そんなこともあったか!!
大学時代のクラブ活動を、あれこれ、思い出してみた。
体力、テクニックにおいて極めて稚拙な私だったけれど、よくも頑張ったよと2人は褒めてくれた。20131004の夜、同期の高と淀との会食中のことだ。高校時代にきちんとクラブ活動をしていなかった、それに、2年間の浪人時代のドカタ稼業で、スポーツにふさわしくない筋肉が徒(あだ)となり、足の裏を地面にべったり踏みつける癖がついて、これがサッカーにはよくなかった。
入部当初、私を含めて新入部員の数人はチームプレーを主とした練習メニューには、グラウンドマネージャーからヤマオカと誰々は外へ出て、キック板でボールを蹴ってろ、と言い放される。情け容赦なく追いやられ、仕方なくみんなの練習を見ながらひたすらボールを蹴り続けた。この処分はしょうがないと受け止めた。下手なんだから。こんなことが1年間は続いた。
キック板に向って的を定めて蹴る。キック板に左斜め右斜め、直角に向ってドリブルして蹴る。アウトサイドでインフロントで、たまにはループ。吊るされたボールにヘッデイングをする、少しボールを下げてボレーキック。
インターバルといって、ゴールラインから向こう側のゴールラインの100~110メートルを16秒で走り、1分間で戻ることを繰り返す、こいつが私には非情だった。10本をこなすぞと言われても、最初の3本くらいはなんとかクリアーしても、その次に入れないと、もうその後は、どんなに藻掻いても入れない。10本でみんなが上がって、私だけが居残り、タイムを計るまでもない、意識が朦朧。容赦なくスタートの笛は鳴らされる、ふらふらしながらスタートをきる、意識が薄れて、タッチラインから逸(そ)れ、近くのグラウンドの外の生け垣に頭もろとも突っ込むことがしばしばだった。顔はツツジの固い枝で傷だらけ、痛さは感じない。何本走ったか解らない。先輩たちは、つま先で走るんだよとか、ハーフェイラインまでダッシュすればなんとか入れるんだよとアドバイスをくれるのだが、余力がない、体を制御できない。夏の合宿では、1日の全ての練習を終えた後、一人居残りで108本走った日もある。1本走るごとに塚さんがバケツの水を頭にぶっかけてくれた。神の水だ。誰もいなくなったグラウンドに仰向けにひっくり返ったまま、我にかえるまで暫くの時間が必要だった。
雨の日の練習は楽しかった。テクニックのある選手は、泥んこのグラウンドを恨んだが、私にとっては、この時こそ、上手い奴のボールを掻っさらういいチャンスでもあった。ボールをキープするテクニシャンに、多少遅れてでも詰めることができたし、5、6メートル先からのスライデイングでも、ボールを奪うことができた。泥んこグラウンドは気持ちがいい。
練習の定休日の月曜日に、山岡と吉祥寺までよく走ったよなあ、俺よく憶えているよ。きっと一人では面白く無いので、同期の淀を誘ったのだろう。練習のない日だって私は休まない、気楽に自分勝手な練習に励めた。体力、とりわけ走力がなかったので、練習といえば走ること、グラウンドを走っていても面白く無いから、街中をどこまでも限りなく走り回ることだった。電柱と電柱の間を、全速力で走り、次は普通の走り、そして歩く、を繰り返した。疲れては腰をおろして街の風景を楽しんだ、そして歩いてまた走った。吉祥寺の井の頭公園、善福寺公園までは定期コース、たまには多摩湖へも遠征、周りを走った。
高には、4年間、部費と寮費の徴収で苦しめられた。補佐役のマネージャーから本物のマネージャーになったが、金欠未払いの私を、な、か、な、か、見逃してはくれない。いつまでも、しつこく追い回された。「罪と罰」の主人公の青年のようにこの高の頭を斧で叩き割ってやろうかとまでは考えたことはないが。でも、やっぱり、私には支払った記憶がないので、最終的には、高はきっと私をリストから外してくれたようだ、と密かに考えているが、怖くて確認できない。そんなこともあって、15年程前に、雀の涙ほどの寄付をさせてもらった。帳尻を合わせておかないと、死んだら閻魔(えんま)さんに、舌をペンチか何かで抜かれるそうだから。
