2018年9月24日月曜日

「ビルマの竪琴」に啼く

此の夏、7月から今(9月21日)まで、体の状態が好いことと、併せて読書の量が凄まじく多かった。
この数年、足腰が自由に動かすことができなかった故に、情けないことに本を読むことが少なかった。
そんなことを、自省(じせい)紛(まが)いに書いたって、読む人は誰も、面白くも可笑しくもないだけのことだ。

ところが、此の7月から読み出した本は豊かだ。
7月8月には井伏鱒二さんの「山椒魚」(新潮文庫)、「黒い雨」(新潮文庫)、そして夏目漱石の「坊ちゃん」(新潮文庫)、島崎藤村の「夜明け前」1部/前後(岩波文庫)。
昨日読み上げたのが、松本清張の「十万分の一の偶然」(文春文庫)。




今、読書中なのが竹山道雄の「ビルマの竪琴」(新潮文庫)だ。

私の小学中学生時代だったと思うが、映画化されたことは知っていた。
内容は知らないまま今に至った。
映画の宣伝広告では、派手な取扱いをしていた。

そして、大いにサービスを提供してくれる安売り中古本屋さん通いしかない私にとって、こんな本が廉く仕入れられるので、この中古本屋こそ有難い味方だと思っている。
正確に言えば、今流行りの若い人の書いた物には、私の脳波は作者の意図に就いていけない。
上に揚げた本は、7月に纏めて仕入れた。

ここまで仕上げた今朝。
朝日新聞・朝刊の増刷分/BEの掲げられている山本祐ノ介さん(55歳)の顔写真に驚いた。


タイトルは、赤いタキシードに音楽の原点。
この山本さんの父親は「男はつらいよ」のテーマ曲も手がけた作曲家・指揮者の故・山本直純さん。
この父親がテレビなどに出る時、楽しさいっぱいの表情で、お馴染みの赤いタキシード。
この親父に、何とか負けたくないと思っていたのではないか。
希代のエンターテイナーの背中を見て育った。
幼い頃から音楽教育を受け、28歳で東京交響楽団の首席チェリストへ駆け上がる。
順風万帆の音楽人生を歩んでいるはずなのに、「自分の音楽を響かせたい。指揮者になりたい」と悶々としていた。
正直、もやもやしていたのだろう。
3面でのタイトルは、「音楽は聴く人のためにある」だった。

そんな時期、2001年にできたミャンマー・ヤンゴンのミャンマー国立交響楽団は、長い活動休止期間があり、指揮者もいないような状態だった。
そこにひょこっと山本氏が、見学で現われたものだから、団員から「教えてくれ!」となった。

山本氏だけの力では到底できない。
日本の音楽仲間に状況を話したら、ミャンマーまで楽器持参で来てパート練習をしてくれる。
楽器をメンテナンスしてくれる。
一流どころの音楽家たちが力を貸してくれる。
国際交流基金が公演の共催になり助成金を出してくれた。
楽器がよくなり、熱意のある指導があり、演奏がよくなっていく。
そうすると、やる気も出てくる。

こんな新聞記事を読んで、俺は今、幽霊にでも頭が引っ張られたのか?と思った。
読んでいる本は「ビルマの竪琴」。
話は、ビルマのある地域を舞台に、日本軍の小隊と竪琴、連合軍と共に進んでいく。
上に書いた新聞記事も合わせて、私の頭の中でひっくるめて廻りだす。
こういう場合は、連奏とか合奏と言えばいいのだろう。
地元の人々、連合軍の人たちを含めた小話となって、果てしなく音楽・竪琴を中枢に共鳴する!
私の頭は、どこまでも、大きなショックを受けながら、共感しまくっていく。



ネットに掲載されていたあらすじに私なりの文を含めた。
★「ビルマの竪琴」のあらすじーーーーーーー。
1945年7月、ビルマ(現在のミャンマー)における日本軍の戦況は悪化していた。
物資や弾薬、食料は不足し、連合軍の猛攻になす術がなかった。

