2013年10月29日火曜日

ネエネエ、八丁畷って

今度、京浜急行線の八丁畷駅から歩いて2分ぐらいの所で、中古住宅をリフォームして販売する予定だ。この物件に関わる仕入担当者や工事担当者が、何度も口から発する「八丁畷/はっちょう なわて」が、聞く度に耳に残り、見る度に3文字の漢字が網膜から消えない。

ちょっとこれは、調べてみる価値はあるな、とネットに頼った。

Yahoo 知恵蔵によれば、八丁畷の地名の由来は、川崎宿から次の市場村まで距離8丁の「あぜ」道があったことによる、とある。

畷(なわて)とはあぜ道のことで、8丁は870メートルに相当するそうだ。

あぜみち?

不動産の登記簿謄本や公図を前にして、我々不動産業に携わる者たちは、よく畦畔(けいはん)という言葉を口にする。大体は国有地で、たまには地元の自治体の所有地になっている。少し意味が違うが赤道とか青地と呼ぶこともある。そして、その畦と畔は、ともに畦道(あぜみち)であって、畔道(あぜみち)なのだ。田畑の端で通行の用途に供される細長い土地のことだ。通行に使われていない畦畔は、傾斜地になっていることが多い。

ならば、この畦のあぜと、この畔のあぜはどのように違うのだろう? 昔、高峰三枝子の「湖畔の宿」という歌謡曲が歌われていたので、畔はどうも「辺り」(あたり)という意味が含まれているのだろう。「山の淋しい/湖に/ひとり来たのも/悲しい心」の歌詞で知られる大ヒット曲だ。

畦は、水田と水田の境に水田の泥を盛り上げて、堰のようにして水が外に漏れないようにする。その際に土の上に土を盛り上げるさまをイメージして、圭の文字を使って表現したのだろうか。作物を植えたり種を蒔いたりするのに、周囲の地面よりも高くする畝(うね)とは違う。

私の考察は、レベルが低過ぎますか!

2013年10月23日水曜日

今年も「銀河鉄道の夜」が近づいてきた

銀河鉄道の夜

今年も、東京演劇アンサンブルの、ブレヒトの芝居小屋での宮沢賢治・「銀河鉄道の夜」の公演が近づいてきた。

早速、例年通り招待状を3日前にいただいた。招待を受ける日は12月23日(天皇誕生日)、15:30~だ。招待を受けた私だけが観劇に行ったところで、劇団さんには収益的には喜んでもらえない。

今年の7月25日、長女の娘・梅(小1)と次女の息子・晴(小3)と私の3人組で、松居スーザン・「はらっぱのおはなし」を、このブレヒトの芝居小屋で観た。音楽劇だった。このときに、初めて芝居を観た梅が、こんなに喜んでくれるなら、次回もこれからも、、、暫くは、オイラは一緒の3人組だ、と決めた。よって、今回は当然のように3人組で行く。

従兄妹同士の晴と梅、仲がいいのがジジイには微笑ましい。この孫たちにいつまでも寄り添っていたい、成長を見届けたいと思う。この3人組が、3年後には4人組になり、5年後には5人組、7年後には6人組になるだろう。きっと、そうなる。

そして先月、梅の誕生日に、私からの誕生プレゼントとして、このお芝居の招待状を手作りして手渡した。

劇団からの郵便封筒には、招待状とa letter from the Ensembleが入っていて、そのなかに、親しくさせてもらっている代表者の入江洋佑さんの「やるしかない」と、演出家の青井陽治(あおいようじ)さんの「銀河鉄道の夜」とブレヒトのことに触れた文章を見つけた。ブレヒトを余り理解していない私にとって貴重な文章でもある、ここに転記、マイファイルさせてもらった。

 

「やるしかない」

著・入江洋佑

「何をやっても間に合わない/世界ぜんたい間に合わない」 1927年8月の詩稿である。「銀河鉄道の夜」は、最愛の妹トシの死を賢治自身どう昇華しようかと志した作品だ。恐らく24年のサハリン旅行の悲しみの中で構想が閃いたに違いない。しかし、それから10年間改稿を重ね推敲を続けても納得のできる作品にならなかった。そのことは賢治にとって妹トシの死、そして広く人間の死をどう考えたらよいのか一生位置づけることが不可能だったのだろう。賢治の「銀河鉄道」の草稿の中に何回も鉛筆で「いとしくおもうものが そのままどこへいってしまったかわからないことから ほんとうのさいは(わ)いはひとびとにくる」と書いては消し書いては消したあとが10回にわたってみとめられると研究者の紹介文がある。妹トシ⇔カンパネルラの死をそのように考えたかったのだが、その甘さを許せなかったのだろう。冒頭に引用した詩句は、自分の身体の不調、(死を予感したのだろうか)、実践としての羅須地人会の困難、東北の飢饉、世界大恐慌の予感、そして自分の詩作の「銀河鉄道」の未完の焦りの中でふと漏らした悲鳴なのだ。

