2012年3月27日火曜日

天声人語も、「わら」わせてくれる!

20120326の天声人語で、うひゃ~、ぐうっぐぅぐ、大いに「わら」わせていただいた。

今回の「わらう」ってことに、どんな字をあてればいいのか、思い当たらない。毎度お馴染みの笑いではなさそうだぞ。私を「嗤(わら)っている」記事であることには間違いない。「哂(わら)う」、これでもなさそうだ。思いがけず動転、自嘲、赤面しつつ苦笑、そんな笑いに近い。

後で、他の「わらう」も調べなくちゃ、イカンなあ。こんなに笑わせてもらっていいのか。まさか、俺のことを、何でもかんでも調査済みで、俺にターゲットを絞って、笑わせてくれているようで、変な気持ち! ふと、後ろに人の気配を感じて、振り返ったが、誰も居なかった。居るのは、ふて寝の排泄機能障害の猫だけ。

正直に言おう、今回の天声人語を読んで、慌(あわ)を食ったのだ

これは、天声人語から私への「春の贈り物」なんだ、と拝読させてもらった。文章に使われている一字一句に、胸騒ぎするのだ。私も、春の季節に入ったようだ。

早速、この天声人語もマイポケットに仕舞いこんだ。

 

先週の朝日俳壇に、顔がほころんだ。〈我が猫の恋の相手に落胆す〉 寺杣(てらそま)啓子。稲畑汀子さんの選者評は「飼い主の落胆を誘う相手の猫やいかに」と、読者の興味を代弁していた。人の目には不細工でも、猫なりの審美眼があるのだろう。

その好みといい、知恵と言い生き物の営みは私たちの想像を絶する。小さな虫たちにさえ、歓喜や傷心があるかもしれない。「ふられたハエもやけ酒?」の記事に、あらぬことを考えた。

米国の研究チームによると、交尾する気のないメスに無視されたオスは、アルコール入りの餌を好んで食べたという。交尾できたオスに比べて、満足した時に脳内で増す神経伝達物資の量が少なく、欲求不満を「酒」で埋めていたらしい。

われら哺乳類の脳にも同様の物質があり、研究はアルコール依存の解明に役立つと思われる。むろん人の場合、やけ酒の「効用」に期待できない。悩みの元は消えず、しばし忘れるだけである。

一時の酔いが頭から追い払った「嫌な記憶」は、より重くなって心の底に刻まれる。そんなネズミの実験結果を、小欄で紹介したことがある。やけ酒はストレス解消どころか逆効果、どうかご用心を。

冒頭の猫の恋は、早春の季語として知られる。寒が緩み、浮かれ猫が鳴き募る頃になると、左党は花見が待ち遠しい。桜を愛でる一献は、思えば、やけ酒の対極にある風流。時節柄というのではなく、浮れ過ぎず、沈み過ぎず、きれいに飲みたいものだ。これが難しい。

日経新聞にも、いいコーナーがある

今月から、日経新聞を自宅で定期購読し始めた。会社では、みんなの手前、新聞を悠長に読んでいるわけにはいかないので、自宅で、大まかな記事は読み終えるようにしている。

朝日新聞も定期購読しているので、朝、出勤するまでは2紙を読むことになる。夜、早く寝るので、目覚めは早い。なんてことはない、夕方、早くから飲みだすので、寝るのが早いだけのことだ。その繰り返しだ。

新聞は、毎朝、きちんと4時に玄関の郵便受けに差し込まれる。狂っても、前後5分以内だ。その前に布団の中で目はパッチリ覚めている。

日経の購読料の支払い主は弊社だ。だから、私は、新聞を仕事として読んでいるので、ビジネスに少しでも役に立ちそうな記事は、きちんとファイルして、スタッフにも読めるように整理している。

流石(さすが)、日本の誇る経済紙だけあって、日経の記事は、専門的な用語がふんだんに使用されていて、私には容易に理解できない部分も多々ある。何かにつけても統計が多く、表や図面で解り易く配慮されている。表現はストレートで、詳しい。記事の内容は経済全般にわたっているので、私らの仕事の域を超えた内容のものも多い。

そんな記事の中で、この1ヶ月の間で、気に入ったコーナーを文化欄で見つけた。朝日の天声人語は、中学1年生のときに、国語担当の小沢先生に言われてから、最初に天声人語を読んでからスポーツ面へと移るようになった。それから、1面に戻る。

日経にも、病み付きになりそうなコーナーがあることに気付いたのだ。新聞を仕事で読んでいる、と言いながら、やはり経済新聞なので、読み手は仕事モードだ。でも、そんな中でも、人は自然に心惹(ひ)かれるコーナーを見つけるようだ。

そのコーナーとは、新聞の一番裏の文化欄で、一番スペースをとっているコーナーのことだ。そこは、日ごとに筆者や話し手が変わって、取り上げられる話題や題材は種々雑多?色々だ。文化的過ぎないところが、私には丁度好(い)い。文章は解り易く、ユニークで、興味深いものばかり。私が楽しみに待つコーナーになってしまった。

下の方で紹介できなかったけれど、日本全国の銭湯や駅ソバ屋の調査?探訪とか、実に文化的に楽しませてくれる。

故紙直行前の手元に残っている新聞で、一部を紹介しよう。私が何ゆえに、楽しみにしているか、解っていただけるかと思う。

 

 

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黒沢工場村を再現したジオラマ=大田観光協会提供

今日は、蒲田モダン研究会共同代表の鍋谷孝さんの「町工場の町 息づくモダン」、副題は東京蒲田の、時代の先端追い求める心引き継がれる、だ。

戦中、戦後、蒲田駅周辺に進出した工場の経営者の話だ。なかでも、和文タイプライターの製造で成功をおさめた黒沢商会の黒沢貞次郎は、理想の工場村を作った。蒲田の経営者は、外国文化を理解し、会社経営に生かしてた。他にも、陶器、香水の香料など近代産業の工場が集まり、洗練された工場村を形成されていった。

 

 

昨日は、詩人で小説家の平田俊子さん、「悩み事」だ。

お肌のシミも、若く恋をしている友人には大きな問題だ。年輪を重ねた人にとっては、表面以上のことよりも、内面の、内臓や血管や骨や脳のことに悩みは走る。悩(なや)みは、病(や)みだ。日常的な悩みも、楽しみに展開できないものかと、悩む。そんな内容だった。

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一昨日は、水俣の「苦海浄土」の石牟礼(いしむれ)道子さんの「人間の英知回復を」 聞き手は、文化部の千場達矢氏で、内容のタイトルとしては、心の叫び、水俣に福島に 無念の言葉残さねば、だ。

水俣病の実態を鮮烈に描いた「苦海浄土」の作者、石牟礼道子さんは現在文明と人間の姿、そして文学の持つ力について語った。

震災した東北でがれきの山が積み上がっている映像をテレビで見たとき、使い捨て時代という言葉を思い出した。近代100年の間に私たちは何をしてきたか。物は増えたが、増え過ぎてしまい、価値あるものがわからなくなってしまった。やがて、人をも使い捨てにするようになった。不景気で仕事を失っても、水俣患者も、福島の原発事故で住む場所を追われた人もそうです。豊かさと引換えに人間を切り捨てることは決して許されません。

