する。
そうやって米国は秩序安定の重しの役目を果たしてきました。
冷戦後はそうした国際秩序のありがたみも薄れています。

今の米国は1920年代と似ています。
国際連盟に参加せず、国際社会での責任を投げ出しました。
社会に非寛容な空気が蔓延し、次第に保護主義を求める機運が広がりました。

世界は再びジャングルの様相です。
混乱のツケはいつくるでしょうか。
早いかもしれません。

各国はどうすべきか。
「米国との特別な関係」を信奉する国、米大統領との個人的関係を築くのに腐心する政治指導者は、トランプ氏にハシゴを外されるかもしれません。
日本は多国間外交が機能するという実績を積み重ねてほしい。インド、オーストラリア、韓国など地域の民主国家との絆を深めることも重要です。

あとは米国が国際秩序の担い手に復帰することに望みをつなぎましょう。

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国益追求の現実主義者
ニーアル・ファーガソ米スタンフォード大シニアフェロー


64年、英国生まれ。ハーバード大教授などを経て現職。金融史が専門。保守視点の政治評論でも知られる。

「トランプ流」を真に理解したければ、米国の政治分野の知識人と主要メディアのジャーナリストだけには話を聞かない方がいい。
彼らは米国の中核部分から遊離しています。
トランプ氏自身が既成秩序を揺さぶる意図を明確に持ち、国民もそれを期待して彼を選んだのです。
だから主流派には「とんでもない人物」と映るのは当然でしょう。

たしかにトランプ氏は知識人ではありませんが、ツィートやくだけた言葉の奥にある本質に目を向けるべきです。

二つの根本的な変化が米国で起きつつあります。
まず好調な経済。
景況感は良好で、投資が目に見えて増えています。
失業率も最低に近い。

もう一つが外交分野。
彼は他国(のリーダー)の弱点をかき分ける巧妙な能力を備えています。
過去1年はそれで成功を収めてきました。

例えば、相応の防衛費を負担していない欧州の「弱み」をさらけ出しました。
中国との通商紛争では、彼らの方が対米貿易に依存している弱み。
北朝鮮は「炎と怒り」の言葉を用いた軍事攻撃の脅しに対抗できない金正恩の弱み。
こうしたものをさらけ出し、米国の国益を追求してきました。

ステータス・クオ(現状)が膠着して物事が前進しないなら、現状そのものをひっくり返してしまおうという信念の持ち主なのです。

トランプ外交で「リベラルな国際秩序」が弱体化したと言われますが、その秩序自体が歴史的にはフィクション。
第2次大戦後の世界は冷戦下で、西側にあったのは米国の軍事パワーが支配した秩序にすぎません。

旧ソ連崩壊後に一時的には存在しますが、2001年の中国の世界貿易機関(WTO)加盟まで。
あれ以来、中国の台頭を助けた「国際秩序」なるものにトランプ氏は異議を唱えているのです。

トランプ氏が多国間の枠組みにとって脅威だというのは言い過ぎです。
国連安保理を使いこなして北朝鮮制裁決議を実現しました。
北大西洋条約機構(NATO)も否定はしていません。

米国外交は理想主義とリアリズムの間で揺れ動いてきましたが、トランプ氏はリアリストです。
確かに彼の政治スタイルは異色ですが、中身よりスタイルばかりに注目が集まる昨今の風潮の方こそ問題です。
例えば中国とは関税をめぐる「取引ゲーム」を繰り広げているのです。トランプ政権が中国との本格衝突に突き進むとは私は思いません。

トランプ氏とつきあうのは難しい。
あんなに極端に自己中心的な人物と、良好な個人的関係を結べるという期待は捨てた方がいい。
日本に忠告したいことは一つ。大統領を支える高官を大切にして、「人」ではなく「政権」と関係を築くことです。

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協調枠組みもろくない
ジェイク・サリバンさん  米カーネギ国連平和財団上級研究員


76年生まれ。オバマ政権で副大統領の国家安全保障補佐官。大統領選でクリントン候補の外交顧問も務めた。

トタンプ氏が「米国第一主義」を振りかざしたぐらいで危機に直面するほど、国際秩序はもろくありません。

核拡散、温暖化、感染症など地球規模の課題解決に多くの国が共同で取り組む国際社会の「筋肉」は、20年以上かけて鍛えられてきました。
いきなり消滅するということはないのです。

経済、安全保障、人権などあらゆる点で全ての国々が同じルールを共有するような普遍的な国際秩序はまだ実現していません。
異なるルールを持ち、民主主義のレベルも様々な国々が一緒に課題解決のスタート台に立とうというのです。
物事を進めるのに混乱はつきもの。
ちょっとやそっとではぐらつきません。