(何をやっても間に合わない)、これは今の僕の実感でもある。

アンサンブルは来年創立60年になる。1954年に18人で出発した。創立の文書には「明日を待ち望み、明日のために汗する人たちと共に」と翻訳調の言葉が並べられている。アメリカがビキニ環礁で世界初の水爆実験を行い200キロメートルも離れた海域で操業中の漁船第五福龍丸の乗組員が全員被爆し死者も出るという衝撃的な事件のあった年だ。第1作「みんな吾が子」(ミラー作) 第2作「森の野獣」(ヴオルフ作) いづれも激しい反戦のドラマだった。その頃は日本国中(敗戦から10年)みんな戦争に反対だった。4000万人の死者を出した第2次世界大戦、人類は再びこの愚かな行為は繰り返さないだろうと考えていた。しかしそれから60年、地球上で戦争のなかった年はない。そして、日本はもう戦争をする国になっている。集団的自衛権、憲法9条改悪も時間の問題といっても良いだろう。時には自衛のためには日本にも原爆が必要だという声も聞けてくる。アメリカも中国もロシアもいや世界中が。僕は60年間何をやってきたのか、宮沢賢治の「何をやっても間に合わない/世界ぜんたい間に合わない」この言葉が痛く強く身に沁みる。でも諦めるわけではない。「海鳴りの底から」(堀田善衞)の作中明日全滅と覚悟した中で一人の老女が話す「この世の中は本当に善くなっていくのだろうかと思う大勢の人の溜息が天に届くのさ」そして一人の農民が明日の死を知りながら、麦を踏む。そう仕事は続けなければならない。「銀河鉄道の夜」の最初のシーンで水俣の水銀に冒されて骨の曲がった魚が生まれないように僕たちにできることはなにか。ジョバンニは、真っ黒な宇宙を見つめてこう叫ぶ。「あの闇の中にほんとうの幸いがつまっているかもしれないんだ」。そう、かもしれないんだ。やってみるしかない。

 

「銀河鉄道の夜」

著・青井陽治

朗読やリーデイングのワークショップの時、銘々好きなテキストを選んでもらう。必ず誰かが選ぶのが、宮沢賢治・金子みすず・谷川俊太郎。だが、彼らを選ぶ人は要注意だ。いかにもな声を作り、独特のtーンで読む。しかし、詠嘆風に、嘘臭いユーモアや作り物の透明感など漂わせても、太刀打ちできる相手ではない。やさしい、だが強固な文体。言う間でもないことだが、賢治はやわではない。みすずも俊太郎も。その文体も、その世界も、雰囲気で絡め取るなど不可能だ。じゃがいものような実体をつかまなくては!

ブレヒトってのはな、ヨーロッパの演劇のおもしろさ、楽しさ、はなやかさ、うまい見せ方ーーーーすべて知り尽くしたおっさんなんだよ。その達人がちょっとここから見てごらんと、未知の視点を示す。すると陽画が陰画に反転する。泰西名画の向こうに、世の中の仕組みや美女の骨格と血の巡りが透けて見える。それが異化ってことだよ。同化、つまり、うっとりさせる力あっての異化なんだ。街角の洋食屋のオムライスだって、パセリがちょこっと乗っかってると、うまそうに見える。異化はそのパセリだよ。

ところが日本のブレヒト信者たちは、パセリだけ皿に山盛り出してきて、これがブレヒトだと言う、おいしいオムライスを作ろうとせずに。44年前の、師の言葉。賢治とブレヒトの魂は響き合うのか? ブレヒトの総本山で、賢治はどう異化の視点を持って舞台化され、かつまたその磁場に僕を捕え、陶酔させてくれるのか?僕は、賢治の見た夢を追えるのか?

ある時、舞台監督が、うれしそうに寄って来た。「ちょうど設定の年に出た漱石全集が見つかったんですよ! この家にあったらぴったりですよね!いい感じに古びててですねーーー??!!」。笑顔が退いて行った。

「そうなんだよ、ごめん。その年にはぴっかぴかの新刊だったんだよね、あの漱石全集は!」。僕たちは昔の人を昔の人だから古いとしばしば勘違いする。古いものとして、その良さに迫ろうとする。彼らより進化した人間として、彼らの素晴らしさを再発見しようとなどする。とんでもない! 鴎外や漱石は言うに及ばず、鏡花も万太郎も、そして賢治も、その時代に、どんなモダンな、新しい人であったかを忘れては、正しく捉えられない。70年、50年、100年前の作品と向き合う時、それがその当時、どれほど斬新だったか、時には革命的でさえあったか、その視点を持ち損ねたら、お終いだ。作家に大変な失礼をすることになる。

作家は、自分の本質とか真実ばかりを、作品の核に置くわけではない。憧れや願望も、時には立派な動機になる。としたら、賢治は、たとえば自作を故郷の訛りや音声化されるなど望んだだろうか、外国や宇宙にいつも思いを馳せた彼が? もちろん、故郷の訛りなくしては成り立たない作もあるけれど。

僕には、ジョバンニの銀河旅行が、臨死体験とも思えてならない。母が行ってしまう死の世界を、母より一足早く、ジョバンニは夢のなかで視察に行ったのではないか、母に「こわがらなくても大丈夫だよ」と言ってあげたくて。僕は、恋多く頃、好きになった人が死ぬ夢を見ると、「あ、本気だな、僕!」と知った。カンパネルラは、ジョバンニの夢の中で死ぬのでは駄目だったのか。

武蔵関の駅からブレヒトの芝居小屋まで、いろいろ思いが交錯した。僕は、方向音痴ではないのだが、この駅では、毎回、どっちが劇場だかわからなくなる。僕の磁場を掻き乱す何かがあるらしい。それを脱出して、間違いなくブレヒトの芝居小屋へ向かっている、と軌道を確認してからの道は、これから見る芝居に思いを馳せたり、心を空にしたり。『銀河鉄道の夜』の帰り道は、行きのさまざまな思いに、美しい、確かな答えを得て、西武線を新宿とは反対方向に乗りたくなった。そしたら、もしかしたら、まわりはいつの間にか闇となり、電車はふわりと浮いて、銀河をめざしてはくれないだろうか。そんな期待に、胸がうれしくざわめいていた。

内田が語るドイツサッカー

38℃。。。だと?!|off the wall  内田篤人のブログはこまめ日和?噂のCMグリコ2013!裏話とは ...