悲惨な災厄によって無念にも亡くなった人たちの魂が今どこにいるか解らないのに、芸術文化によって鎮魂するなどというのは、不遜です。

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23日は、細川邦三(くにぞう)さん、旧制高等学校美術連合会事務局長の「絵がつなぐ旧制高の誇り」、副題は、卒業生の美術展 「白線展」、全国行事の最後の砦に、だ。

全国の旧制高等学校の卒業生で、好きな美術に打ち込み、その腕を発表する美術展。この春の開催で17年。通算で24回を数える。1995年、旧制高校囲碁会から派生して生まれた。会員の高齢化が進み、運営を一たび休んだが、細川氏自ら所有するビルを提供して再出発した。

熱き思いは、そう簡単には廃(すた)れない。

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懇親会で合評する会員たち

 

19日は、映画監督の古勝敦(こかつ・あつし)さんの「家族の再生 映画で祈る」。副題は、震災後の福島で地元の人々と撮ったファンタジー、だ。

古勝氏が監督で、奥さんがプロジューサーの映画「トテチータ・チキチータ」の福島での撮影開始前に、東日本大震災が起こった。地元企業からの出資は宙に浮いた。この映画は、福島を舞台に戦争で家族を失い、天涯孤独の老人の前に、父、母、息子の生まれ変わりが現れるという、フアンタジーな設定。そんな映画が、地元の小学生等も出演して、震災に屈することなくできあがり、仮設住宅や避難所で上映された。

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「トテチータ・チキチータ」の一場面

2012年3月23日金曜日

頑張っている中西麻耶さん

20120321の朝日新聞・朝刊、社会面より。

全文、新聞記事をそのまま転載させていただいた。新聞社には無断だけれど、中学生のときからの朝日新聞の愛読者です。本物の朝日贔屓です。

この手の内容の記事に極端に弱いのです。早速マイ・ポケット奥に、仕舞い込みたくなりました。

 

見て 義足の体を

世界に挑むため

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(カレンダーを手にする中西麻耶さん)

 

今夏のロンドン・パラリンピック出場をめざす陸上女子のトップ選手が先月、セミヌードカレンダーを発売した。背後には何より資金難があるが、背中を押したのは「絶対にロンドンまでやる」という覚悟だった。

 

中西麻耶さん(26)は2006年、ソフトテニスで国体出場を目指す、大分県の21歳の会社員だった。勤め先は「練習と両立できる」という条件で入った鉄骨塗装の会社。その現場で、倒れてきた鉄骨に足を挟まれ、右足ひざ下を切断した。

約半年後に退院したが、周囲からの「何もできなくなった」という視線を感じることが多く、悔しかった。義足をつけて立つ練習から始め、翌07年に走り始めた。実力を上げ、98年には北京パラリンピックに出場。100メートルで6位、200メートルは4位に入賞した。

それでも世界との差を痛感した。「現役でいられる時間は限られている。悔いだけは残したくない」。09年に渡米し、世界のトップ選手が集う米国の国立トレーニングセンターの審査に通った。三段跳びの五輪金メダリストのアル・ジョイナーから指導を受けるようになった。記録は伸び、100メートル、200メートル、幅跳びで日本記録を更新した。

ところが、資金難に苦しめられた。最低2足は必要な競技用の義足は、1足約120万円する。月約千ドルの生活費や、日に約40ドルのセンター利用費に加え、コーチへの謝礼も必要だが、米国の就労ビザがないため働けない。ホームステイする費用が払えなかった時は、車で寝泊りした。

ニュージランドであった11年の世界選手権は、渡航費用が足りず、出場を断念せざるを得なかった。苦しい時期だったのに、競技関係者の間には「それなら米国に行くなよ」と彼女を非難する声すらあった。

パラリンピック資金にセミヌード

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(競技中の中西麻耶さん=越智貴雄氏撮影)

 

資金を作るため、カレンダーを作った。バッシングを受けるのは覚悟の上で、自分をさらけ出した。障害部位を出すと「障害者をさらし者にしている」という人もいる。でも、「本気で支援してもらうため、自分のすべてを賭けてインパクトのあることをしよう」との思いが強かった。

10年以上にわたってパラリンピックを撮ってきた写真家、越智貴雄さん(33)に撮影を依頼した。越智さんはその成果をこう語る。「彼女を一言で表すと『突破』。困難にぶち当たっても、真正面から立ち向かう姿が表現できたのでは」

白黒の中で、義足だけ色付きの写真もある。赤色やバラの絵柄の生地を選んで作ってもらう義足は「見られて恥ずかしいものではなく、美しいもの」だと伝えたかった。

中西さんは「私は障害者でなくアスリート」と言い切る。そのためのよりよい環境を求めて道を切り開いてきた。カレンダーも、その手段の一つだ。でも、「後輩にはこういう思いをしてほしくない」。被写体となることで「どんなにバカにされようがバッシングされようが、後輩たちが活躍できる道を作りたい」との思いを込めた。

「障害者のスポーツはレベルが低い」と思う人がいるとすれば、悔しい。ロンドンでは3種目での出場をめざす。出るだけでなく、世界記録の更新を狙う。

障害があると、殻にこもりがちな人もいるが「そういう人を一人でも外に出してあげられたら、自分にしか送れない人生があると思うから」。自分のカレンダーが何かのきっかけになってくれればと願っている。

カレンダーは3月からの14ヶ月分で1200円。2千部限定で、中西さんのホームページやブログから購入できる。

 

国の支援 五輪と格差

日本陸上競技連盟によると、世界選手権などの国際大会に日本代表として選手を派遣する場合、渡航費や宿泊費は陸連側が負担する。一方、日本身体障害陸上競技連盟によると、同様の大会へ選手を派遣する際、「メダルが確実」とされるトップクラスの選手でも自己負担が必要という。

原因のひとつは、国からの支援の差だ。文部科学省から日本オリンピック委員会(JOC)への補助金は年間約26億円、日本陸連などの競技団体にはこの補助金が割り振られる。また、補助金とは別に、委託事業としてトップ選手の医科学サポート費用約20億円も支出される。一方、厚生労働省から日本障害者スポーツ協会への補助金は、2011年度は約5億円だ。

補助金のうち、遠征や合宿に使える強化費を厚労省が措置するようになったのは09年度から。厚労省の担当者は「一気に同じレベルにはならないが、選手が自己負担なく練習できる環境を徐々に整えていくしかない」と話す。パラリンピック選手の多くは、障害者雇用促進法に基づく法定雇用枠などで就職し、活動資金としている。

(山本奈朱香)