トランプ外交には一貫した考え方があります。
「ひどい貿易で米国は損をしてきた」「同盟国は米国に『ただ乗り』している」。
ロシアは同盟国ではなく、貿易高もたかがしれています。
だから、トランプ氏はプーチン大統領を友人と遇しやすいのです。

トランプ氏は強権指導者や独裁者に親近感を抱く傾向があります。
歴代の米大統領と大きく異なる点です。
ただ分別を欠いた「同盟嫌い」はトランプ氏独特のもので、彼の支持者は必ずしもそう考えてはいません。
「米国には強い同盟が必要』「課題解決には国際協調が欠かせない」という考えは今も米国民には広く共有されています。

トランプ氏は米国の運営を家族経営と同じようにとらえているのでしょう。
親族に要職を任せたり、私的なアドバイザーを重用したり。
最近は自己流に拍車がかかり、周囲の助言にますます耳を貸さなくなっている。

それでもトランプ氏が共和党内で8割以上の支持を得るのは「私はあなたのために戦っている」とのメッセージを浸透させる能力にたけているから。
移民と戦う、中国と戦う、エリートと戦う。
個々の政策や品位を欠くツィートに賛同しなくても、「トランプ氏は自分の側にいてくれる」という感覚は強力です。

しかし秩序の担い手は国家だけではありません。
価値観を同じくする市民が国境を超えて連繋する動きが活発になっています。
パリ協定から離脱した米国では州知事、市長、さらに企業や市民組織、宗教団体までと、非国家のさまざまなプレーヤーが連携して温暖化対策の取り組みを強めています。

世界中の様々な場所で強権政治が広がる流れは確かにありますが、民主主義や法の支配、腐敗からの決別を求める逆の動きも起きている。

日本政府は価値観と原則において毅然とした立場を貫き、もし許されないふるまいがあれば断固として押し返してほしいと思います。

(聞き手はいずれもアメリカ総局長・沢村亙)


2018年9月8日土曜日

クチボソに会いたい

クチボソ(モツゴ)
クチボソ

私が西湘の大磯から、今住んでいる保土ヶ谷区権太坂に引っ越してきたのは、約40年前。
引っ越してきて、暫くしてから長女が生まれた。
当然の如く東戸塚駅はなく、勤務には保土ヶ谷駅までバスで行き、そこから原宿駅、横浜駅までJRを使った。
境木だって権太坂だって、通路はガタガタで、あっちこっちに水たまりがあった。
でも、当時にしてみれば、なかなか良好な住宅街だったと、言えないことはない。

東口(2010年8月22日)
東戸塚駅が開業したのは1980年、今から38年前。
これから、駅ができて、駅前には商業ビルが幾つも建って、それは凄く好い街ができるんですよ、と勧められた。
駅が開業しても、駅までの路面はガタガタ、雨の時などはグチャグチャでゴム長がないと歩けなくて、気の利く料理学校のバスの運転手は、歩行に困っている私たちを見つけて、ただ乗りさせてくれた。

この稿の本題は、東戸塚駅や我が家の近辺のことではない、クチボソのことなんです。

引っ越してきた頃から大騒ぎしていたのは、境木や権太坂の北斜面と、今井町や法泉町の南斜面との丁度真ん中辺り、底の部分の水事情だった。
今井川やその他の疏水で谷を作っていたが、そこに流れ込む水の量が余りに大量だった。
その両斜面には大型な住宅地が開発され、雨量は兎も角、下水の処理が地元住民を含めて役所の悩みの種でもあった。
自治会等の会合においてその処理の問題は確実に進めていくが、時間的な余裕は欲しいと言われた。

今、横浜市は下水の処理施設を作ろうと、根を上げて訴えているが、元々、このエリアの下流にとっては、帷子川と今井川が合流する辺りで、川に流れ来る水の量が多過ぎて、氾濫した。
その氾濫のための改修工事が江戸時代から行われていた。
その工事が、完璧に終えたかどうかは、見た目には解らない。

私たちが権太坂の住民として説明受けていたのは、下水問題だった。
しかし、先ほど述べている改修工事も上流部分は未完成だったから、この完成も急いでいたのも事実だ。
かって下水のことを特別の問題として見直されてきたのは、私が引っ越してきた頃からだったように思われる。
非衛生なものだと認識され出した。
下水溝はあったものの、貧弱なもので、いつでも壊されたり、大雨の際、溝からはみ出すことなんかは常だった。
それでは良くないので、何とか川の改修工事と併せて、下水問題に取り組んでいた。