世界のスター選手が集う欧州にあって、ブンデスリーグ(ドイツ1部)の競技レベルは、スペイン、イングランドに次ぐ3位に位置すると欧州サッカー連盟は算出しているそうだが、昨季に限ってはとんでもない、ドイツサッカーこそが欧州で一番存在が目立った。

そんなドイツで、強豪シャルケに所属して、チームにとってかけがえのない選手になった日本人選手・内田篤人が、新聞紙上に語っていた内容が印象的だった。

それは、サッカーを少しやった者なら、誰もがやる練習の一つに、ボール回しというのがある。コートを少し狭くして、両チームを5人から7人に分けれて、攻撃と守備に分かれてボールを奪い合う練習だ。この練習について、内田選手は日本とドイツの違いに驚いたようだ。

私もその違いを聞いて、やはり驚いた!! だが、未だに、子どものサッカー教室などでコーチに関わっている人でさえ、知らないままの人が少なくないのではないか?と思って、この文章を綴っている。

ドイツ人は体が大きくてパワーがあり、目の前の敵との1対1にこだわって、相手を崩すとか、抜くとか、力で潰そうとする。が、日本では、この練習を自然に「上手にパスをつなごう」ということになる。私も、大学においてはこのように練習してきた。地元のサッカー教室でも、子どもたちに私がやってきたように教えた。

パス回しという名称からも、ボールを持つとマークを外している味方を見つけてその者にパスを出す。又、パスをもらうために動きに緩急をつけたりフェントで相手のマークを外す。空きスペースを効率よく使う、そして相手のマークを受けながらのキックやトラップの精度を高める、そのような練習だが、得てして、日本ではパス回しを最優先にした練習になっている。

ところがドイツでは、前の方で触れたように目の前の敵との1対1にこだわって、そのマークする相手を自らの力で抜こうとする。1対1の潰し合い。サッカーの攻撃の原理原則の第一条は、数的有利な状況を作り出すこと。ボールをキープした者が、パスを出す前に相手マークを外して、スピードに乗れば、ボールを保持する側は極めて有利になり、守る側は大ピンチに陥る。

そこで、特に子どものチームのコーチの方々に考えてもらいたい。ドイツ式のパス回しと、香川真司が仙台で子どもの頃所属していたチームの、パスをしないでドリブルで前進、相手ゴールに迫る練習を取り入れて欲しい。これらは、1対1の対人プレーに強くなるいい練習方法だと思う。

もう一つ内田がドイツのサッカーについて言っていたのは、日本と同じように、何よりも「チームのため」「勝利のため」という自己犠牲の精神が尊重されることらしい。ミーテイングでも、そればっかり監督が強調して、ちょっと意外でしたと述懐している。

2013年10月20日日曜日

ア式蹴球部思い出アラカルト2

   そんなこともあったか!!                                                

MX-3500FN_20131020_085406_001

1969年、大学に入学入部して2、3ヶ月経った頃、新人戦があった。関東地区の大学間でのトーナメント方式による大会で我がチームは優勝した。

この大会は、さほど重要な大会ではなく、新しく大学に入った学生たちの、学校間の交流を深めようとの試みか、新入部員にちょっとした刺激を与える程度のものだったのか、それにしても、私には大きな影響を与えた。

実力的にメンバーに選ばれるほどの技量を持ち合わせていなかった私は、最初から蚊帳の外、傍観者に過ぎなかったが、仲間が頑張って優勝したことを目の前で見せられ、茫漠として、掴みどころのないこれからの4年間の過ごし方が、少し形をなしたような気がした。そして、心に何か沸々(ふつふつ)としてくるのを感じた。

優勝はしたものの、ア式蹴球部内においては、それほど目出度いことではなく、まあよくやったなあ、程度の評価だった。当時のチームのメンバーは、日本A代表や大学選抜、高校時代にはユース代表だった選手たちがごろごろ、サッカーエリートの集団だった。メンバーの毛並みの良さでは他大学に追随を許さなかった。ワセダ、ザ、ファースト、常々にチャンピオンであらねばならない、と全員が自負していた。上級生たちにとっては、新人たちが新人戦に優勝したことで、わいわい騒いでいることなど、どうでもよかったのだ。

それでも、優勝したことには代わりはない。上級生たちからは、今夜は寮で君たちで勝手に宴会でもやってくれ、とあくまでも他人行儀だった。本堂マネージャーが、幾ばくかの予算をあてがってくれての宴会だった。

寮には会合できる畳20畳ぐらいの広さの部屋があって、そこが宴会場だ。食って、飲んで、歌って踊って、大はしゃぎした。宴会慣れている奴が面白い出し物を披露してくれた。3時間、4時間とダラダラ続いた。酒のコップを交わしての、仲間との初めての交流だった。私にとって、このような宴会は初めての経験で、彼らの強い個性に圧倒され、仲間の一人ひとりに興味を持った、このチームに入部したことを喜んだ。

ツマミは乾き物、エビセんに鯖の水煮、他は忘れた。ビールにウイスキー、ワイン、日本酒をチャンポンにしてぐいぐい飲んだ。宴会が盛り上がり、誰かが窓のガラスを箒で叩き割った。そのことが、宴会の勢いを尚一層高め、2枚、3枚、次々と10枚以上は叩き割った。誰も、止めるようなことはなく、みんなゲラゲラ笑っているばかり。痛飲に泥酔、久しぶりに天井がぐるぐる回り、それから先のことは全然憶えていない。きっと、ノックアウトされたボクサーのようにバタンと倒れたのだろう、その後寝っ転がったまま朝を迎えたようだ。