2012年3月22日木曜日

饒舌と寡黙、無言

友人の奥さんが長女を連れて、久しぶりに生まれ故郷のフィリッピンから、家族の待つ横浜に戻ってきた。奥さんは元フイリッピン人、現在は日本の友人の妻。長女は母の療養生活に付き添った。

先週、成田の飛行場で、妻と長女を家族総出で迎えたときの様子は、実に感動的でした。長男は妻に抱きつき、次男は長女に抱きついた。夫で父である私は、みんなをまとめて抱擁しました、と友人から報告を受けた。体調を壊して、3ヶ月ほどフイリッピンの実家で療養して、元気になって帰ってきたのだ。

戻ってきた彼女を首を長くして待っていたのは家族ばかりではない。フィリッピンから日本に来ている大勢の仲間たちだった。フイリッピン人の女友達だ。

友人が仕事を終えて自宅に戻ると、奥さんのフィリッピンの仲間が来ていて、ペチャクチャの大盛り上がりの最中。何か、こども達に話したくても、そのペチャクチャで話が通じない。そのペチャクチャは大きな声で牛の涎(よだれ)のように絶え間がない。ヤマオカさん、そりゃ、頭が痛くなるほどですよ、彼は辟易気味だった。

そうか、そりゃ、お国柄なんだろうね、と彼に話すと、ウンザリとした顔で話しを続けた。

フィリッピンって可笑しいんですよ、初めて会った人とでも、べらべら、10年来の知り合いのように、いつ果てることもなく、話し続けるのですよ。スーパーへ買い物に妻と妻の姉妹らで行った時なんて、異常ですよ。品物を前に、いつまでも喋りっぱなし、それが楽しみなんでしょうが、私にはは考えられませんと話した。

そして、2012320の天声人語に話は移る。

天声人語で、会話のことが話題になっていた。東京都の1世帯あたりの平均人数が2人を割ったことで、家で話す相手がいない世帯が普通になってしまった。詳しくは、1世帯の世帯数は1,99人だ。無言の生活が増え、それだけなら仕方がないと諦めもできようが、話さなくてはならないときにさえ、無言では、ちょっと不気味過ぎではないか、そんな内容の文章だった。

続けて、フランスで暮らした作家の池澤夏樹氏は、「日本の買い物には会話がない」、まるで、ロボットの国のようだと、また、都心の駅員は「無言で地図を見せて道を聞き、礼も言わず去る人が多い」などと嘆いていることを紹介していた。

私は今、事情があって独り暮らしなのだが、先日、野原で蕗の薹(フキノトウ)を採ってきて食用の油不足で天ぷらにはできなかったが、小麦の衣をつけて炒めて食った。それは、それは香といい風味といい、美味かった。このとき私は、誰も居ない台所で、ウ・!・マ・!・イ!と快哉、大きな声で叫んでいた。何処からも、誰からも、返ってくる言葉はなかった。居るのは、人間の言葉を喋れない、排泄機能障害の猫だけが、無邪気に、私の酒ヤケの赤い顔を見つめていた。

友人に私の独り言の話をしたら、彼も独り暮らしのときには、ただ今ーお帰り、行ってきますー行ってらっしゃい、頂きますーどうぞ、召し上がれ、ご馳走さまでしたーお粗末さまでした、こんな風に、独り会話をしていましたよ、と言っていた。

友人の奥さんと奥さん仲間との過度の饒舌は、ちょっと疲れるが、気の利いた会話は、人間関係を潤す必須の手段だ。寡黙、無言は、ときには重い意味をもつこともあるが、殺伐として冷ややかなのは少ない方がいい。

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ところで、私の独り言は?

2012年3月21日水曜日

春一番 吹かず

今日は、冬がそろそろ終わろうとしていている、20120322だ。一昨日の20日は春分の日だった。会社の窓から眺める日差しは春めいている。奈良・東大寺のお水取りが12日に終わった。私の祖母は、お水取りが終わったら、そろそろ春になるよ、と此の時期になると毎年口癖のように言っていた。

今日、弊社の営業部は定休日だ。私は午前中は会社にいて、友人とミーティング。午後は日差しが春めいてポカポカの一歩手前のホカホカ。こんな陽気こそ、大いに楽しまなくっちゃ、とイーハトーブ果樹園に直行、野良仕事に精励した。雑草取りに夢中、肌は汗ばんだ。それぞれの果樹は、小さな芽が吹き出す時期を静かにそっと待っている。それぞれの果樹に向かって、今年も頼むぞ、と話しかけた。こんなことでも、今の私にはたまらなく楽しい。もう少しすれば、芽は一気に萌え出すのだろう。

高知では、桜が開花したそうだ。

果樹園の隣のオジサンと、今年の春からの野菜作りの下打ち合わせをした。今の私は、仕事においてちょっと余裕のヨっちゃん状態で、此の春からは特別、農作業に励みますサカイにと宣言した。果樹と果樹の隙間にはまだまだ空き地があって、その空き地を利用して、瓜(ウリ)系の胡瓜(キュウリ)、冬瓜(トウガン)、南瓜(カボチャ)などを重点的に頑張ってみる心算だ。これ等は、痩せた土地でも逞しく育つ。手間をかけなくて、済むのだ。百姓の子せがれの知恵だ。他にも、色んな葉っぱ系を試みたい。肥料は、去年と同じように、友人から牛糞をもらってこよう。

長く厳しい冬がやっと終わりそうな此の時期なのに、どこからも「春一番」が聞こえてこない、そんなことを、急に可笑しいなあと思いだした。

ところで、春一番ってなんだったけ? と思いついたものの、春一番の定義を理解していないことに気づいた。気象庁によると、関東地方では今年、2000年以来、12年ぶりに春一番は観測されなかった。

「春一番」の意味を、Wikipedia のお世話になった。

これからは、チャンと覚えておこう。『春一番とは=例年2月から3月半ば、立春から春分の間に、その年初めて吹く南寄り(東南東から西南西)の強い風』。風速8m/s以上で前日よりも気温が上昇していることが条件のようだ。今年の立春は新暦で2月4日、春分は3月20日だった。

これで、来年からの「春一番」については、オッケーだ。

今度は”元寇”だ!!