話しはちょっと大事なところからはみ出してしまった。
私の住宅の前の東道路を西に300メートルほど下がっていくと、JRの線路があって、線路に沿うように下水溝があった。
我が家に犬がいた時は、線路と下水溝の間に1メートルほどの歩道があって、その道を行って帰るだけで3キロあった。
私にとって、他人に言えない楽しみの一つだった。
その道に入ると、犬(ラブラドール・ゴンと呼んだ)をロープから外した。
勢いに乗ったゴンは、私のことなど忘れて暗闇の中に隠れた。
それから、30分ほどしてから、鼻息高らかに、口からは涎を垂らしながら、威風蒼然と帰ってくる。
この光景が嬉しかった。
「クチボソ」の画像検索結果

そして気が抜けたところで、その疏水でのクチボソの泳ぎを観てホッとするのだ。
それほど、こんなひと時がどれほど嬉しかったことか!
野道から見下ろして5メートルぐらいの下の小さな水たまりに、クチボソがそれでも10匹ほどが群れをなして泳いでいた。
その群れをいつまでも眺めていて、興味を失わない。
この類(るい)に類(たぐい)まれない興味を持つ私は、モンドリを「釣りショッピング」で買って来た。
山岡心にクチボソ心? 皆さんは、私とクチボソの関係を与(くみ)して、ご理解下さい。
思い通りにクチボソを得たのは、当たり前だ。

今から20年ほど前に、この線路と疏水の間の野道を歩くことができなくなった。
JRの線路地を強固にするための大工事が始まったために、こそっと歩けるだけの小さな橋も撤去された。
そうして、愛犬・ゴンは亡くなった。
それでも、あのクチボソが忘れられなくて、障害は自ら除くことによって振り払い、近い将来に必ず実行しようと決めた。





今井川と帷子川の改修工事をネットで得た記事を転載させていただいた。

今井川は、始めは東海道の東側を流れ、中の橋で東海道の反対側に移って帷子川に合流していた。(下図)
長い間、氾濫に悩まされていたが、嘉永4-5年の改修工事で、東海道の東側を直進、直接海へ出るようにした。
工事による土は、嘉永6-7年のお台場工事用に納入された。
今井川工事の遠因
東海道以前、今井川は図のように直接海に流れ込んでいた。東海道新道工事の際、橋を一つ節約するために、点線のように今井川を帷子川につなぎ込んだ。それが原因で合流点での渋滞による氾濫が起き、長い間、地元の苦労の種になった。(保土ヶ谷区史-蔦田説)

帷子川との合流点における水流渋滞を解消することが工事の主目的であった。






2018年9月6日木曜日

天ヶ瀬ダムの水底にも墓石が?

私はこれから、このブログでちょっと奇奇怪怪なお話を皆さんに聞いてもらおうと思った。
こんな初頭のもぞかしい文章で、彼方の頭はさぞかし頓珍漢になって仕舞ったかもしれないが、暫くは付き合ってくださいな。

高校生の時に現実に見あげた天ケ瀬ダム工事、結果、ダムの底に色んな物が埋められた。
そして、今夏、井伏鱒二さんの「朽助のいる谷間」で、高校時代の記録紙が蘇り、昭和50年頃の、懐かしい脚本家・峰山タカシさんの思わぬお話し、そしてやはり高校時代のダムの底に何もかも埋められたことに対する拘(こだわ)りが、連糸のように繋がって来て、このままではスマサレナイぞと感じたのだ。

それから、大学に入っても、未だ見たことのないこの天ケ瀬ダムの水底が、頭の隅っこに幻想として残り続けた。

峰山さんとの面白い談話の後、今度こそ、天ケ瀬ダムの湖底を潜ってみたいと思った。


先月は6日に広島に、9日に長崎に原子爆弾が落とされ、15日に戦争終結。
1945年(昭和20)のことだ。
山椒魚 (新潮文庫)

そんな時にこそ読まなければならない本がある。
井伏鱒二の「黒い雨」、そして「山椒魚」だった。
新潮社の「山椒魚」の次に編纂されていたのが「朽助のいる谷間」だった。
今度は、私はこの本に異常に狂いだした。