朝、目が覚めて、自分の顔を持ち上げようとしても畳から顔が離れない。反吐が糊になって顔が畳に接着されていたのだ。倒れこんで目が覚めるまで動かなかったことになる。死んだように倒れていたのだろう。顔を畳から剥がそうとしても、容易には離れない、畳に顔の表皮をめくり採られるように痛かった、それでも何とか剥がせたが、顔には畳の模様が深く刻まれていた。窓の外は、真っ青(さお)な青空、頭は二日酔いでズキンズキンと重たかったが、気分は爽やかだった。

そのうち皆が部屋から出てきて大掃除だ。4年生で新人監督で寮長の京都府出身の山城高校卒の海さんが、怖い顔をして、ガラス屋さんに行ってガラスをはめてもらうように頼んで来い、と指示した。ただそれだけだった。怒られなかったことが、不思議だった。この寮長の海さん、皆から何故か「和尚さん」と呼ばれていた。

大学のルールはどうなっているのだろう、私には解らなかった。このような部風ならば、俺のような男でも何とか4年間は過ごせる、頑張れるような気がした。同時に、いいクラブに入れてもらったことに感謝した。

今では、入部を希望しても希望者が多いために、簡単には入部が許されないそうだ。

2013年10月16日水曜日

謎の蝶、アサギマダラ

毎週日曜日の朝日新聞と日経新聞の書評欄を楽しみにしている。

関心外の本には目もくれないが、取り上げられる本のだいたいは、私に関心のあるものばかりだ。よくも、このように編集できるものだと、担当者の努力に脱帽。書評を読んだだけで、本を半ば読んだつもりになる。お金と時間が許されれば、購入して読めばいいのだろうが、スマン、私の現在の懐具合ではそうもいかないのだ。

今日は、20131013の日経新聞が取り上げた栗田昌裕氏の「謎の蝶アサギマダラはなぜ海を渡るのか?」のことが面白かった。ひぇ~へえ~と驚きながら、記事を読むだけで、スマン。このアサギマダラって奴の不思議さが異様に頭の中に残った。

この書評をここに転載させてもらう。得意のパクリだ。

 

 

本の題名・謎の蝶アサギマダラはなぜ海を渡るのか?

MX-3500FN_20131017_080018

著者・栗田昌裕(くりたまさひろ)

群馬パース大教授、東大病院内科医師などを兼任。

 

  20081007185313.jpg 

重さ0.5グラムに満たない体を風に揺られながら、春から秋にかけ、1000キロも2000キロも旅をするアサギマダラ。世界でも唯一、海を渡ることで知られるこの蝶に魅せられ、アマチュアとして調査を始めて10年。これまで13万もの個体に接してきた。調査報告を基に、その不思議な生態の謎を教えてくれる本だ。

2002年、台風が過ぎ去った直後の自然公園で、おびただしい数のアサギマダラの群れに出会ったことが調査にのめりこむ直接のきっかけ。「ふだん目に見える群れで活動しているわけではない彼らが、最悪の気象条件下でどうやって集まれるのか。何を考え、どういうセンサーで動いているのかが知りたくなった」。

捕獲した個体の翅(はね)に日付や場所などの印を付けて放すマーキングの手法で生態を追う調査が、全国の研究者や愛好者らの協力で実施されている。その調査に03年から参加。「どうせやるなら自分にしかできない調査がしたい」と、ひと夏で1万頭以上もの個体にマーキング。離れた土地で再捕獲される数を基に数量的なデーターを作り、さらに「本州で捕獲した蝶を奄美大島で自分で再捕獲する」ことを目標に掲げた。

本書では実際に様々な地で再捕獲された話に加え、調査過程で明らかになったさらなる不思議な現象への驚嘆がつづられる。追い風もないのに1日200キロも海を渡り、なぜか好みの花が多い島を臨機応変に選び出す。毎年「渡り」を経験できる渡り鳥と異なり、アサギマダラの寿命は1年未満で、すべては初めての経験の中で判断されている。

「グローバルに眺めると、彼らは集団で何らかの羅針盤と天気図を持ち、気象を読んでいるとしか思えない」。医学や数学を通し、自然を数理的に見てきたと自認するが、「今はアサギマダラが『確率』を超えた存在と直感している」。(PHP研究所・1500円)

新聞配達のオジサンに感謝

20131016の朝日・天声人語に触発されて、この文章を綴り始めた。

私が此処に住み始めてから、新聞の朝刊が配達されるのはぴったり4時だった。私の一日の活動を始める時間とうまい具合に合致して、この時間に配ってくれることに非常に感謝していた。以前に住んでいた所では7時過ぎだった。

ところが、どういう訳か、新聞屋さんの都合か、配達する人の都合か、2ヶ月前から5時前後の配達になった。まあ、それでも、文句をつける理由にもならないし、しょうがないか、それならばそれで、慣れればいいんだと諦めていた。

そして10日程経った或る日、ゴミ出しに玄関を開けたその時に、偶然、新聞配達のオジサンに出くわした。ご苦労さん、ありがとう、と新聞を受け取って顔を見合わせた瞬間、オジサンは「この頃少し遅いでしょ、大丈夫、明日から順番を変えて、今まで通りの時間に入れましょ」と、私が、あっそう、と、それ以外口にする前にそれだけ言って、去(い)ってしまった。

オジサンは、私が1時間遅れて配達されることに不満を持っているように感じたのだろうか? そのことに文句を言おうとして、配達する自分を待ち構えていたのではないか、と勘ぐったのだ。私、そのようには微塵も考えていなかったのに、でも、今では、オジサンの早トチリに感謝はしているんだが。