新聞記事のタイトルは

「元寇船沈む長崎沖の海底 国史跡に

水中考古学 足りぬ支援」、だ。

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培風館 日本史精義

 

前回、秀吉の朝鮮出兵の新聞記事を見つけて、かっての受験勉強に使った参考書まで動員して文章を綴ったと思いきや、1ヵ月後の20120314の朝日新聞に、今度は元寇のことについての記事を見つけた。朝鮮出兵は1592年だから、元寇はそれより約300年前の1274年。今から730年前のことだ。私は、敏感に反応した。記事は編集委員の中村俊介氏のものだ。

元寇とは、文永の役と弘安の役のことだ。この二つの元寇が、これほどまでに凄まじい戦いだったとは、教室での授業では理解できなかった。

蒙古族の中から成吉思汗(チンギスハン)が現れ、あれよあれよと言う間にヨーロッパとアジアにまたがる大帝国を作った、国号を元と定めた。マルコ=ポーロが「東方見聞録」に、日本には金が多いことを記述した、これが日本征伐を目指した原因ではないかといわれている。

下の新聞記事にあるように、元、高麗、漢人の連合軍の軍船が4400隻が鷹島沖に沈んでいるという。兵も多いときには、約10万人が攻めてきた。なんと、数の多いこと。難を逃れて、引き返した船もそれなりにあっただろうから、この戦いの規模は相当なものだった。九州の彼方此方で、苦戦を強いられながら、何度も台風やら悪天候で助けられた。元連合軍は、陸上では強かったが水上ではからっきし駄目だったようだ。それに、軍の中枢や国内においても反対運動があり、次第に力を弱めた。日本は、まがりなりにも、北条氏を中心に結束して対処した。

秀吉軍が朝鮮に出兵した際に、彼らが朝鮮国内に築いた城の址が20箇所も、今も残されていると知って、戦の規模の大きさに驚いたのだが、今度は元寇に対する日本の反撃で、撃沈した元の軍船の数の多さで、再び昔の戦いといえどもその凄まじさに、またまた、驚いたわけさ。

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鷹島沖に沈む元寇時のモンゴル軍船の残骸=琉球大学考古学研究室提供

 

記事の一部=鎌倉時代に来襲したモンゴル軍船が沈む長崎県鷹島沖の海底遺跡が2月、国史跡指定の答申を受けた。海底遺跡では初めてだ。この海域では30年余りにわたって調査が重ねられ、昨秋には琉球大などの研究チームが730年前の「元寇」で沈んだ船体を発見。今年も水中調査を予定している。

鷹島沖の海域には元寇船4400隻の多くが沈むという。琉球大の池田栄史(よしふみ)教授らは音波調査で海底の異常地点を絞り込んで潜水。水深23メートルから船体の背骨となる竜骨や整然と並ぶ外板、たくさんの磚(せん)「れんが」を発見した。夏から秋にかけて再び調査を予定しており、元寇に詳しい佐伯弘次・九州大教授(日本中世史)は「日用品や武器類、未知の遺物もあるかもしれない」と期待する。

鷹島沖の調査は1980年に調査団が組まれてスタート。鷹島町教育委員会(現・松浦市)と九州・沖縄水中考古学協会(現・NPO法人アジア水中考古学研究所)に引き継がれ、「蒙古襲来絵詞(えことば)」に描かれる炸裂弾「てつはう」の現物が見つかったほか、部分的ながら船の部材や中国陶磁器、矢の束などが引き揚げられた。

現地には観光資源や地域活性化への期待も出ているが、簡単ではない。海水につかった遺物は脱塩や保存処理が不可欠で、専用施設もいる。

秀吉の朝鮮出兵

20120312の朝日新聞のアジア版で、秀吉が朝鮮に侵攻した時(1592~98)に築いた城の址(あと)が今も残っているという記事が掲載されていた。

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記事で、秀吉軍が侵攻のために城を20箇所も築いたことに驚いた。後の方で紹介する大学受験に使った参考書を読み直したら、なんと秀吉軍は約16万人の兵を送ったそうだから、大変な戦いだったことを改めて認識した。そのときの日本の人口は、何万人がいたのだろうか? 派兵の規模としては、相当大がかりで負担は重かっただろう。

新聞記事で扱われているのは、韓国南東部の蔚山(ウルサン)だ。上の写真では、山の頂上まで400年以上前に築かれた石垣が今も見える=西生浦倭城(ソセンポウェソン)

これより新聞記事の一部=(蔚山・中山晃) 城址は地元で「西生浦倭城(ソセンポウェソン)」と呼ばれる。「倭」は日本を意味し、日本で「文禄・慶長の役」と称する秀吉の出兵は、韓国で「壬辰倭乱(イムジンウェラン)」と呼ばれる。旧暦の干支で「壬辰」の年に日本が始めた戦乱の意味だ。今年は60年に一度めぐる「壬辰」年。韓国人の知人らに聞くと「まず壬辰倭乱が頭に浮かぶ」と口をそろえた。韓国では「侵略者」としての日本は「倭政(ウェジョン)」と呼ぶ植民地支配期に始まるのではなく、秀吉の出兵にさかのぼる。

これは、秀吉軍による”文禄・慶長の役”のことだ、とは直ぐに答えられる。この戦の名は、記憶から絶対抜けない。だが、悲しい哉(かな)、知識はそれまで、だ。それ以上に知識は広がらない。

でも、今はちょっと時間的に余裕のヨっちゃんだ。本棚から受験時代に使っていた参考書を開いてみた。

昭和40年初版、私が使っていたのは42年第6刷発行。培風館「日本史精義」、著者・下村富士男 ¥560 を何度も何度も読んで、暗記した。今は、この参考書の内容のほとんどが記憶から遠ざかっているが、それでも、大まかには内容が蘇った。それにしても、参考書には詳しくチャンと書かれていたのには、驚いた。

ここに、上の参考書の186~187Pを紹介することにした。当時の努力の手垢が懐かしい。

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2012年3月20日火曜日

蕗の薹(フキノトウ)

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昨夜、蕗の薹(フキノトウ)を天ぷらにして食った。

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昨日、弊社の中古住宅のリフォーム工事の仕上がりのチェックに行って、物件の裏側の膨大な空き地で、フキノトウが芽吹いているのを見つけた。その物件とは、横浜市栄区の庄戸のことだ。弊社のホームページの販売中物件の項をご参照ください。

経営責任者の中さんが、入念に室内をチェックしている間に、能天気(ノウテンキ)な私は空き地でフキノトウを15株ほど収穫した。昨年、ワラビやフキ、ツクシ、ヨモギを無手勝流料理法で食ったが、フキノトウだけは摘み採る機会を失った。その雪辱戦の意気込みなのだ。フキノトウは、キク科フキ属の多年草。芽を出して、ツボミが花になるまでが、凄まじく早いのだ。

物件は、新鋭の設計士が腕を奮っただけあって、流石(さすが)緻密に設計されている。壁材は自然素材の珪藻土。各部屋の空間作りが楽しい。各部屋の配置、部屋とユーティリティーを結ぶ動線、台所とリビングの配置と機能性、それに外観がなんとも素晴らしい。庭もたっぷりのスペース、車4台は入る駐車場。物件としては、超優良物件だ。

天ぷらで食うのが一番美味しいですよ、と聞かされているが、灰汁(あく)抜きは必要なのだろうか、苦味はあるだろうが、それを取り除くために茹でたりしたら、本来の風味を楽しめないのではないか。それじゃ、水にしばらく漬けておくか、それはきっと効果ないだろう。出来上がったら、何をつけて食えばいいのだろうか、我が家には、塩だけはある。

色んなことが頭の中を去来するが、結果、オーソドックスに、いやストレートにやるしかない、と腹を決めた。考える前に行動するタイプなのだ。これは、もう世間でお墨付きのメニューだ、必要以上に心配することはない。