この「朽助のいる谷間」で、主人公の谷本朽助と「私」(本のなかでは、私と表現している)は、言い忘れられないほどの交友関係だった。
朽助は77歳、実に頑固に「私」を贔屓(ひいき)している。
彼は毎年、秋になって口から吐く息が白い蒸気となって見える時節になると、「私」に松茸やシメジを、東京に送ってくれる。
その朽助と「私」が長年住んでいた家々が、ダムの建設によって谷底に埋まってしまうのだ、、、、。
「私」は子供の頃、朽助の家へ英語を習いに出かけた。
「木犀の木や松の木のことは、ツリーといいますぞな」
「物覚えの悪い子供はアイズルですがな」
アイズルとは英語のIdleのことなのである。

谷間の底のような所の隣家、山野や谷川、原っぱに包まれての二人の築いた人間関係の模様は、文章からは清々しく崇高だった。
そのことから、山岡は山岡なりの独り物語を、勝手に作りあげて、このブログを書き始めた。

★この本の内容とはーーー。
朽助の小さな家も「私」の家も、当然家の周りの原っぱから小さな峰峰までが、ダムがつくる湖水の底に沈むことになった。
ダムの一番深いところに沈んで行くと言うことの深く悲しい意味が、山岡には良く解かる。

東京で弁護士をしている「私」は、朽助と私の家の引越しのために、実家のある谷間の村までやってきた。
この本は、「私」と朽助と朽助の孫・タエトの3人組が、ダム建設のために住み慣れた家からの引越し物語だ。

朽助がハワイの出稼ぎから帰ってきた時の、我が家への土産に乳母車があった。
その乳母車には英語で「眠れ、眠れ、幼児よ眠れ、夕陽は彼方に入りそめた」とあった。

朽助は未だに自宅から、立ち退(の)かないと言う。
「私」は、駆けつけ、子供の頃よく遊んだ山や谷、原っぱを懐かしんだ。
この作品は昭和4年の発表。

山岡の郷里・京都府綴喜郡宇治田原町と宇治との間に、天ケ瀬ダムが出来たのは昭和39年のこと。
天ケ瀬ダムの大工事を良く知っている山岡は、この本でのダムの工事そのものや、工事に影響を受けた人たちの苦しさは、さぞかし大変だっただろうと苦悶した。

朽助は、「私」の祖父の代にすでに他人に譲渡した山の松茸やしめじを、そんなことは気にもせず、当時と変わらぬまま採り続け、ずっと私に送り続けた頑固な老人だ。
そして、村の人々がすでに移住して居なくなっても、最後の一人になって、自分の家に居続けた。

タエトは朽助の娘とアメリカ人との間に生まれたハーフの娘。
祖父との二人暮らしで、異性を気にしない明け透けない部分があり、それに対する私の反応が微笑ましくて、読み手の心を振るはせる。

「私」に促され、朽助は渋々村が用意した新宅に移り住む決心をした。
決心はしたものの、やりきれなさの様子が描かれている。
「私」たちはいなくなったら、実をつけることもないだろうと、庭の杏の実をことごとく落としてしまった。
桜の樹に群がった毛虫に、「蝶々にはなれないだろう」と独りごちる。

朽助は、杏の木をゆすりはじめた。
杏の木によじ登って、そして枝にまたがり、自分の体の重みを前後に動かしながら、杏の木に対しては痛々しいまでに枝をゆすぶっていた。
地面には新鮮な塵芥だらけになった。
そして砕けた果実から飛散する香(にお)いは、朝の空気に酸味ある色彩をもたらした。

何だかんだと言いながら、新居に引越しは出来たものの、未だ、事の変化に馴染まぬ朽助は、やりきれずに最後の晩を、今までの住宅で過ごしたがり、蒲団を持ちながら、舞い戻った。
いかんともしがたい悲しみに、一人で朽助は耐えた。
この姿は、なんとも悲しく、痛々しい。

そんな状況ののなかで、井伏鱒二は優しくユーモアに溢ふれている。
風呂上りに裸で涼んでいると、次に風呂に入ったタエトは叫び声を上げて裸体のまま、「私」に風呂場に毛虫がいたことを報告した。
「私」が裸どうしであるにもかかわらず、タエトに毛虫の講釈を始めた。
「私」の目線は彼女の裸に惹き寄与せられているが、それでいても、厭らしさを感じさせない井伏さんの筆っぷり。

タエトの日本人の祖父と祖母との仲に出きた私の母と私の父(アメリカ人)との仲に生まれたのです。

前の文章では、私はタエトのこと。
私は見かけはアメリカ人でも立派な日本人です。
もっともタエトは、父親が勝手にアメリカへ帰国し、母親はすでに亡くなり、身寄りは祖父・朽助一人だった。
父親と「私」の不思議な人間関係は、彼女の存在が静謐に確立しながら、また悲しみなのです。