そして今朝、大型の台風26号が関東に接近、4時は暴風雨だった。新聞はいつもの新聞受けではなく、雨がかからない庇が深く窓の格子の奥まったところに挟んでおいてくれた。オジサンの粋な計(はか)らいだ。

そして、今日は水曜日、弊社の営業部の定休日、私は出社するつもりで最寄の相鉄線弥生台駅に向かったが、突風が持続しているので、暫くは運行を見合わせます、とのこと。仕方なく自宅に戻って、この文章を綴ることにした。

 

20131016 朝日・天声人語

「いつの日も 真実に 向き合う記事がある」を今年の標語にして新聞週間が始まった。高らかな理念も、しかし、新聞配達という仕事なしにはありえない。日本の新聞の95%は戸別に配達され、それを全国の37万人が担っている。今日のような朝は、とりわけ頭の下がる思いがする。

同時に、どうか無理せずにと祈りたくなる。大型の台風26号は、ちょうど新聞が届く未明から朝に本州に近づく。「苦労に報いるコラムを書いているか」と自問したくなるのはこんなときだ。

日本新聞協会が毎年募集する「新聞配達のエッセー」を読むと、ねぎらいを寄せてくださる読者は多い。青森県の長山和寛君(15)は、3・11の翌未明に、凍てつく道を歩いて届けてくれた若いお兄さんが忘れられないと書いていた。

配達員も思いをつづる。長野県の豪雪の村で、早く起きて自宅前に道を作ってくれるおじいさんがいる。道路から離れた家々では、道端に冬用の新聞受けを出してくれる。人々の温かさで続けられている、と村山由美子さん(62)は感謝を記す。

社会をゆさぶる調査報道も、キャンペーンも読者に届いてこそである。バイクの音、新聞がポストに落ちる音で一日が始まる人は多い。届けるという行為の素朴さが、夜明けの匂いを連れてくる。

今朝は多くの地域で嵐をついての配達となるだろう。その安全を願うのに自社も他社もない。お手もとに届いた新聞は、皆さんの前で少しほっとした風情かも知れない。人の心を映すように。

2013年10月12日土曜日

ア式蹴球部思い出アラカルト1

MX-3500FN_20131017_075948_001

そんなこともあったか!!

 

大学時代のクラブ活動を、あれこれ、思い出してみた。

体力、テクニックにおいて極めて稚拙な私だったけれど、よくも頑張ったよと2人は褒めてくれた。20131004の夜、同期の高と淀との会食中のことだ。高校時代にきちんとクラブ活動をしていなかった、それに、2年間の浪人時代のドカタ稼業で、スポーツにふさわしくない筋肉が徒(あだ)となり、足の裏を地面にべったり踏みつける癖がついて、これがサッカーにはよくなかった。

入部当初、私を含めて新入部員の数人はチームプレーを主とした練習メニューには、グラウンドマネージャーからヤマオカと誰々は外へ出て、キック板でボールを蹴ってろ、と言い放される。情け容赦なく追いやられ、仕方なくみんなの練習を見ながらひたすらボールを蹴り続けた。この処分はしょうがないと受け止めた。下手なんだから。こんなことが1年間は続いた。

キック板に向って的を定めて蹴る。キック板に左斜め右斜め、直角に向ってドリブルして蹴る。アウトサイドでインフロントで、たまにはループ。吊るされたボールにヘッデイングをする、少しボールを下げてボレーキック。

インターバルといって、ゴールラインから向こう側のゴールラインの100~110メートルを16秒で走り、1分間で戻ることを繰り返す、こいつが私には非情だった。10本をこなすぞと言われても、最初の3本くらいはなんとかクリアーしても、その次に入れないと、もうその後は、どんなに藻掻いても入れない。10本でみんなが上がって、私だけが居残り、タイムを計るまでもない、意識が朦朧。容赦なくスタートの笛は鳴らされる、ふらふらしながらスタートをきる、意識が薄れて、タッチラインから逸(そ)れ、近くのグラウンドの外の生け垣に頭もろとも突っ込むことがしばしばだった。顔はツツジの固い枝で傷だらけ、痛さは感じない。何本走ったか解らない。先輩たちは、つま先で走るんだよとか、ハーフェイラインまでダッシュすればなんとか入れるんだよとアドバイスをくれるのだが、余力がない、体を制御できない。夏の合宿では、1日の全ての練習を終えた後、一人居残りで108本走った日もある。1本走るごとに塚さんがバケツの水を頭にぶっかけてくれた。神の水だ。誰もいなくなったグラウンドに仰向けにひっくり返ったまま、我にかえるまで暫くの時間が必要だった。

雨の日の練習は楽しかった。テクニックのある選手は、泥んこのグラウンドを恨んだが、私にとっては、この時こそ、上手い奴のボールを掻っさらういいチャンスでもあった。ボールをキープするテクニシャンに、多少遅れてでも詰めることができたし、5、6メートル先からのスライデイングでも、ボールを奪うことができた。泥んこグラウンドは気持ちがいい。

練習の定休日の月曜日に、山岡と吉祥寺までよく走ったよなあ、俺よく憶えているよ。きっと一人では面白く無いので、同期の淀を誘ったのだろう。練習のない日だって私は休まない、気楽に自分勝手な練習に励めた。体力、とりわけ走力がなかったので、練習といえば走ること、グラウンドを走っていても面白く無いから、街中をどこまでも限りなく走り回ることだった。電柱と電柱の間を、全速力で走り、次は普通の走り、そして歩く、を繰り返した。疲れては腰をおろして街の風景を楽しんだ、そして歩いてまた走った。吉祥寺の井の頭公園、善福寺公園までは定期コース、たまには多摩湖へも遠征、周りを走った。