日本軍のある小隊では、音楽学校出身の隊長が隊員に合唱を教え込んだ。
隊員たちは歌うことによって、隊の規律を維持し、辛い行軍の中も慰労し合い、さらなる団結力を高めていた。

隊員の中でも水島上等兵は特に楽才に優れ、特にビルマ伝統の竪琴の演奏が上手だった。
部隊内でたびたび演奏を行い、隊員の人気の的だった。
さらに水島はビルマ人の扮装もうまく、その姿で斥候に出ては、状況を竪琴による音楽暗号で小隊に知らせていた。

ある夜、小隊は宿営した村落で印英軍に包囲され、敵を油断させるために「埴生(はにゅう)の宿」を合唱しながら戦闘準備を整える。
小隊が突撃しようとした刹那、敵が英語で「埴生の宿」を歌い始めた。
両軍は戦わないまま相まみえ、小隊は敗戦の事実を知らされる。

隊が部隊で合唱したのは、「春高桜(こうろう)のーー」、「菜の花畑(はなばたけ)にーー」、「パリの屋根の下ーー」、「庭の千草」、「都の西北」だ。

降伏した小隊はムドンの捕虜収容所に送られ、労働の日々を送る。
しかし、山奥の「三角山」と呼ばれる地方では降伏を潔(いさぎよ)しとしない日本軍がいまだに戦闘を続けており、彼らの全滅は時間の問題だった。

彼らを助けたい隊長はイギリス軍と交渉し、降伏説得の使者として、竪琴を携えた水島が赴くことになる。
しかし、彼はそのまま消息を絶ってしまった。
その後の水島のことについては、後の方で書く。

収容所の鉄条網の中、隊員たちは水島の安否を気遣っていた。
そんな彼らの前に、水島によく似た上座仏教の僧が現れる。
彼は肩に青い鸚哥(インコ)を乗せていた。
隊員は思わずその僧を呼び止めたが、僧は一言も返さず、逃げるように歩み去る。

大体の事情を推察した隊長は、親しくしている物売りの老婆から、一羽のインコを譲り受ける。
そのインコは、例の僧が肩に乗せていたインコの弟に当たる鳥だった。
隊員たちはインコに「オーイ、ミズシマ、イッショニ、ニッポンヘカエロウ」と日本語を覚え込ませる。

数日後、隊が森の中で合唱していると、涅槃仏の胎内から竪琴の音が聞こえてきた。
それは、まぎれもなく水島が奏でる旋律だった。
隊員たちは我を忘れ、大仏の体内につながる鉄扉を開けようとするが、固く閉ざされた扉はついに開かない。

やがて小隊は3日後に日本へ帰国することが決まった。
隊員たちは、例の青年僧が水島ではないかという思いを捨てきれず、彼を引き連れて帰ろうと毎日合唱した。

戦う小隊は収容所の名物となり、柵の外から合唱に聞き惚れる現地人も増えたが、青年僧は現れない。
隊長は、日本語を覚え込ませたインコを青年僧に渡してくれるように物売りの老婆に頼む。

出発前日、正面の柵のむこうの人ごみのなかに、黄色い衣を着た姿を現した。
あのビルマ僧のことです。
ビルマ僧がきらきら光る青いインコを両肩に一羽ずつのせて、立っていた。
合唱はやみました。

柵にもたれていた人びとはふしぎそうにざわめきました。
ビルマ僧は凝然と立ちすくしたまま、顔色も少しも動かしません。
ただ、彼の肩の上のインコがのびあがって、かんだかい声で、その耳にせわしなく囁(ささや)いています。
「おーい、水島。いっしょに日本にかえろう!」

実はこのビルマ僧は、水島上等兵だったのだ。

収容所の柵ごしに隊員たちは「埴生の宿」を合唱する。
ついに青年僧はこらえ切れなくなったように竪琴を合唱に合わせてかき鳴らす。
彼はやはり水島上等兵だったのか?

