こんな初頭のもぞかしい文章で、彼方の頭はさぞかし頓珍漢になって仕舞ったかもしれないが、暫くは付き合ってくださいな。
高校生の時に現実に見あげた天ケ瀬ダム工事、結果、ダムの底に色んな物が埋められた。
そして、今夏、井伏鱒二さんの「朽助のいる谷間」で、高校時代の記録紙が蘇り、昭和50年頃の、懐かしい脚本家・峰山タカシさんの思わぬお話し、そしてやはり高校時代のダムの底に何もかも埋められたことに対する拘(こだわ)りが、連糸のように繋がって来て、このままではスマサレナイぞと感じたのだ。
それから、大学に入っても、未だ見たことのないこの天ケ瀬ダムの水底が、頭の隅っこに幻想として残り続けた。
峰山さんとの面白い談話の後、今度こそ、天ケ瀬ダムの湖底を潜ってみたいと思った。
先月は6日に広島に、9日に長崎に原子爆弾が落とされ、15日に戦争終結。
1945年(昭和20)のことだ。
そんな時にこそ読まなければならない本がある。
井伏鱒二の「黒い雨」、そして「山椒魚」だった。
新潮社の「山椒魚」の次に編纂されていたのが「朽助のいる谷間」だった。
今度は、私はこの本に異常に狂いだした。
この「朽助のいる谷間」で、主人公の谷本朽助と「私」(本のなかでは、私と表現している)は、言い忘れられないほどの交友関係だった。
朽助は77歳、実に頑固に「私」を贔屓(ひいき)している。
彼は毎年、秋になって口から吐く息が白い蒸気となって見える時節になると、「私」に松茸やシメジを、東京に送ってくれる。
その朽助と「私」が長年住んでいた家々が、ダムの建設によって谷底に埋まってしまうのだ、、、、。
「私」は子供の頃、朽助の家へ英語を習いに出かけた。
「木犀の木や松の木のことは、ツリーといいますぞな」
「物覚えの悪い子供はアイズルですがな」
アイズルとは英語のIdleのことなのである。
谷間の底のような所の隣家、山野や谷川、原っぱに包まれての二人の築いた人間関係の模様は、文章からは清々しく崇高だった。
そのことから、山岡は山岡なりの独り物語を、勝手に作りあげて、このブログを書き始めた。
★この本の内容とはーーー。
朽助の小さな家も「私」の家も、当然家の周りの原っぱから小さな峰峰までが、ダムがつくる湖水の底に沈むことになった。
ダムの一番深いところに沈んで行くと言うことの深く悲しい意味が、山岡には良く解かる。
東京で弁護士をしている「私」は、朽助と私の家の引越しのために、実家のある谷間の村までやってきた。
この本は、「私」と朽助と朽助の孫・タエトの3人組が、ダム建設のために住み慣れた家からの引越し物語だ。
朽助がハワイの出稼ぎから帰ってきた時の、我が家への土産に乳母車があった。
その乳母車には英語で「眠れ、眠れ、幼児よ眠れ、夕陽は彼方に入りそめた」とあった。
朽助は未だに自宅から、立ち退(の)かないと言う。
「私」は、駆けつけ、子供の頃よく遊んだ山や谷、原っぱを懐かしんだ。
この作品は昭和4年の発表。
山岡の郷里・京都府綴喜郡宇治田原町と宇治との間に、天ケ瀬ダムが出来たのは昭和39年のこと。
天ケ瀬ダムの大工事を良く知っている山岡は、この本でのダムの工事そのものや、工事に影響を受けた人たちの苦しさは、さぞかし大変だっただろうと苦悶した。
朽助は、「私」の祖父の代にすでに他人に譲渡した山の松茸やしめじを、そんなことは気にもせず、当時と変わらぬまま採り続け、ずっと私に送り続けた頑固な老人だ。
そして、村の人々がすでに移住して居なくなっても、最後の一人になって、自分の家に居続けた。
タエトは朽助の娘とアメリカ人との間に生まれたハーフの娘。
祖父との二人暮らしで、異性を気にしない明け透けない部分があり、それに対する私の反応が微笑ましくて、読み手の心を振るはせる。
「私」に促され、朽助は渋々村が用意した新宅に移り住む決心をした。
決心はしたものの、やりきれなさの様子が描かれている。
「私」たちはいなくなったら、実をつけることもないだろうと、庭の杏の実をことごとく落としてしまった。
桜の樹に群がった毛虫に、「蝶々にはなれないだろう」と独りごちる。
朽助は、杏の木をゆすりはじめた。
杏の木によじ登って、そして枝にまたがり、自分の体の重みを前後に動かしながら、杏の木に対しては痛々しいまでに枝をゆすぶっていた。
地面には新鮮な塵芥だらけになった。
そして砕けた果実から飛散する香(にお)いは、朝の空気に酸味ある色彩をもたらした。
何だかんだと言いながら、新居に引越しは出来たものの、未だ、事の変化に馴染まぬ朽助は、やりきれずに最後の晩を、今までの住宅で過ごしたがり、蒲団を持ちながら、舞い戻った。
いかんともしがたい悲しみに、一人で朽助は耐えた。
この姿は、なんとも悲しく、痛々しい。
そんな状況ののなかで、井伏鱒二は優しくユーモアに溢ふれている。