高には、4年間、部費と寮費の徴収で苦しめられた。補佐役のマネージャーから本物のマネージャーになったが、金欠未払いの私を、な、か、な、か、見逃してはくれない。いつまでも、しつこく追い回された。「罪と罰」の主人公の青年のようにこの高の頭を斧で叩き割ってやろうかとまでは考えたことはないが。でも、やっぱり、私には支払った記憶がないので、最終的には、高はきっと私をリストから外してくれたようだ、と密かに考えているが、怖くて確認できない。そんなこともあって、15年程前に、雀の涙ほどの寄付をさせてもらった。帳尻を合わせておかないと、死んだら閻魔(えんま)さんに、舌をペンチか何かで抜かれるそうだから。

遅れてクラブハウスの風呂に行くと、誰かが風呂で歌っている奴がいる。練習が終わる頃には一斉に皆が入るので、湯は泥色、浴槽の底には砂利がじゃりじゃり。入浴ラッシュ時から2時間程経った後は、人気(ひとけ)がなく、湯は澄んでいる。着替え室でジャージを脱いでいると、しんみりとテレビ番組の銭形平次の主題歌を歌っているのが聞こえてきた。そうっと静かに浴室のガラス戸を開けると、そこに後輩の広島からきた新入部員の杉老が、涙を溢れんばかりに流して、顔はぐっちゃぐちゃ。まずいものを見たようで、気まずかったが、どうしたんだと声を懸けた。山岡さん、広島の彼女のことを思い出したんです、と意外にあっけらかん。彼女と銭形平次とどういう関係があるんだと、聞いたが答えはなかった。

グラウンドの管理人の菊間のオヤジには可愛がられた。オヤジさんには高校生の娘さんがいたので、オヤジには何か思うところがあるようだった。そんなふしが見られた。心臓を患っていた菊間さんから、アルバイトでグラウンドの隅っこに生ゴミの捨てる穴を掘ってくれるように頼まれた。一穴(ひとあな)2000円だった。労働時間は3時間。直径3メートル、深さ2メートル。地表は関東ローム層で、ドカタ上がりの私にはいとも容易い作業だった。お金をくれて、その夜晩飯に招待してくれた。思いっきり食って、思いっきり飲ませていただきました。

グラウンドと菊間のオヤジさんの住まいを兼ねた管理事務所の間に、無花果(いちじく)が毎年大きな実がいくつも生るのだが、その無花果が熟すまでに私は内緒でちょうざいしていた。オヤジからは必ず、お前が採っただろうと、怖い顔で叱られた。私側の言い分は、これはグラウンドのものだから誰でも収穫する資格があるのだと、オヤジにしてみれば、自分の庭先の物は自分の物で無花果も管理の範囲内なのだと思っていたのだろう。熟するまでに、食われる前に食う、これ生存のための知恵だ。

3、4年生の時は、一日中グラウンドにいた。朝から昼までは、サッカーの体育の授業の助手をしていた。講師はサッカー部のコーチの吉さんだ。この吉さん、いい加減な先生で、雨が降ると必ず来なかった。私が授業に来た学生にサッカーのルールを教えて出席を取って、余った時間を学生たちに勝手にチームを作らせて試合をさせておいた、それで一丁上がり。吉さんは大学の体育の講師と喫茶店経営にサッカー部のコーチの三足の草鞋(わらじ)を履いていた。私に支払われるアルバイト料は、時給120円だったが、授業には2人の助手が必要だと吉さんが体育局に申告しておいてくれたので、2人分をもらえた。それでやっと時給240円也、これでも超割安で誰も引き受けなかった。

それからの昼間の1時間は、駅前の中華料理店吉葉で、皿洗いと飯盛り、メニューのオーダーを受けて、料理をテーブルまで運ぶアルバイトをした。お金をくれたが、それよりも嬉しかったのは、賄いつきというか、昼飯を只で、何でも思いっきり食わせてくれたことだ。これは助かった。サッカー部の連中が食いに来て、そのときの飯の盛りに苦心した。顔を見るとついつい盛りが多くなってしまい、それを店のおっちゃんが、おいおいヤマオカ、それはナンボナンデモ多過ぎるよ、たしなめられた。この仕事を終えて、13:00に再びグラウンドに戻った。

16:00頃、皆と一緒の練習が終わると、ほとんどの部員は風呂に出かける。クラブハウスの風呂か、銭湯だ。私や淀、他の数人にとっては、練習が終わってからこそが、面白い。誰にも迷惑かけなく、思いっきり好き勝手に、やりたい放題の練習が楽しいのだ。淀は、ドロップキックで50~60メートル蹴る、そのボールの受け役を担うのだ。ボールをトラップする際には、頭で、足で、胸で止め、自分のやりたい方向にボールを運び、そして思いっきり力を込めて大きく蹴り返す。右の足で、左の足で、高くゆるいボール、低く速いボール、これの繰り返し。

16;30頃、そうこうしていると付属高校の練習が始まって、そこに入れてもらって練習をする。紅白ゲームにも参加する。日没、照明のないグラウンドで全く見えなくなる時点が練習の終わり時だ。この付属高校からも大学のチームにやってくる者もいる。私の大好きな山梨県出身の志君もその一人だ。