隊員は躊躇した。
もし別人だったら、ビルマ人が尊崇している僧侶に対して無礼になることは、あたりの人々に対しても遠慮しなくてはならない。

隊員たちは一緒に日本へ帰ろうと必死に呼びかけた。
しかし彼は黙ってうなだれ、『仰げば尊し』を弾く。
やっぱり水島上等兵だったのです。

日本人の多くが慣れ親しんだその歌詞に「今こそ別れめ!(=今こそ(ここで)別れよう!)いざ、さらば。)と詠う別れのセレモニーのメロディーに心打たれる隊員たちを後に、水島は森の中へ去って行った。
水島には、日本軍人の戦争で亡くなった人たちの心、霊が染みついていた。

翌日、帰国の途につく小隊のもとに、1羽のインコと封書が届く。
そこには、水島が降伏への説得に向かってからの出来事が、克明に書き綴られていた。
水島は三角山に分け入り、立てこもる友軍を説得するも、結局その部隊は玉砕の道を選ぶ。

説得するための時間は、30分と決められた。
やむなく、戦闘に巻き込まれて傷ついた水島は崖から転げ落ち、通りかかった原住民に助けられる。

ところが、実は彼らは人食い人種だった。
彼らは水島を村に連れ帰り、太らせてから儀式の人身御供として捧げるべく、毎日ご馳走を食べさせる。

最初は村人の親切さに喜んでいた水島だったが、事情を悟って愕然とする。
やがて祭りの日がやってきた。
盛大な焚火が熾され、縛られた水島は火炙(あぶ)りにされる。

ところが、不意に強い風が起こり、村人が崇拝する精霊・ナツの祀られた木が激しくざわめきだす。
「ナツ」のたたりを恐れ、愕く村人たち。

水島上等兵はとっさに竪琴を手に取り、精霊を鎮めるような曲を弾き始めた。
やがて風も自然と収まり、村人は「精霊の怒りを鎮める水島の神通力」に感心する。
そして生贄の儀式を中断し、水島に僧衣と、位の高い僧しか持つことができない腕輪を贈り、盛大に送り出してくれた。

ビルマ僧の姿でムドンを目指す水島が道々で目にするのは、無数の日本兵の死体だった。
葬るものとておらず、無残に朽ち果て、蟻がたかり、蛆が涌く遺体の山。

衝撃を受けた水島は、英霊を葬らずに自分だけ帰国することが申し訳なく、この地に留まろうと決心する。
そして、水島は出家し、本物の僧侶となったのだった。

水島からの手紙は、祖国や懐かしい隊員たちへの惜別の想いと共に、強く静かな決意で結ばれていた。
手紙に感涙を注ぐ隊員たちの上で、インコは「アア、ヤッパリジブンハ、カエルワケニハイカナイ」と叫ぶのだった。

私はこの異国の僧となって、これからはこの道を行きたいと願います。
山をよじ、川をわたって、そこに草むす屍(かばね)、水づく屍を葬りながら、私はつくづく疑念に苦しめられました。

ーーーーいったいこの世には、何故にこのような悲惨があるのだろうか。
何故にこのような不可解な苦悩があるのだろうか。
われらはこれをどう考えるべきなのか。
そうして、こういうことに対してはどういう態度をとるべきなのか?

この何故ということは、所詮人間にはいかに考えても分からないことだ。
われわれはただ、この苦しみの多い世界に少しでも救いをもたらす者として行動せよ。

そうして、いかなる苦悩・背理・不合理に面しても、なおそれにめげずに、より高き平安を身をもって証(あか)しする者たちの力を示せ、と。
このことがはっきりとした自分の確信となるよう、できるだけの修行をしたい、と念願しだした。

このことをよく考えたい。
教わりたい。
それを知るべくこの国に生きて、仕え、働きたい、と念願いたしますとあった。