この本のことについては、この程度にしか書けないのだが、私の人生のその後の行き当たりバッタリで、余計なことを考えてしまった。
この作品は井伏鱒二らしく、山河や谷、その他の風物が、ときには静止画を観ているような気持ちになった。
住宅を囲む風景や、三人の心像風景までが、色鮮やかに描かれているのが、井伏鱒二さん風だ。

彼達の住宅が、ダムでできた湖水の一番深い所に沈められた。

当然、文章の中に表現されていた物は当たり前、それ以外の街路や墓やお地蔵さんや、小さな橋や、子どたちが遊んでいた広場、お婆ちゃんたちのお喋り広場もあったはずだ。
それらが、撤去されないまま、水の中へ。
付属してガードレールや交通標識。
山野の側面に残った樹木はどうなっているのだろう。
小さな橋だってあったはずだ。
記念碑的に作られた彫像などの遺構なども。
そんな光景を、高校時代に天ケ瀬ダムの建設を見通して知っている。
山や谷、子供たちが注意しなければならない警告板や注意書きも。


私が京都府立城南高校に通いだしたのは、昭和の38年からだった。
当時、私の住んでいた町からは、城南高校までは朝の通学のみ、専用バスが走っていた。
だが、何から何まで皆のやっていることに合わせたくない私は、しばらくは自転車通学していた。
この高校の入学試験を受けるためには、中学校内の決め事があり、私は3年生になるまではその資格がなかった。
でも、そんな資格なんて屁みたいなもので、何とか、ちょっとばかり勉強すればそれで、すんなり済まされた。
通信簿のアレとコレを、ちょっとここまで揚げれば、それでオッケーだった。

自転車は、中学生の時に使っていたものを、そのまま使った。
ところがドッコイ、この自転車通学がこれほど面白いものだとは、思い付かなかった。
この通学路が危険極まりない面白味を控えていた。

それでも私以外の人間は、山岡のことを、変人のように思ったようで、それ以外の嘲笑はしなかった。
誰もが、そんなに豊かじゃなかったから、それ以上の興味は持たなかったようだ。

朝の行きは下り坂、帰りは登り坂。
朝、雨が降る中を走る行きのバスを、私は難なく追い抜いていた。
この通学路は、ダムに溜められた湖水やダムからの流れになる宇治川に沿っている。
宇治平等院の前を通り、JR宇治駅・京阪電車宇治駅を右斜めに眺めながら、高校まで。
2年生になってからは、兄が使っていたホンダのカブをいただき、それからの通学は楽チンだった。

琵琶湖から流れてくる瀬田川に、我が郷里を流れ進んだ田原川が合流して、ダムに貯留され、ダムからは宇治川として宇治市内の真ん中を流れる。
宇治川には、木津川と桂川、その他にも幾つかの川が合流して淀川になる。
かって宇治からまっすぐに西へ流れて巨椋(おぐら)池に注いでいたが、文禄3(1594)年から豊臣秀吉が伏見を経由するように改良した。
その後、この巨椋地域はすっかり土が埋められ、立派な住宅街になっている。

この通学路に自転車で走っていたころ、ダムは最終工事に入っていた。
そして、私が高校2年生の1964年に、天ケ瀬ダムは完成した。
我が故郷は、遙か上方の地域であって、交通での障害は幾らかあり、それなりに不安や不満があった。


ここで何を記述したがっているかと、読者の方は思われるだろうが、このダムの建設に関しての地域住民としての困苦、無念、難儀の話ではない。

ダムのためのコンクリート工事が終了して何か月してから、水を溜め出した。
傍視しているだけの私にとっては、ただ、興味本位だけだったけれど、その規模の膨大さにだけは肝を抜かれた。
何もかもが残されたままの沈没だった。

小学生時代には、バスに乗って、よく行き来した道だったが、それなりの装備が行き届いていた。
ただ、急峻は崖を背にしていたので、大雨の時には、必ず崖崩れが発生し、通勤路としては大きな欠陥道路と言われていた。
バスは通過できなくて、少しだけの空き場を作って、自転車や小型の自動車はなんとか通れるように工事の配慮はあったが、その度(たび)重なる事故は嫌(いや)だった。