たまには伏見湯にも行った。カッチャン風呂だ。カッチャンと呼んで憧れていた娘さんが番台にいる。嬉しいやら恥ずかしいやら。生活資金が慢性的に枯渇していたので、食うこと、古本を買うこと、酒を飲むこと以外に費やす金はなかった。銭湯の帰りに、卒業後も増々交流を深めるようになるマサが、ヤマオカさん、美味そうやなあと、2人は肉屋のショーウインドウに並べられている手羽焼きに熱い視線で釘付け。私に金がないことを百も承知なマサは、ニンマリとして、金はあるさかいに、といいことを言ってくれる。後輩に一番大きな手羽焼きを買ってもらって御機嫌だった。卒業したら、何かでお返しをしなきちゃイカンと思っていたが、未だにお返しをしていないばかりかお世話になりっ放しだ。

湯上がりのいい気分、東伏見駅の前の下り坂を寮に向っていたら、焼き鳥屋の店先から、菊間のオヤジが、ヤマオカ、飲んで行けと、私を見つけたときは必ず声を掛けてくれた。オヤジには持病があったので、ダラダラ飲み続けることはなく、ジョッキー2、3杯と焼き鳥5、6本を私にくれて、彼は帰っていく。焼き鳥屋の前を通る時、彼が店の入口付近にいるのを楽しみにしていた。いないときはがっかり落胆、いない方が普通なのに、いない彼を恨んだ。

金を使わないためにも読書に耽ることにした。デカダンから自然主義派、左翼系、手当たり次第に、古い文庫本を買って読んだ。学校からの帰り、高田馬場までの間に古本屋さんが何軒もあって、店先に並べられた1冊10円とか、10冊で100円とかの本を片っ端から買った。大学時代に読み終えた文庫本は優に1000冊は超えた。途中で読むのを止めた本もかなりある。

大きな大会が迫ってくる秋は寮内では禁酒、門限はいつも11時だった。3年生頃から、疲れた心身を癒すために、皆が寝静まった頃、湯沸しポットで酒を燗して飲んでいた。誰もが嫌って、近づかないバアチャン部屋で一人で寝ていた。寮の部屋は色んな間取りになっていて、2人部屋、4人部屋があった。バアチャン部屋は日当たりがなく一日中真っ暗だった。寮の建物全体はL字になっていて、バアチャン部屋はLの角部分にあった。一人で酒を飲んでいると、12時を過ぎて酔っ払った1年先輩の畑さんが帰ってくる。門限破りやで、と私にも禁酒の掟破りの負い目があるので、小さな声で話すと、戻ってきた説明に妙に筋が通っていて納得させられた。上手いこと言うものだと感心させられた。それは、俺は昨日の門限には帰ってなかったが、今日の門限には帰ってきているやろ、という言い訳だ。腑に落ちないが、まあ、ええやろう、だ。

このバアチャン部屋ではネズミがよく捕れた。布団の上を縦横無尽に移動するのを眠気眼で追う。ネズミ捕りを仕掛けたら面白いように捕れた。目の前でネズミ捕りに入っていくのを見ていた。餌は何でもよかった、酒のつまみにしていたエビセン。小さい手足の赤い指が可愛いく震わせて、お尻が実にセクシーなのだ。このちゅうチュウの声が、卑猥な音に感じられた。きっと私の頭の中も卑猥だったのだろう。朝の起床の体操のときにネズミの入ったネズミ捕りを持ち出す。体操を終わって、先輩の脇道さんがネズミ捕りをそのままをバケツの水に浸(つ)けて殺した。ちゅうチュウの声が耳から離れない。私は土に穴を次々と掘って埋葬した。

次回は「ア式蹴球部思い出アラカルト2」だ。

旧交を温めた

     

20131004、金曜日の夜、大学のサッカー部を4年間一緒に過ごした同期の淀と高と私の3人で、横浜から歩いて5分の季節料理店で、一献傾けた。我らが卒業したのは昭和48年、1970年のことだ。

淀はかってはJリーグのあるチームの社長さん、出身は兵庫県の進学校。高は東証上場の情報通信の製造ソフト会社の管理部門の幹部だった。実家は横浜駅を眼下に見下ろす丘陵の一番いい所にデンと構える大きな屋敷。築年数は約150年。お父さんも同じ大学の先輩で、ベルリンオリンピックの日本代表選手だった。私はと言えば、不動産会社の経営者の端くれ、主たる業務は、中古住宅のリフォーム再販だ。

淀にしても高にしても、彼らの卒業後の活躍においては、目を見はるものがある。比べて、私の方は恥ずかしい限りだが、ここに至っては後の祭り、何とか我が街道を進むしかない。これからだって、大挑戦は無理でも、ほどほどに無理したい。勇気無き者はグラウンドから去れ、だ。

今回の飲み会の私の大きな目的は、私が思いついたものの、果たして喜ばれるものかどうか、OB会の役員をしているご両人に意見を求めることだった。サッカー部の部員のための奨学金を私の雀の涙ほどの資金を寄付することで発足したいと考えたことについてだ。肩すかし、彼らからはこの件に関してはにべもなく、よろしく頼むわで終わってしまった。

後は家族のことと現在の仕事をほんの少し確認し合ったぐらいで、ほとんどの時間を昔の思い出話に花が咲いた。私は急ピッチで焼酎のお湯割りを作っては飲み、作っては、飲んだ。いい気分だった。

この3人は多くの仲間と一緒に、45年前に、新入部員として東伏見のサッカーグラウンドで出会った。それからの4年間は自分との闘いだった、貴重な鍛錬の日々だった。高はマネージャーの道に進み、淀はキーパーだ。彼たちの目に私のことがどのように映っていたのか、私のことをどのように考えていたのだろうか、それが興味深かった。

 

秋の夜長、学生時代のつまらぬことをこの機会に書き出してみよう、、、、。思いつくままのよしなしごとだ、、、、。

それでは、、、、、、、、、、、トウザイトウザイ。

思いつくまま、「W大ア式蹴球部思い出アラカルト」として、書き加えていきます。乞うご期待!!