何だって、食えないものはない、とは私の人生訓でもある。中国人は四つ足のテーブル以外ならなんだって食ってしまうというではないか。

よく水洗いして、何重にも苞(ほう)に取り囲まれたツボミの周りを整理。フライパンを温め、水でこねた小麦粉に、フキノトウを一つひとつ入れて、炒めた。

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天ぷらにしたかったのだが、食用油がボトルの底にちょろちょろしかなかったので、貧乏人は貧乏人らしく、ささやかに油をしいて、その上にフキノトウを並べた。好い香りがした。これこそ、春の香りだ、と独り言。焼酎の濃い目のお湯割を、矢継ぎ早に飲んだ。

心配していた苦味は、快い程度。この苦味こそが大人の味だ、とこれも独り言。

 

追記

蕗の薹の「薹」という漢字を機会を作って調べなくてはイカンなあ。

2012年3月18日日曜日

東大寺法華堂の秘密

今年の1月、昨年末に亡くなった恩師を偲ぶ会と中学校の同窓会に出席するために帰郷した際、時間が少しあったので、奈良の東大寺まで足を伸ばした。小学生のときの遠足以来だから、50余年ぶりの大仏(だいぶつ)様とのご対面だった。急ぎ足の見物だったけれど、どの仏像様も心身ともに疲れていた私を十分癒してくれた。馴れ馴れしい鹿は、相変わらずだった。

そんなことがあって、親しみを再確認していた矢先に、日経新聞が「東大寺法華堂の秘密」のタイトルで上(20120226)、中(ー0304)、下(ー0311)の3回に分けて特集を組んだ。今回の特集の本意とするところの秘密部分には、私には知識がなく理解できないことばかりなので、肝心要(かんじんかなめ)のその部分には触れられない。

が、その特集で使われた各種の仏像の写真は、見る者に何かを感じさせてくれた。

折角だから、この仏像の写真と各仏像に関する解説文だけを、パクらせていただいた。けっして悪用はいたしません。ここに貼り付けをさせてもらって、身内だけで楽しませてくださいな。

仏様は、その視線、その表情から私の心を見透かしている。恥・ず・か・し・い・限りだ。

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不空羂策観音立像(ふくうけんさくかんのん)

奈良時代=8世紀、脱活乾漆造 漆箔 像高362,0センチ

法華堂の本尊(ほんぞん)。天平時代を代表する仏像彫刻。宝冠、光背が取り外された無垢の素の姿がかえってすがすがしく神々しい。今回初めて重量が量られたが、500キロ超。

 

 

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法華堂本尊と脇侍

法華堂旧内陣に立つ不空羂策観音。脇侍に日光・月光両菩薩(ともに国宝)を従えたこの姿はもう観ることはできない。東大寺ミュ-ジアムでは三尊を安置中だが、法華堂内の修理を終えた後は不空羂策観音だけが法華堂に戻り、塑像の両菩薩は免震構造完備のミュージアムにとどまるという。

 

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国宝 日光菩薩立像

奈良時代 8世紀 塑造 彩色 像高206,3センチ

 

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国宝月光菩薩立像

法華堂本尊の左右に立つ。須弥檀中央の八角二重基檀の上段に安置されていた。当初は極彩色だったという。日光・月光菩薩の呼び方は江戸以前の文献には出てこず、仏教に守護神として採りいれられたインドの梵天・帝釈天の像ではないかとされる。

 

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執金剛神立像

奈良時代=8世紀 国宝、部分、塑造、彩色 像高170,4センチ

法華堂本尊の背後の厨子に、北に面してまつられている。毎年12月16日に厨子の扉が開かれる秘仏のため、美しい彩色を今に伝えている。はげしい憤怒の相を鮮やかに写した造形美が見事だ。同じ塑像として手法的に日光・月光菩薩像との近親性がいわれている。

 

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戒檀堂四天王・広目天立像

奈良時代=8世紀、国宝、部分、塑造、彩色、像高162,7センチ

戒檀堂の四天王像と法華堂の執金剛神像、日光・月光両菩薩像は、かねて同一工房の同一時期の作とみられてきた。最近の調査で法華堂八角須弥檀上に四天王像安置の痕跡が見つかり、戒壇堂の四天王像が元は法華堂にあった可能性が高くなった。

 

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国宝 良弁僧正坐像(りょうべんそうじょう)

平安時代=9世紀、木造、彩色、像高92,4センチ 東大寺開山堂安置

良弁は東大寺の初代別当。高僧・義淵(ぎえん)を師として法相宗を学んだ。羂策院(今の法華堂)に不空羂策観音像を安置し、その北口には執金剛神像を持仏としてまつっていたという。その後、華厳経の研究に励み、聖武天皇に華厳経の偉大さを説き天皇のあつい帰依を受け、東大寺創建の基礎をつくった=写真 図録「奈良時代の東大寺」から複写(原版は奈良国立博物館)

 

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興福寺 阿修羅立像

奈良時代=天平6年=734年 国宝 脱活乾漆造 像高153,4センチ 興福寺蔵

光明皇后が母の橘三千代の一周忌供養のために発願・改像した八部衆立像の一つ。法華堂の本尊、不空羂策観音像より古様を示すとみられていたこの像が、むしろ時代が下がる可能性が出てきた=写真提供 飛鳥園

 

法華堂内陣

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本尊の不空羂策観音像、日光・月光菩薩、梵天、帝釈天、四天王、金剛力士像(いずれも国宝)などが居並ぶ法華堂内陣は、まことに壮観であった。秘仏の執金剛神像(国宝)は中央の本尊背後の厨子内に安置。本尊は東大寺ミュージアムから戻るが、これらすべてが一堂に会する姿はもう見ることはできない=写真提供 飛鳥園

2012年3月15日木曜日

地方版で、湧く旅心

20120224 自宅に戻る電車のシートの上に朝日新聞があった。前に乗った人が、忘れたのか捨てたのか、手に取って読んでみた。

紙面の配列は少し違うけれども、大きく扱われた記事の内容は、今朝、自宅で読んだのと同じだった。ところが、地方版まで読み進んで、この新聞は山口県で売られたり配布されている新聞だということに気付いた。

此の来浜の主は、今日、山口の潮風か山風か腹いっぱいに吸って、横浜までやってきた。筋金入りの長州ものとはいえ、グニャっと疲れている。

此の主を手にしていた奴は、仕事の出張で来たのか、その帰りか。年老いた病床の親の見舞いに来たのか、その帰りか。お忍びの旅にやってきたのか、その帰りか。そんなことを考えながら、山口東版の記事を読んでいるうちに、俺も、山口でも山口でなくても、何処でもいい、旅情を味わいたいと思った。旅愁? 酒があって温泉があって、これぁ、たまらんなあ。