★天ケ瀬ダム界隈のことを、ネットで得た写真その他を利用させてもらったので、ご覧ください。
ライブ映像用地図


  • 天ヶ瀬ダムの前にちょっと寄り道。<br /><br />ダム下流にある吊り橋「天ヶ瀬橋」です。
    天ヶ瀬ダムの前にちょっと寄り道。

    ダム下流にある吊り橋「天ヶ瀬橋」です。
  • 横から〜<br /><br />近くに公衆トイレもあり、多くの釣り人がいらっしゃいました。<br />何が釣れるのかな・・・
    横から〜

    近くに公衆トイレもあり、多くの釣り人がいらっしゃいました。
    何が釣れるのかな・・・
  • 天ケ瀬ダムに来ました。<br />何年振りかな〜<br />
    天ケ瀬ダムに来ました。
    何年振りかな〜
  • 入口にあるモニュメント
    入口にあるモニュメント
  • 天ヶ瀬ダムに入場するには入口で見学者の名前と住所(代表者)、同行人数を書かなければならなくなりました。<br />また、17時〜翌朝8時までは閉門され、監視カメラも設置されています。<br />途中の通路にも監視員さんがおられます。<br />これらは自殺防止策としての事です・・・<br /><br /><br />
    天ヶ瀬ダムに入場するには入口で見学者の名前と住所(代表者)、同行人数を書かなければならなくなりました。
    また、17時〜翌朝8時までは閉門され、監視カメラも設置されています。
    途中の通路にも監視員さんがおられます。
    これらは自殺防止策としての事です・・・

  • 入口近くにあるトイレ<br />(何故か黄色〜妙に明るい^^;)
    入口近くにあるトイレ
    (何故か黄色〜妙に明るい^^;)
  • では、歩いてみます。
    では、歩いてみます。
  • 左岸から右岸を見たところです。<br /><br />天ヶ瀬ダムは堤長254m、堤高73mのドーム型アーチダムです。
    左岸から右岸を見たところです。

    天ヶ瀬ダムは堤長254m、堤高73mのドーム型アーチダムです。
  • ダムから下流を見たところ。
    ダムから下流を見下ろす。
  • 上流側の鳳凰湖
    上流側の鳳凰湖
  • 天ヶ瀬ダム右岸から天ヶ瀬森林公園へ行きます。<br /><br />以前は川沿いの道を通って行けたらしいのですが、崖崩れの恐れがあるらしく現在は通行止めになっています。<br />
    天ヶ瀬ダム右岸から天ヶ瀬森林公園へ行きます。

    以前は川沿いの道を通って行けたらしいのですが、崖崩れの恐れがあるらしく現在は通行止めになっています。
  • 森林公園近道とある、
    森林公園近道とある、
  • 階段を上っていきます。
    階段を上っていきます。
  • 階段を上りきった所に駐車場がありました。
    階段を上りきった所に駐車場がありました。
  • イラストマップを見て歩くコースを考えます。<br />赤線を下から時計回りに歩きました。
    イラストマップを見て歩くコースを考えます。
    赤線を下から時計回りに歩きました。
  • では出発します!
    では出発します!
  • それにしても人がいません。<br />ゆったりでいいけど♪<br />
    それにしても人がいません。
    ゆったりでいいけど♪
  • ツツジの道に入ります。
    ツツジの道に入ります。
これから、最後のお話に移ります。
昭和50年頃のことだと思う。

峰山タカジさんとのお話をここで話さないと、このブログの奇っ怪さが解かってもらえない。

ある大学のサッカー部に所属していた私は、サッカー以外のことに、不思議なくらい興味を持たない人間だった。
そんな私に出来ることと言えば、お金が潤沢でないことが大きな原因なんだが、昔の巨人と謂われていた作家の本を、闇雲に読むことだった。
その作家とは、太宰治、坂口安吾、織田作之助、田中英光、檀 一雄、山岸外史、デカダン派、新戯作派、無頼派とも言われていた人たち。
彼らの本を見つけ次第、易いに越したことは無かったが、買って買って、買い捲った。
その費用なんて、部友の誰もが驚く程のことは無かった。

そして、読んだ本の感想を話す相手として、テレビや映画のシナリオを担当していた峰山タカシさんが、私と親しくしていただいた。
知り合ったのは、グラウンドの傍の水飲み場、昼飯での芳葉・中華ソバ屋さんだった。
この芳葉では、3,4年生のときに、昼間1時間アルバイトをした。
昼飯付き、時給400円か?500円。
サッカー部仲間が来たときに、ついつい飯の盛りが大盛りになってしまって、お~いおい、山岡! と嫌な目をされた。
この峰山タカシさんの名前は、私がこのブログのために勝手に造語したものです。
彼の死後、何かと嫌なことが言われそうなので、敢えて、そんなことをしてしまいました。

