2018年9月8日土曜日

クチボソに会いたい

クチボソ(モツゴ)
クチボソ

私が西湘の大磯から、今住んでいる保土ヶ谷区権太坂に引っ越してきたのは、約40年前。
引っ越してきて、暫くしてから長女が生まれた。
当然の如く東戸塚駅はなく、勤務には保土ヶ谷駅までバスで行き、そこから原宿駅、横浜駅までJRを使った。
境木だって権太坂だって、通路はガタガタで、あっちこっちに水たまりがあった。
でも、当時にしてみれば、なかなか良好な住宅街だったと、言えないことはない。

東口(2010年8月22日)
東戸塚駅が開業したのは1980年、今から38年前。
これから、駅ができて、駅前には商業ビルが幾つも建って、それは凄く好い街ができるんですよ、と勧められた。
駅が開業しても、駅までの路面はガタガタ、雨の時などはグチャグチャでゴム長がないと歩けなくて、気の利く料理学校のバスの運転手は、歩行に困っている私たちを見つけて、ただ乗りさせてくれた。

この稿の本題は、東戸塚駅や我が家の近辺のことではない、クチボソのことなんです。

引っ越してきた頃から大騒ぎしていたのは、境木や権太坂の北斜面と、今井町や法泉町の南斜面との丁度真ん中辺り、底の部分の水事情だった。
今井川やその他の疏水で谷を作っていたが、そこに流れ込む水の量が余りに大量だった。
その両斜面には大型な住宅地が開発され、雨量は兎も角、下水の処理が地元住民を含めて役所の悩みの種でもあった。
自治会等の会合においてその処理の問題は確実に進めていくが、時間的な余裕は欲しいと言われた。

今、横浜市は下水の処理施設を作ろうと、根を上げて訴えているが、元々、このエリアの下流にとっては、帷子川と今井川が合流する辺りで、川に流れ来る水の量が多過ぎて、氾濫した。
その氾濫のための改修工事が江戸時代から行われていた。
その工事が、完璧に終えたかどうかは、見た目には解らない。

私たちが権太坂の住民として説明受けていたのは、下水問題だった。
しかし、先ほど述べている改修工事も上流部分は未完成だったから、この完成も急いでいたのも事実だ。
かって下水のことを特別の問題として見直されてきたのは、私が引っ越してきた頃からだったように思われる。
非衛生なものだと認識され出した。
下水溝はあったものの、貧弱なもので、いつでも壊されたり、大雨の際、溝からはみ出すことなんかは常だった。
それでは良くないので、何とか川の改修工事と併せて、下水問題に取り組んでいた。


話しはちょっと大事なところからはみ出してしまった。
私の住宅の前の東道路を西に300メートルほど下がっていくと、JRの線路があって、線路に沿うように下水溝があった。
我が家に犬がいた時は、線路と下水溝の間に1メートルほどの歩道があって、その道を行って帰るだけで3キロあった。
私にとって、他人に言えない楽しみの一つだった。
その道に入ると、犬(ラブラドール・ゴンと呼んだ)をロープから外した。
勢いに乗ったゴンは、私のことなど忘れて暗闇の中に隠れた。
それから、30分ほどしてから、鼻息高らかに、口からは涎を垂らしながら、威風蒼然と帰ってくる。
この光景が嬉しかった。
「クチボソ」の画像検索結果

そして気が抜けたところで、その疏水でのクチボソの泳ぎを観てホッとするのだ。
それほど、こんなひと時がどれほど嬉しかったことか!
野道から見下ろして5メートルぐらいの下の小さな水たまりに、クチボソがそれでも10匹ほどが群れをなして泳いでいた。
その群れをいつまでも眺めていて、興味を失わない。
この類(るい)に類(たぐい)まれない興味を持つ私は、モンドリを「釣りショッピング」で買って来た。
山岡心にクチボソ心? 皆さんは、私とクチボソの関係を与(くみ)して、ご理解下さい。
思い通りにクチボソを得たのは、当たり前だ。

今から20年ほど前に、この線路と疏水の間の野道を歩くことができなくなった。
JRの線路地を強固にするための大工事が始まったために、こそっと歩けるだけの小さな橋も撤去された。
そうして、愛犬・ゴンは亡くなった。
それでも、あのクチボソが忘れられなくて、障害は自ら除くことによって振り払い、近い将来に必ず実行しようと決めた。





今井川と帷子川の改修工事をネットで得た記事を転載させていただいた。

今井川は、始めは東海道の東側を流れ、中の橋で東海道の反対側に移って帷子川に合流していた。(下図)
長い間、氾濫に悩まされていたが、嘉永4-5年の改修工事で、東海道の東側を直進、直接海へ出るようにした。
工事による土は、嘉永6-7年のお台場工事用に納入された。
今井川工事の遠因
東海道以前、今井川は図のように直接海に流れ込んでいた。東海道新道工事の際、橋を一つ節約するために、点線のように今井川を帷子川につなぎ込んだ。それが原因で合流点での渋滞による氾濫が起き、長い間、地元の苦労の種になった。(保土ヶ谷区史-蔦田説)

帷子川との合流点における水流渋滞を解消することが工事の主目的であった。