遅れてクラブハウスの風呂に行くと、誰かが風呂で歌っている奴がいる。練習が終わる頃には一斉に皆が入るので、湯は泥色、浴槽の底には砂利がじゃりじゃり。入浴ラッシュ時から2時間程経った後は、人気(ひとけ)がなく、湯は澄んでいる。着替え室でジャージを脱いでいると、しんみりとテレビ番組の銭形平次の主題歌を歌っているのが聞こえてきた。そうっと静かに浴室のガラス戸を開けると、そこに後輩の広島からきた新入部員の杉老が、涙を溢れんばかりに流して、顔はぐっちゃぐちゃ。まずいものを見たようで、気まずかったが、どうしたんだと声を懸けた。山岡さん、広島の彼女のことを思い出したんです、と意外にあっけらかん。彼女と銭形平次とどういう関係があるんだと、聞いたが答えはなかった。
グラウンドの管理人の菊間のオヤジには可愛がられた。オヤジさんには高校生の娘さんがいたので、オヤジには何か思うところがあるようだった。そんなふしが見られた。心臓を患っていた菊間さんから、アルバイトでグラウンドの隅っこに生ゴミの捨てる穴を掘ってくれるように頼まれた。一穴(ひとあな)2000円だった。労働時間は3時間。直径3メートル、深さ2メートル。地表は関東ローム層で、ドカタ上がりの私にはいとも容易い作業だった。お金をくれて、その夜晩飯に招待してくれた。思いっきり食って、思いっきり飲ませていただきました。
グラウンドと菊間のオヤジさんの住まいを兼ねた管理事務所の間に、無花果(いちじく)が毎年大きな実がいくつも生るのだが、その無花果が熟すまでに私は内緒でちょうざいしていた。オヤジからは必ず、お前が採っただろうと、怖い顔で叱られた。私側の言い分は、これはグラウンドのものだから誰でも収穫する資格があるのだと、オヤジにしてみれば、自分の庭先の物は自分の物で無花果も管理の範囲内なのだと思っていたのだろう。熟するまでに、食われる前に食う、これ生存のための知恵だ。
3、4年生の時は、一日中グラウンドにいた。朝から昼までは、サッカーの体育の授業の助手をしていた。講師はサッカー部のコーチの吉さんだ。この吉さん、いい加減な先生で、雨が降ると必ず来なかった。私が授業に来た学生にサッカーのルールを教えて出席を取って、余った時間を学生たちに勝手にチームを作らせて試合をさせておいた、それで一丁上がり。吉さんは大学の体育の講師と喫茶店経営にサッカー部のコーチの三足の草鞋(わらじ)を履いていた。私に支払われるアルバイト料は、時給120円だったが、授業には2人の助手が必要だと吉さんが体育局に申告しておいてくれたので、2人分をもらえた。それでやっと時給240円也、これでも超割安で誰も引き受けなかった。
それからの昼間の1時間は、駅前の中華料理店吉葉で、皿洗いと飯盛り、メニューのオーダーを受けて、料理をテーブルまで運ぶアルバイトをした。お金をくれたが、それよりも嬉しかったのは、賄いつきというか、昼飯を只で、何でも思いっきり食わせてくれたことだ。これは助かった。サッカー部の連中が食いに来て、そのときの飯の盛りに苦心した。顔を見るとついつい盛りが多くなってしまい、それを店のおっちゃんが、おいおいヤマオカ、それはナンボナンデモ多過ぎるよ、たしなめられた。この仕事を終えて、13:00に再びグラウンドに戻った。
16:00頃、皆と一緒の練習が終わると、ほとんどの部員は風呂に出かける。クラブハウスの風呂か、銭湯だ。私や淀、他の数人にとっては、練習が終わってからこそが、面白い。誰にも迷惑かけなく、思いっきり好き勝手に、やりたい放題の練習が楽しいのだ。淀は、ドロップキックで50~60メートル蹴る、そのボールの受け役を担うのだ。ボールをトラップする際には、頭で、足で、胸で止め、自分のやりたい方向にボールを運び、そして思いっきり力を込めて大きく蹴り返す。右の足で、左の足で、高くゆるいボール、低く速いボール、これの繰り返し。