山口で思い出したのは、大学のサッカー部の後輩の桃井君だ。常々明るく愉快な桃井君は山口高校卒で、今は山口県の教育委員会で頑張っている。偉くなっている、と聞いている。その後、山口高校出身者の何人かは、私の出た学校に来ている。私の長男が出た高校のサッカー部の監督さんも山口高校で、東京学芸大卒だった。私を、息子の父兄以上に親しくしていただいた。

息子の大学(東京理大)の同窓生のギンちゃんは、山口県庁で土木系の職員として精励している。入庁して最初の夏、離島のダムの管理を任されていたとき、大型台風で水かさが急に増してきたときの緊張ぶりを息子に伝えてきた。気の弱い彼にはよっぽど怖かったようだ。彼も、高校は山口高校だった。

此の新聞記事を拾い読みして、インナートリップとでも洒落込みますか。防府をささやかに楽しく彷徨(さまよ)ってみましょうや。

 

32ページ=地域総合

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33ページ=山口

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2012年3月13日火曜日

ドナルド・キーンさん

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本を読み出した大学時代に、三島由紀夫の本を読んでも、川端康成でも、近松門左衛門から松尾芭蕉、万葉集、源氏物語でも方丈記でも、文学、文芸評論において、日本人の評論家よりも、ドナルド・キーンというよく分らない人が、何かにつけて出現する。大江健三郎や安部公房の本で、苦労していた時にも、必ず何処かの何かで評論しているのを見つけて、私の読解不足を補ってくれた。このオヤジは不思議な人だな、とつくづくそう思っていた。

ところが、このオヤジさんは日本文化をこよなく愛しているアメリカ人で、無茶苦茶立派な人だと初めて知ったときには、本当に驚いた。その後雑誌や新聞で顔写真を見ても、アメリカ人の顔ではない、本当は日本人なんでは、と疑った。

日本人は日本文化の貴重さをもっと認識すべきだ、と叱る。源氏物語は原文で読めなくても、優れた現代語訳を読みなさい。日本文学をもっと読め、美しい日本の風景を眺め、日本を愛する心をもっと育(はぐく)め、といつも日本人を叱咤している。

今回の東日本大震災の復興について、都が焼けてしまったが、驚くべき速さで東山文化が栄えた応仁の乱後のことを例に、日本を愛する心こそが復興に寄与するだろう、と語っている。

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その日本文学研究者のドナルドさんが、20120308、日本国籍を取得したと聞いた。日本人としての本名は、姓はキーン名はドナルド。漢字表記では鬼怒鳴門。キーンさんが日本人になったことは、百兵千馬?の味方を得たようだ。

待ってましたとばかりに、朝日新聞・天声人語は彼を話題にした。

早速、マイ・ポケットにしまい込んだ。

 

20120310 朝日・朝刊

天声人語

偉人の親類ができたような心持である。日本文学者のドナルド・キーンさん(89)が、とうとう日本人になった。去年の入院で思い立ち、震災で決心したという永住と国籍取得。復興の頼れる助言者となろう。

誰にも、生まれついた性別と名前、民族や母国がある。それらを変えるのは、余程の事情か、偽れぬ思いがあってこそで、打算や好き嫌いで踏み切れるものではない。キーンさんの場合、国籍は日本への、最上級の愛情表現といえる。

18歳で手にした源氏物語の英訳本に始まり、太平洋戦争では米軍の日本語通訳を務めた。戦後は京都大への留学、川端康成や三島由紀夫らとの交遊に、文化勲章。人と「異国」を結ぶ運命の糸が見える。

「日本のことを考えない日は一日もなかった」「私が選んだのではなく、日本に私が選ばれたというのが人生の実感」「平凡な日本人になりたい」。この国に関する言葉には、深い知性と情がにじむ。

20年前、あるお宅の新年会で隣り合わせたことがある。お節などの雑談が面白くて、話を文学に振りそこねた。楽しいのがキーン流とみえ、日本名キーンドナルドには「鬼怒鳴門」の字をあてるそうだ。鬼が怒鳴る風情にはほど遠いが、これも先生らしい。

震災後、外国人の日本脱出が続いた。その人波をかきわけるように、来るべき人が、来るべき時に来てくれたと思う。卒寿の転身を、泉下(せんか)の紫式部や松尾芭蕉が、川端や三島が、筆を休めて喜んでいるに違いない。ようこそ、キーンさん。

なでしこ アルガルベ杯準V

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20120309朝日新聞

(ドイツとの決勝戦の後半、同点ゴールを決め喜ぶ田中(右から2人目)=AP)

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(エスタデイオ・アルガルベ)

 

アルガルベカップとは、ポルトガル南部のアルガルベ地方で、毎年開催されるナショナルチームで競う女子サッカーの国際大会。このような大会があることを、今大会で初めて知った。格としては、オリンピック、FIFA女子W杯に次ぐビッグな大会だ。

サッカーの日本の女子代表=なでしこジャパンは、惜しくも優勝を逃した。昨夏のドイツW杯に次いでの栄冠かな、と期待したのだがそれは叶わなかったが、確実に実力をつけている。

 

B組 日本1ー0米国、1位通過。 FIFAランク3位のなでしこジャパンが、1位宿敵・米国に初めて90分以内で勝って決勝進出を果たした。後半38分にFW高瀬愛実(21)=INAC神戸=が、MF宮間あや(27)=(岡山湯郷)=のCKをヘデイングで、ゴール右隅に決めた。

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FW高瀬愛実(21)

 

昨年7月のドイツW杯以来の戦いだった。W杯では2-2の引き分けで、PK戦で勝ったものの、内容は完敗だった。シュート数は14対27、何度も決定的な苦境に立たされた。ところが、今回は試合運びは互角で、きちんと得点をゲットしての勝利だ。苦手意識は薄まるだろう。これで、アメリカとの対戦成績は、PK戦は勝敗には数えないので、1勝21敗4分だ。

そして、A組1位のドイツと決勝戦になった。ドイツには、五輪出場の予選も兼ねた昨年のドイツW杯では準々決勝で延長戦の末に1-0で勝っている。ドイツにとって、日本は憎(に)っくき相手でここで晴らさないと、気がすまない。そんな気迫が込められていた。試合は一進一退、点の取り合いになって、日本は3-4で競り負けた。これで対戦成績は、1勝8敗1分。

私がこの大会を振り返ってみて、何よりも嬉しいのは、なでしこジャパンが確実に力をつけていること、それに日本代表の主将を務めた宮間あやが、最優秀選手に選ばれたことだ。これは、格別に嬉しい。

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いつかの朝日新聞

(ドイツの決勝戦で、激しくボールを奪い合うMF宮間あや(27)=ロイター)

 

結果は準優勝に終わった。試合内容やチームのことについては、朝日新聞と日経新聞の記事がうまく分析されていたので、その記事を転載させてもらった。参照にしよう。

 