風呂上りに裸で涼んでいると、次に風呂に入ったタエトは叫び声を上げて裸体のまま、「私」に風呂場に毛虫がいたことを報告した。
「私」が裸どうしであるにもかかわらず、タエトに毛虫の講釈を始めた。
「私」の目線は彼女の裸に惹き寄与せられているが、それでいても、厭らしさを感じさせない井伏さんの筆っぷり。
タエトの日本人の祖父と祖母との仲に出きた私の母と私の父(アメリカ人)との仲に生まれたのです。
こ
前の文章では、私はタエトのこと。
私は見かけはアメリカ人でも立派な日本人です。
もっともタエトは、父親が勝手にアメリカへ帰国し、母親はすでに亡くなり、身寄りは祖父・朽助一人だった。
父親と「私」の不思議な人間関係は、彼女の存在が静謐に確立しながら、また悲しみなのです。
この本のことについては、この程度にしか書けないのだが、私の人生のその後の行き当たりバッタリで、余計なことを考えてしまった。
この作品は井伏鱒二らしく、山河や谷、その他の風物が、ときには静止画を観ているような気持ちになった。
住宅を囲む風景や、三人の心像風景までが、色鮮やかに描かれているのが、井伏鱒二さん風だ。
彼達の住宅が、ダムでできた湖水の一番深い所に沈められた。
当然、文章の中に表現されていた物は当たり前、それ以外の街路や墓やお地蔵さんや、小さな橋や、子どたちが遊んでいた広場、お婆ちゃんたちのお喋り広場もあったはずだ。
それらが、撤去されないまま、水の中へ。
付属してガードレールや交通標識。
山野の側面に残った樹木はどうなっているのだろう。
小さな橋だってあったはずだ。
記念碑的に作られた彫像などの遺構なども。
そんな光景を、高校時代に天ケ瀬ダムの建設を見通して知っている。
山や谷、子供たちが注意しなければならない警告板や注意書きも。
私が京都府立城南高校に通いだしたのは、昭和の38年からだった。
当時、私の住んでいた町からは、城南高校までは朝の通学のみ、専用バスが走っていた。
だが、何から何まで皆のやっていることに合わせたくない私は、しばらくは自転車通学していた。
この高校の入学試験を受けるためには、中学校内の決め事があり、私は3年生になるまではその資格がなかった。
でも、そんな資格なんて屁みたいなもので、何とか、ちょっとばかり勉強すればそれで、すんなり済まされた。
通信簿のアレとコレを、ちょっとここまで揚げれば、それでオッケーだった。
自転車は、中学生の時に使っていたものを、そのまま使った。
ところがドッコイ、この自転車通学がこれほど面白いものだとは、思い付かなかった。
この通学路が危険極まりない面白味を控えていた。
それでも私以外の人間は、山岡のことを、変人のように思ったようで、それ以外の嘲笑はしなかった。
誰もが、そんなに豊かじゃなかったから、それ以上の興味は持たなかったようだ。
朝の行きは下り坂、帰りは登り坂。
朝、雨が降る中を走る行きのバスを、私は難なく追い抜いていた。
この通学路は、ダムに溜められた湖水やダムからの流れになる宇治川に沿っている。
宇治平等院の前を通り、JR宇治駅・京阪電車宇治駅を右斜めに眺めながら、高校まで。
2年生になってからは、兄が使っていたホンダのカブをいただき、それからの通学は楽チンだった。
琵琶湖から流れてくる瀬田川に、我が郷里を流れ進んだ田原川が合流して、ダムに貯留され、ダムからは宇治川として宇治市内の真ん中を流れる。
宇治川には、木津川と桂川、その他にも幾つかの川が合流して淀川になる。
かって宇治からまっすぐに西へ流れて巨椋(おぐら)池に注いでいたが、文禄3(1594)年から豊臣秀吉が伏見を経由するように改良した。
その後、この巨椋地域はすっかり土が埋められ、立派な住宅街になっている。
この通学路に自転車で走っていたころ、ダムは最終工事に入っていた。
そして、私が高校2年生の1964年に、天ケ瀬ダムは完成した。
我が故郷は、遙か上方の地域であって、交通での障害は幾らかあり、それなりに不安や不満があった。
ここで何を記述したがっているかと、読者の方は思われるだろうが、このダムの建設に関しての地域住民としての困苦、無念、難儀の話ではない。
ダムのためのコンクリート工事が終了して何か月してから、水を溜め出した。
傍視しているだけの私にとっては、ただ、興味本位だけだったけれど、その規模の膨大さにだけは肝を抜かれた。
何もかもが残されたままの沈没だった。
小学生時代には、バスに乗って、よく行き来した道だったが、それなりの装備が行き届いていた。
ただ、急峻は崖を背にしていたので、大雨の時には、必ず崖崩れが発生し、通勤路としては大きな欠陥道路と言われていた。
バスは通過できなくて、少しだけの空き場を作って、自転車や小型の自動車はなんとか通れるように工事の配慮はあったが、その度(たび)重なる事故は嫌(いや)だった。