私が身も心も遣られっ放しの作家や書名を述べると、ことごとく彼の持つ印象を述べてくれて、時間の経過とともに、ニッチもサッチも行かない人間関係に嵌り込んでしまった。
サッカー部に所属しながら、夕も夜も朝もない、変形な一日を過ごすことになってしまった。

そんなある夜、私は天ケ瀬ダム工事の話をして、工事終了後あっ気なく、何もかもを埋めてしまったことを話した時、彼はニンマリ笑いながら、山岡さん、それはさぞかし面白い事件に遭遇したことになりますよ。
考えてご覧、ダムで作られた湖水の底に、今までの歴史が、血と涙の伴う人間の生活の全てを埋めて仕舞ったことになるのですよ。
そんなアホみたいなことが、堂々と行われたことに批判の目を持っていいのです。

峰山タカシさんご自身も、そんなことってありか? と不思議だったのですと吐露。 そのことに興味を持った水中カメラマンが居て、彼は、撮った写真をグラビアなどで紹介していることを話してくれた。
でも、私にも時間的な余裕がなくて、そのカメラマンの名前から出している書名など聞くことなどできなかった。

そんなことを言われたのが、今から約45年前。
ーーその時に、思い出したのは、天ケ瀬ダムが完成した時のことだ。
ダムに水がいっぱい詰められたのが約55年間。

井伏鱒二さんの「黒い雨」「山椒魚」「朽助のいる谷間」を読んだのは、50年前。
その時は、まさかこの「朽助のいる谷間」がダムの湖底に埋められたなんて、それほど意味深く考えなかった。
再読したのは、今夏2018年(平成30)の8月。
昭和20年8月6日に広島、9日長崎に落ちた原子力爆弾の影響は、こんな世代の私だけど、この時機、読まないわけにはいかない。

長年、頭や腹の中に、掻い潜って持ちかまえていたモノが、ここで、またひっくり返ってきた。
こんな段階踏んで、ダムの何もかも一緒くたに埋める夢の無い施策に、急に腹が立ってきたということが、今回のブログの生粋だ。




2018年9月1日土曜日

俺にだって、古希がある!!




ワッウオー、もうすぐだ、9月24日は俺の誕生日だ。
嬉しいことなのか、目出度いことなのか、私自身にはよく解からない。
古希70歳の長寿祝になる。
古希とは=中国の唐時代の詩人、杜甫の詩の一節である「人生七十古来稀なり」に由来しています。現代では還暦よりも本格的な長寿の祝いと考えられているようです。紫が長寿祝いの色とされています。

日本では、還暦=60歳、傘寿=80歳、米寿=88歳。
このように、日本では年齢の節目に長寿をお祝いする行事を行うが、これを「年祝い」と言う。他の国ではどうなんだろう。

70歳になるのなら、一念発起、人生の収拾編の一小間(ひとこま)として、ヤマオカに何をやらせばいいのだろうか、神さま・仏さまだって、たまには右に、たまには左に頭を振って悩んでいるようだ。
自宅から会社への往還、頭の中はそんなことでクラクラ、ガラガラ、さりとて好い案は生まれない。

樹木からの落下事故で高次脳機能障害に少なからず影響は受けたものの、なんとかそのヤッカイモノからは多少駆け抜けている。
完治はしないが、生活に慣れることによって、その痛みをなんとかクリアーしたい。
大学時代のサッカー部のフルバックだったこの俺が、生き延びることは、恐ろしい護獣(ごけもの)如しの球を、遥か遠くの安全地帯に飛ばしきることだ。
そんなことを、ネチネチ考えながら、面白い案を考出してみたい。

僕は僕の父の還暦、古希に何をやってさしあげたのだろうか?
実家が専業農家の我が家に19歳までいて、それから東京暮らしになった。
当時、専業農家では男も女も、年節を気にするような生き方をしていなかった。
だから、この俺が父や母の還暦や古希などを考えたことはなかった。
父の年のことも、健康状態も、今から20年前までは何の思いも起こらず、事業に専念していたことばかりが思い出される。

この際だから、このページで両親に感謝の気持ちを表せなかったことの失念を、口惜しく思う。
父母が何歳だったか忘れたが、7年間ぐらいの間に、オーストラリアとニューギニアへ2回旅行に連れて行ったことぐらいは思いだすが、これは今回のような記念碑的催しではなかった。
あれ程、豪放で好い加減で子供思いの父に、それに孫思いの父に感謝する。
父や母のことについては、必ず記述する機会があるので、それまでお待ちください。