先ずは、20120309朝日新聞、記者・清水寿之氏の記事から。

なでしこ流 世界潮流

パスで揺さぶり体力奪う

惜しくも優勝を逃した日本代表(なでしこジャパン)だが、パスの精度や動き出しの速さなど完成度の高さが世界の目を引き付けた。昨夏のワールドカップ(W杯)ドイツ大会を制したパス主体のサッカーを米国やデンマークも採用するなど、「なでしこスタイル」が世界の潮流であることが今大会ではっきりした。

決勝直後の表彰式。日本のMF宮間(岡山湯郷)が最優秀選手に選ばれた。今大会は無得点。だが、代表21人の中で1人だけ全4試合に先発し、豊富な運動量と長短強弱を使い分けたパスでチームを支えた。会場を包み込んだ大きな拍手が、選出に誰も異論がないことの証しだった。

W杯の頃と比べても、相手ゴールへ向かう縦のパスの本数が増え、精度も向上。相手の意識がパスに向くと、虚を突いてドリブルを仕掛ける。W杯では90分間無得点が2試合あったが、今大会は0。攻撃力は確実にアップした。佐々木監督は「ボールを動かすことで相手にスキができることが、改めて分かったと思う」と手応えを口にする。

開幕前のなでしこリーグ所属の選手が21人中16人。まだ体調がピークでない中、決勝ではシーズン真っ最中のドイツ相手に互角の戦いをみせた。「パスで揺さぶる相手を走らせて体力を奪う。そんな省エネサッカーが目標」と日本協会の上田女子委員長。ドイツのナイト監督は「日本はいい道を進んでいる」。次の舞台は真夏のロンドン。目指す方向にぶれない。

 

いつかの日経新聞、記者・岸名章友氏の記事より。

なでしこに経験と自信

【ファロ(ポルトガル)=岸名章友】

女子サッカーの国際大会アルガルベカップの決勝で、日本代表「なでしこジャパン」は世界ランク2位のドイツに3-4で惜敗した。初優勝は逃したものの、経験と自信を積んで実りある大会になった。

目先の結果より内容を求め、「練習と実験」と位置付けた4試合だった。世界ランク1、2位の米国、ドイツとロンドン五輪前に腕試しできた意義は大きく、米国戦は勝利までついてきた。

「守備で難しいことが多くて、頭で考え過ぎて(攻撃に転じたとき)体が動かないときも」。なでしこの戦術を勉強中の木龍(日テレ)や京川(宮城・常盤木学園高)らがさえない表情で話す。日本の守備の約束事がそれだけ緻密、難解、高度なのだ。

FWからDFまでの全員で、危険を招く場所にボールを出させない。隊形を小さくしてプレスをきかせる。この予防的守備が、パワーとスピードの米国にある程度通じたのが最大の収穫だろう。

日本の躍進に追いつこうと、各国とも「間違いなくサッカーの質と完成度が上がった」と佐々木監督。単純にボールを蹴る、走るだけではなく、ボール回しや戦術を工夫している。大型選手ぞろいのノルウェーが引いてブロックを固め、スペースを与えないことで日本の良さを消した。日本もパスの速さや質をもう一段高めて対抗しないと、五輪で足をすくわれる。

ただ、日本が最も嫌なのは米国のように、パワーとスピードの正攻法で迫られること。「相手が勢いで押し込んできたときの対応がまだウィーク。守備から(攻撃への)起点をつくるところがおろそか」と佐々木監督はいう。攻撃の圧力を受けても、かわしながらいつものパス回しができるよう耐性がほしい。

準レギュラーの田中明日菜(INACが神戸)が世界で通用する器であることを示すなど代表の底上げに成果はあった。ただ佐々木監督は「僕のなかでは今大会のMVPじはFW長里(ポツダム)。攻撃のカードの枚数は増えたが、ここ一番で使いたくなるのは現状ではマダレギュラー組か。新たな切り札の台頭を待ちたい。

あなたたちの見立ては正しい

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弊社を資金面でバックアップしていただいている某信金の支店長さんが、先日、わが社にお見えになったときに仰ったことが、我々を大いに勇気付けた。

昨秋、東日本大震災の影響で弊社の商品の流通が細くなったことに、某信金某支店は、弊社を心配して、色々な救済策を提案していただいた。その救済策に応じるために、目下の業務計画書を提出した。それは、個性の違ったそれぞれの商品(中古住宅)が今後、どのように流通(推移)していくかを、想定したものだった。

そして年が明けた。

3月になって、我々の業界の市場は、少しづつ回復している。そして先に提出した計画書に書かれた内容を、この3ヶ月間に、ことごとく思惑通りに実現(推移)したことについて、支店長さんから頂いた言葉は、”たいしたもんです”だった。

”たいしたもんです”、とは弊社にとって有難いお言葉だ。

弊社にはそれなりのシステムを作っている。このシステムは、如何に仕事が忙しくても、きちんと守りきることだろう。

今後も、大きなミスに陥ることはない。

2012年3月11日日曜日

もっと早く 市場の欲望

30余年前、友人に話して笑われたことがある。

37年前に神奈川県大磯町にある電鉄系ホテルのプール部門で働いていた。学校を卒業して入った会社の新入社員研修を終えて、初めて赴任した事業所だった。

職場は海岸に面していたので、暇があれば砂浜を歩いた。釣りをしている人、犬の散歩を楽しんでいる人がいた。そこで、見つけたのが海底ケーブルの末端部分が、大磯寄りの二宮の海岸にあったことだ。太平洋海底ケーブルとあるから、きっとアメリカに繋(つな)がっているんだろうと察した、が、それが電線?を束ねたケーブルで、はるかに遠いアメリカと繋(つな)がれているなんて、当時は信じられなかった。

それから、移籍を命じられて、横浜の中心部で不動産業に携わることになった。そこで、知り合った友人に何かの機会に、二宮からアメリカまで海底ケーブルで繋がっているんだよ、電線で、と言うと、友人はそんなことないだろう、ラジオだってテレビだって、電波で伝わっているんだよ、アメリカまで電線が張られているなんて、嘘だ、とムベもない。そして、笑われたのだった。

でも、電話は電信柱から電線で引か込まれているよね、と私。

戸塚の深谷や瀬谷の自衛隊の通信基地は、電波をチェックしているんだよ。恰(あたか)も、私が、とんでもないトンチンカンな人間だと言わんばかりに。これが、30余年前に、私が話しかけて、鼻の先で笑われた内容だ。

そして、朝日新聞(20120226)1面、”カオスの深淵”のコーナーで、房総半島で、シンガポールと日本を最短ルート(6千キロ)で結ぶ光通信ケーブルの敷設する工事の紹介記事があった。これが、現在の姿だ。

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朝日新聞20120226 シンガポールと日本を結ぶ光通信ケーブルが敷設されている=1月26日、房総半島沖、本社ヘリから、恒成利幸撮影

 