★天ケ瀬ダム界隈のことを、ネットで得た写真その他を利用させてもらったので、ご覧ください。
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天ヶ瀬ダムの前にちょっと寄り道。
ダム下流にある吊り橋「天ヶ瀬橋」です。 -
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横から〜
近くに公衆トイレもあり、多くの釣り人がいらっしゃいました。
何が釣れるのかな・・・ -
天ケ瀬ダムに来ました。
何年振りかな〜 -
入口にあるモニュメント
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天ヶ瀬ダムに入場するには入口で見学者の名前と住所(代表者)、同行人数を書かなければならなくなりました。
また、17時〜翌朝8時までは閉門され、監視カメラも設置されています。
途中の通路にも監視員さんがおられます。
これらは自殺防止策としての事です・・・
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入口近くにあるトイレ
(何故か黄色〜妙に明るい^^;) -
では、歩いてみます。
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左岸から右岸を見たところです。
天ヶ瀬ダムは堤長254m、堤高73mのドーム型アーチダムです。 -
ダムから下流を見下ろす。
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上流側の鳳凰湖
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天ヶ瀬ダム右岸から天ヶ瀬森林公園へ行きます。
以前は川沿いの道を通って行けたらしいのですが、崖崩れの恐れがあるらしく現在は通行止めになっています。 -
森林公園近道とある、
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階段を上っていきます。
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階段を上りきった所に駐車場がありました。
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イラストマップを見て歩くコースを考えます。
赤線を下から時計回りに歩きました。 -
では出発します!
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それにしても人がいません。
ゆったりでいいけど♪ -
ツツジの道に入ります。
これから、最後のお話に移ります。
昭和50年頃のことだと思う。
昭和50年頃のことだと思う。
峰山タカジさんとのお話をここで話さないと、このブログの奇っ怪さが解かってもらえない。
ある大学のサッカー部に所属していた私は、サッカー以外のことに、不思議なくらい興味を持たない人間だった。
そんな私に出来ることと言えば、お金が潤沢でないことが大きな原因なんだが、昔の巨人と謂われていた作家の本を、闇雲に読むことだった。
その作家とは、太宰治、坂口安吾、織田作之助、田中英光、檀 一雄、山岸外史、デカダン派、新戯作派、無頼派とも言われていた人たち。
彼らの本を見つけ次第、易いに越したことは無かったが、買って買って、買い捲った。
その費用なんて、部友の誰もが驚く程のことは無かった。
そして、読んだ本の感想を話す相手として、テレビや映画のシナリオを担当していた峰山タカシさんが、私と親しくしていただいた。
知り合ったのは、グラウンドの傍の水飲み場、昼飯での芳葉・中華ソバ屋さんだった。
この芳葉では、3,4年生のときに、昼間1時間アルバイトをした。
昼飯付き、時給400円か?500円。
サッカー部仲間が来たときに、ついつい飯の盛りが大盛りになってしまって、お~いおい、山岡! と嫌な目をされた。
この峰山タカシさんの名前は、私がこのブログのために勝手に造語したものです。
彼の死後、何かと嫌なことが言われそうなので、敢えて、そんなことをしてしまいました。
私が身も心も遣られっ放しの作家や書名を述べると、ことごとく彼の持つ印象を述べてくれて、時間の経過とともに、ニッチもサッチも行かない人間関係に嵌り込んでしまった。
サッカー部に所属しながら、夕も夜も朝もない、変形な一日を過ごすことになってしまった。