奨学金制度

2013 9 24

 

早稲田大学ア式蹴球部

OB会長 川本章夫 殿

各役員、各理事のみなさん 

 

昭和48年卒  山岡 保

                  

                 寄付をさせていただくことについて

 

寄付金の総額・金・・・万円

支払い時期・2013 10 31までに、金・・・万円

        2014 10 31までに 金・・・万円

        2015 10 31までに 金・・・円

 

寄付をさせていただくことの趣旨と、寄付金の使途についての希望を述べさせてください。

私は昭和44年に2浪の末に入部させてもらいました。高校時代に、きちんとしたクラブ活動をしていたわけではないので、技術は稚拙極まりなく、体力は極端に不足していました。その貧弱さは余りに悲惨なものでした。それでも、何とか4年間を過ごすことができたのは、「早稲田大学ア式蹴球部」だったからだと感謝しているのです。その4年間に得たものは、サッカーの技術や知識は当然、先輩後輩同輩から、得難い、膨大なモノを獲得させていただきました。このモノって奴を、私の持つ語彙の量と筆力では著せません。部活動の周辺や超えたところでも、素晴しい友人知人にも恵まれました。これらのことに感謝して今回の寄付を思いついたのです。

4年生の時には大学選手権優勝、関東大学選手権優勝の2冠の栄誉に輝くことができたこと、この栄誉の一端をささやかながらも担うことができたことは、私の人生においてこの上ない喜びになりました。幸せ者です。その後、社会人になって、幾多の苦難に遭遇した際にも、大学時代を何とか頑張り抜いたことが大きな自信になり、その自信が支えになって冷静に対処できました。

卒業してから今まで、仕事にかまけて、OB会の活動に協力できなかったことに対する罪滅ぼしでもあります。

リーマン・ショック以降、荒波にもまれていた会社の経営が一段落して、最近やっと落ち着いたところです。再起を図るべき時期に入りました。

ア式蹴球部に何かで恩返しをしたいと考えるようになって、同期の工藤君と高島君に相談した結果、経済的な事情を抱えながらも入学入部を希望している者や、在学中の学生の資金提供者に経済的変動などの発生等で、生活費の捻出に困窮している学生らがいると聞いて、ささやかだが彼らの奨学の資金にしていただけたらと思いついたのです。

対象とする学生の選考や、奨学資金の運用方法は全てOB会にお任せします。一年に一度の運用報告を いただければ幸甚の至りです。

OB会の運営に日頃ご尽力を頂いている会長はじめ各役員、各理事のみなさまには感謝しております。今後共、ア式蹴球部がますます活躍してくれることを祈願して止みません。

この書状の基本的な文章を綴ったのは、私の65歳の誕生日の夜のことでした。

2013年10月1日火曜日

竹の花って

竹の花

20130929、弊社が、ある建設会社に経営参加するために、その打ち合わせに真鶴に行った。運転手は経営責任者の中さん、私は車中、後部座席で、眠気眼(ねむけまなこ)をこすりながら、窓外を何気なく眺めていたら、小田原の街中だったか、「竹の花」という信号に気づいた。

ナヌ? 竹の花って一体なんだ?と!! 本物の田舎者を自負している私でも、竹の花を今までに見たことがない。これはまずい。私の沽券に関わる問題だ。子どもの頃は、竹で竹馬や水鉄砲に紙鉄砲、竹とんぼを作った。筍(たけのこ)掘りもやった。このように、竹に慣れ親しんだこの俺さまが、知らないではすまされないと焦った、素早く手帳に竹の花と殴り書き、帰社して調べることにした。

この文章を綴っている最中に、スタッフに「竹の花」って交通信号を知ってるかと聞くと、信号は知りませんが、小田原に「竹の花商店街」「竹の花通り」がありますよ、と教えてくれた。やはり、小田原だったのだ。

上の写真2枚は、ネットから拝借した。

 

そうしたら、、、、、、、。

タケ(竹)とは、イネ目イネ科タケ亜科で、茎が木本(木)のように木質化する種の総称である。笹なども竹の仲間。多年草だ。

どっぷり田舎で過ごしたから、樹木や草花を十分に知り尽くしている筈だったのに、竹の花だけは確かめたことがない。

そこでネットで調べれてみると、面白いことに、竹の花が咲いた時には不吉なことが起きるなんて、ミステリアスな文章まで見つけて、俄然、関心が高まった。

竹の種類によって例外はあるらしいが、毎年花を咲かせるようなことはない。種子から発芽して、数十年後から100何年後かに花が咲いて、そのとき実を実らせるのだろうが、その後に一斉に枯れるらしいのだ。どうして枯れるのかは謎だが、一斉なのは、地下茎で多くの竹が繋がっているからだろう。その枯れた一団の竹林を想像すると不気味だ。そのようなことから、昔から不吉なことが起こる前兆などと言い伝えられる。

竹の群生を竹藪と呼んでいるが、丘陵地になっている藪の竹が全て枯れてしまうと、地盤を固めていた地下茎も枯れて、崩落しやすくなる。昔の人はこのようなことを心配して、竹の花が咲いたら不吉だと言ったようだ。

竹の不思議なことがもう一つある。それは、親木から株分けや挿し木したものも、親の竹の枯れる時期とまったく同じ時期に花を咲かせて枯れてしまうことである。親木から遠く離れた場所でも、環境の全然異なる場所に植えらても、1年もたがわずに、同じ時期に枯れるのである。

そう言えば、竹取物語も謎めいた不思議な物語だ。世界最初のSF小説だと言う人もいる。