16;30頃、そうこうしていると付属高校の練習が始まって、そこに入れてもらって練習をする。紅白ゲームにも参加する。日没、照明のないグラウンドで全く見えなくなる時点が練習の終わり時だ。この付属高校からも大学のチームにやってくる者もいる。私の大好きな山梨県出身の志君もその一人だ。
たまには伏見湯にも行った。カッチャン風呂だ。カッチャンと呼んで憧れていた娘さんが番台にいる。嬉しいやら恥ずかしいやら。生活資金が慢性的に枯渇していたので、食うこと、古本を買うこと、酒を飲むこと以外に費やす金はなかった。銭湯の帰りに、卒業後も増々交流を深めるようになるマサが、ヤマオカさん、美味そうやなあと、2人は肉屋のショーウインドウに並べられている手羽焼きに熱い視線で釘付け。私に金がないことを百も承知なマサは、ニンマリとして、金はあるさかいに、といいことを言ってくれる。後輩に一番大きな手羽焼きを買ってもらって御機嫌だった。卒業したら、何かでお返しをしなきちゃイカンと思っていたが、未だにお返しをしていないばかりかお世話になりっ放しだ。
湯上がりのいい気分、東伏見駅の前の下り坂を寮に向っていたら、焼き鳥屋の店先から、菊間のオヤジが、ヤマオカ、飲んで行けと、私を見つけたときは必ず声を掛けてくれた。オヤジには持病があったので、ダラダラ飲み続けることはなく、ジョッキー2、3杯と焼き鳥5、6本を私にくれて、彼は帰っていく。焼き鳥屋の前を通る時、彼が店の入口付近にいるのを楽しみにしていた。いないときはがっかり落胆、いない方が普通なのに、いない彼を恨んだ。
金を使わないためにも読書に耽ることにした。デカダンから自然主義派、左翼系、手当たり次第に、古い文庫本を買って読んだ。学校からの帰り、高田馬場までの間に古本屋さんが何軒もあって、店先に並べられた1冊10円とか、10冊で100円とかの本を片っ端から買った。大学時代に読み終えた文庫本は優に1000冊は超えた。途中で読むのを止めた本もかなりある。
大きな大会が迫ってくる秋は寮内では禁酒、門限はいつも11時だった。3年生頃から、疲れた心身を癒すために、皆が寝静まった頃、湯沸しポットで酒を燗して飲んでいた。誰もが嫌って、近づかないバアチャン部屋で一人で寝ていた。寮の部屋は色んな間取りになっていて、2人部屋、4人部屋があった。バアチャン部屋は日当たりがなく一日中真っ暗だった。寮の建物全体はL字になっていて、バアチャン部屋はLの角部分にあった。一人で酒を飲んでいると、12時を過ぎて酔っ払った1年先輩の畑さんが帰ってくる。門限破りやで、と私にも禁酒の掟破りの負い目があるので、小さな声で話すと、戻ってきた説明に妙に筋が通っていて納得させられた。上手いこと言うものだと感心させられた。それは、俺は昨日の門限には帰ってなかったが、今日の門限には帰ってきているやろ、という言い訳だ。腑に落ちないが、まあ、ええやろう、だ。
このバアチャン部屋ではネズミがよく捕れた。布団の上を縦横無尽に移動するのを眠気眼で追う。ネズミ捕りを仕掛けたら面白いように捕れた。目の前でネズミ捕りに入っていくのを見ていた。餌は何でもよかった、酒のつまみにしていたエビセン。小さい手足の赤い指が可愛いく震わせて、お尻が実にセクシーなのだ。このちゅうチュウの声が、卑猥な音に感じられた。きっと私の頭の中も卑猥だったのだろう。朝の起床の体操のときにネズミの入ったネズミ捕りを持ち出す。体操を終わって、先輩の脇道さんがネズミ捕りをそのままをバケツの水に浸(つ)けて殺した。ちゅうチュウの声が耳から離れない。私は土に穴を次々と掘って埋葬した。
次回は「ア式蹴球部思い出アラカルト2」だ。