そんなある夜、私は天ケ瀬ダム工事の話をして、工事終了後あっ気なく、何もかもを埋めてしまったことを話した時、彼はニンマリ笑いながら、山岡さん、それはさぞかし面白い事件に遭遇したことになりますよ。
考えてご覧、ダムで作られた湖水の底に、今までの歴史が、血と涙の伴う人間の生活の全てを埋めて仕舞ったことになるのですよ。
そんなアホみたいなことが、堂々と行われたことに批判の目を持っていいのです。
峰山タカシさんご自身も、そんなことってありか? と不思議だったのですと吐露。 そのことに興味を持った水中カメラマンが居て、彼は、撮った写真をグラビアなどで紹介していることを話してくれた。
でも、私にも時間的な余裕がなくて、そのカメラマンの名前から出している書名など聞くことなどできなかった。
そんなことを言われたのが、今から約45年前。
ーーその時に、思い出したのは、天ケ瀬ダムが完成した時のことだ。
ダムに水がいっぱい詰められたのが約55年間。
井伏鱒二さんの「黒い雨」「山椒魚」「朽助のいる谷間」を読んだのは、50年前。
その時は、まさかこの「朽助のいる谷間」がダムの湖底に埋められたなんて、それほど意味深く考えなかった。
再読したのは、今夏2018年(平成30)の8月。
昭和20年8月6日に広島、9日長崎に落ちた原子力爆弾の影響は、こんな世代の私だけど、この時機、読まないわけにはいかない。
長年、頭や腹の中に、掻い潜って持ちかまえていたモノが、ここで、またひっくり返ってきた。
こんな段階踏んで、ダムの何もかも一緒くたに埋める夢の無い施策に、急に腹が立ってきたということが、今回のブログの生粋だ。
ある大学のサッカー部に所属していた私は、サッカー以外のことに、不思議なくらい興味を持たない人間だった。
そんな私に出来ることと言えば、お金が潤沢でないことが大きな原因なんだが、昔の巨人と謂われていた作家の本を、闇雲に読むことだった。
その作家とは、太宰治、坂口安吾、織田作之助、田中英光、檀 一雄、山岸外史、デカダン派、新戯作派、無頼派とも言われていた人たち。
彼らの本を見つけ次第、易いに越したことは無かったが、買って買って、買い捲った。
その費用なんて、部友の誰もが驚く程のことは無かった。
そして、読んだ本の感想を話す相手として、テレビや映画のシナリオを担当していた峰山タカシさんが、私と親しくしていただいた。
知り合ったのは、グラウンドの傍の水飲み場、昼飯での芳葉・中華ソバ屋さんだった。
この芳葉では、3,4年生のときに、昼間1時間アルバイトをした。
昼飯付き、時給400円か?500円。
サッカー部仲間が来たときに、ついつい飯の盛りが大盛りになってしまって、お~いおい、山岡! と嫌な目をされた。
この峰山タカシさんの名前は、私がこのブログのために勝手に造語したものです。
彼の死後、何かと嫌なことが言われそうなので、敢えて、そんなことをしてしまいました。
私が身も心も遣られっ放しの作家や書名を述べると、ことごとく彼の持つ印象を述べてくれて、時間の経過とともに、ニッチもサッチも行かない人間関係に嵌り込んでしまった。
サッカー部に所属しながら、夕も夜も朝もない、変形な一日を過ごすことになってしまった。
そんなある夜、私は天ケ瀬ダム工事の話をして、工事終了後あっ気なく、何もかもを埋めてしまったことを話した時、彼はニンマリ笑いながら、山岡さん、それはさぞかし面白い事件に遭遇したことになりますよ。
考えてご覧、ダムで作られた湖水の底に、今までの歴史が、血と涙の伴う人間の生活の全てを埋めて仕舞ったことになるのですよ。
そんなアホみたいなことが、堂々と行われたことに批判の目を持っていいのです。
峰山タカシさんご自身も、そんなことってありか? と不思議だったのですと吐露。 そのことに興味を持った水中カメラマンが居て、彼は、撮った写真をグラビアなどで紹介していることを話してくれた。
でも、私にも時間的な余裕がなくて、そのカメラマンの名前から出している書名など聞くことなどできなかった。
そんなことを言われたのが、今から約45年前。
ーーその時に、思い出したのは、天ケ瀬ダムが完成した時のことだ。
ダムに水がいっぱい詰められたのが約55年間。
井伏鱒二さんの「黒い雨」「山椒魚」「朽助のいる谷間」を読んだのは、50年前。
その時は、まさかこの「朽助のいる谷間」がダムの湖底に埋められたなんて、それほど意味深く考えなかった。
再読したのは、今夏2018年(平成30)の8月。
昭和20年8月6日に広島、9日長崎に落ちた原子力爆弾の影響は、こんな世代の私だけど、この時機、読まないわけにはいかない。
長年、頭や腹の中に、掻い潜って持ちかまえていたモノが、ここで、またひっくり返ってきた。
こんな段階踏んで、ダムの何もかも一緒くたに埋める夢の無い施策に、急に腹が立ってきたということが、今回のブログの生粋だ。