そんなことを考えながら歩いていたら、何と、不思議なことに仲宗根美樹さんの「川は流れる」が知らないうちに頭の中を走り回った。
何が原因なのだろうか? 
こんな歌なんて不思議過ぎるではないか。
振り返れば、この歌の入口に歌われる「病葉」(わくらば)だった。

中学校だったか小学校だったか。
先生から、漢字の読み方には色々あって、例えば、君たちがよく知っている「病」(やまい)という字があるだろう、この字はやまいとして余りいい意味では使われない、その読み方例で言うならば、わくらとも読むと教えられた。
私だって、この病がわくらとして使われているのを知って吃驚した。
語感なのか、私の語覚が悪過ぎたのか。
教えられる勉強に、これほど好きになれなかった私が、よくぞこんなことを憶えていたものだ。

それが、今流行の仲宗根美樹さんの「川は流れる」だった! 
恥ずかしながら、この年なのに情けない。
中学生のときの国語担当が宮本先生だった。小学生の担当の先生は思い出せない。
でも、宮本先生がそんなハイカラナな冗談交じりのことを話したかな? 疑問だ。
その後、仲宗根美樹の言葉を知って、俺の頭まで可笑しくなった。
仲宗根美樹さんを、自宅が買って間無しのテレビで観る限り、淡々と、夢見る乙女のように歌っていた。

が、ネットで仲宗根美樹さんの言葉を知ると、普通にそう簡単に歌えるものではありません、何も歌えなくてマイクの前にボケットしちゃうことだってあるんですよ、だった。
今なら、その感慨は、都会に住む娘の孤独感、喪失感が心身の芯に冷やりと染み割(き)っていたというのが本音だろう。
あの可愛い娘さんだった仲宗根美樹さんの悩みとは、なんだったんだ。



そんな仲宗根美樹の「川は流れる」を三島由紀夫は愛した。
三島事件後、何ケ月かして三島の「偲ぶ会」を都内某所で行われた。
幹事から仲宗根美樹に「川は流れる」を三島への葬送の歌とするように頼まれたが、どうしても歌うことはできないと、何も言えず、じっとしたまま動けなかった。
三島由紀夫の荒ぶる、余りに激しい革命志望事件だったからだろうか。


もう一つ原因がある。
3ヶ月ほど前に、弊社の工事専門会社の社長を、事情があって変更した時、弊社にガス関係の商品を納めてくれる会社の担当者の方から、お祝い言辞を揃えて植木をいただいた。

それだけではなく、会社内外の植木を経理担当の古さんと私でお守りしている。
ところが、定期的に水をやってくれる彼には、ちょっと遠慮して、古さん、この鉢には余り水をやらない方がいいのではないですか、なんだか、この鉢だけが不思議なほど生気を欠いていくんですよ。

そんなことで、しばらくは水を差さないでください、とまで言っちゃった。
それから1ヶ月、やはり植物の生気は冴えない。
そんなことがあって、私は、樹木を鉢から這いで、チェックしてみたら、どうも、水とこの鉢、この植物の縁がよくないようで、来週、私は私の知識だけで移植してみるつもりだ。
このことから、思い出した言葉が「病葉」(わくらば)だった。
気付いた瞬間、古さんに、枯れ果てた生気のない葉に指を差し、これが病葉なんですよと言ったら、古さんは、呆気(あっけ)にとられ?
あっ、それって何ですか? と応えてきた。

ネットで「川は流れる」の詞を読んでみて、何とも儚(はかな)い虚(うつ)ろな感情にさせられる、60年以上も経って初めて気付いた。
私が歌いまくっていたのは55年前のことだろう。
歌詞が優しい言葉で綴られ、メロデーが和やかで歌いやすく、当時は真剣に歌っていた。


動画サムネイル
  

昭和36年(1961,9)11月27日発売
川は流れる
歌手・仲宗根美樹
作詞・横井弘
作曲・桜田誠一

病葉(わくらば)を きょうも浮かべて
街(まち)の谷 川は流れる
ささやかな 望みわすれて
哀(かな)しみに 染まる瞳に
たそがれの 水のまぶしさ

思い出の 橋のたもとに
錆(さび)ついた 夢のかずかず
ある人は 心つめたく
ある人は 好きで別れて
吹き抜ける 風に泣いている

ともしびも 薄い谷間を
一筋に 川は流れる
人の世の 塵(ちり)にまみれて
なお生きる水をみつめて
嘆(なげ)くまい あすは明るく