今は、光ファイバーの時代なのだ。

6千キロ間を、情報は1千分の60秒で行き来する。このプロジェクトは1千分の5秒を短縮するために360億円を投じるという。

すげえなあ、と感心しながら、記事を読み進めた。0、1秒程度というまばたきよりずっと小さい時間短縮への巨額の投資に、どんな意味があるのか。事業主のNTTの担当者に聞くと「使うのは主に投資系の金融機関。いまは1千分の1秒の情報遅れで、数百万ドル損することもある。一瞬でも速める意味は大きい」と、記事にあった。

日本と外国に繋がる送信網を調べてみたら、下の図面通りだ。

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ちなみに、この二宮からグアム経由でサンフランシスコに通じる9850キロの海底ケーブルは1964年5月15日に開通して、即時通話が可能になった。東京オリンピックが開催された年だ。最初に話したのは、時の総理大臣池田勇人とジョンソン米大統領だった。

当時のケーブルは一本ものではなく、150キロごとに中継器を設置した。電話換算では、128回線分だった。

それじゃ、それまでの通信手段はどうしていたのだろう。

そして、話は別の繋がるに、つ・な・が・る。

今日20120311の日経新聞・朝刊で、通信会社ののソフトバンクがモンゴルで風力発電の事業を始めるとの記事を読んだ。ソフトバンクが中国企業に技術協力して発電、韓国の企業が送電を担い、モンゴル、中国、韓国、アジア諸国に海底送電網を敷設、送電するという「アジアスーパーグリッド構想」だ。これまた、繋げる。人間は何処までも繋がりを求めるようだ。

ところで、そんな重要な役目を背負ったケーブルが海底に張り巡らされていて、底引き網漁などで損壊したりしないのかと、ネット情報を調べていたら、案の定、やはり船の碇((いかり)や漁業活動で事故はあるらしい。

2012年3月8日木曜日

ブルワーズ青木に期待する

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(4日のジャイアンツ戦の9回 中飛に倒れる=共同 20120305の朝日新聞)

 

4日、青木宣親外野手(30)の出番が回ってきた。

だが、結果は、2打席無安打だった。残念だ。 大リーグのオープン戦の対ジャイアンツ戦でのことだ。でも、青木外野手は、清清(すがすが)しい気分だったようだ。主砲ブラウンに代わって左翼の守備に向かう足取りは弾んでいた。無安打に終わっても「すごく気持ちよかった」と語った、と朝日新聞の記事あった。

そして5日のジャイアンツ戦では初安打。6日のアスレチック戦では、8番右翼で先発したが、2打数無安打で終わった。

レネキー監督は、状況次第で出番が増えるだろう。厄介な投手によく食らいついていた、と評価した。

早稲田大学時代から、夢に見てきた大リーグ。日本では3度の首位打者の屈指の打者でも、今は控えの立場。「今は戦い」と決意は堅い。スポーツ新聞で、青木の表情を見る限り、手応(ごた)えを確実に感じ取っているようだ。余裕さえ感じさせられる、だった。

オフシーズン。ポステイリング(入札)制度で、ヤクルトからは青木外野手がブルワーズへ、日本ハムからはダルビッシュ有投手(25)がテキサス・レンジャーズへ入団することが決まった。

ダルブッシュがテキサス・レンジャーズと交わした契約は、推定で6年総額で6千万ドル(46億円)。入札額約5170万ドル(約39億8千万円)と合わせると1億ドル超える超大型移籍だ。身長195センチ、体重98キロの体格、体力、若さに野球のセンスが買われたようだ。それに、過去、怪我がないことも高く評価されたようだ。実際、開幕を前にしての練習で、ますます、ダルビッシュ株は上昇中だ。

違う、違う、ここはダルビッシュのことではない。

青木外野手にエールを送る文章を綴りたいのだ。ダルビッシュは間違いなく活躍するでしょう。

青木を応援しているのだ。ブルワーズとの契約は、今季の契約金額は100万ドル(7千7百万円)、来季は125万ドル(9千6百万円)と控え選手並の評価だ。3年目は球団が選択権をもつという。出場機会が満たし、出来高次第では推定年俸3億3千万円に達する。これでやっと、昨季のヤクルトの年俸らしい。

これほど厳しい条件を受け入れている。ヤクルト時代のほぼ3分の1の年俸をよしとして契約をしたのだ。近年、大リーグに入団した日本人野手の成績が伸びず、評価は低迷状態。当然、青木にも厳しい評価だった。私が期待した松井稼頭央も、実力を出し切れないうちに帰国を余儀なくされた。もう一人の松井、秀喜は怪我に悩まされひと時の迫力不足、苦しんでいる。

渡米を前に、青木外野手はチームに何が足りないかをよく考えて、その足りない部分を補えるようにすれば、出場機会は増えるだろう、と語っていた。

青木外野手は稲門の出だと聞けば、黙ってはおれん。同じ穴の狢(むじな)だ。私は体育会系不動産屋。青木宣親外野手は大リーグで、日本にも、こんなにプレーできる野手がいるんだ、とアピールしてもらいたい。

このチャレンジを応援したい。

2012年3月5日月曜日

臭かった!! 党首討論

20120229、今日は閏日(うるうび)だ。7月には閏秒だってあるらしい。閏と潤を混同して”うるおう”という読みがなまったのが、「うるう」だ、そうだ。

未明から降った雪は、家の周りの景色を白一色に変えた。4時に目を覚ましたときには、本降りだった。嬉しくなって、寝間着のまま外に出て、口を大きく空けて雪を受けた。口にはうまく入らなくて、額と頬を濡らした。冷たい雪が懐かしい。直ぐに体が冷えて、冷めた湯たんぽを両足で強く挟んで布団の奥にもぐり込んだ。その後、ネットで調べたら、夕方まで降り続くとのことだった。

今日水曜日は、営業部が休みだ。私は、昼まで会社に居て、午後は自宅の基礎工事の進捗状況のチェック、それからイーハトーブの果樹園で野良仕事をする予定だった。片手間農夫は、冬でもサボりません。

先ずは会社に出た。経営責任者の中さんは目を剥いて仕事をしていた。きっと、金策のことだろう。中さんを刺激しないように、私は身の回りの仕事?を済ませた後、ラーメンを啜(すす)りながら、さてどうするか、と新聞を見ていたら、夜はサッカーの日本代表がワールドカップ3次予選のウズベクスタンとの試合がある、その前に14:00から、国会での党首討論がテレビ中継されることを知った。

外は、雪が激しく降っているが、アスファルトの上の雪は融けている。

よし、混迷、進まぬ日本の政治家どもの実態を見届けてやるぞ、と他のことは諦めて会社を出た。日本の政治が動かないのを忸怩たる思いでいたのだ。いい機会だ。融けた雪が水溜りをつくっている。お坊さん作家の今東光さんの「春泥」を思い出した。卑猥だったけ?

国会の党首討論をテレビで見るのは、何年ぶりのことだろう。1万4千8百円の10インチテレビの前で、焼酎のお湯割りを手に陣取った。

 

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(20120301の朝日新聞の写真を借りた)

 

谷垣禎一自民党総裁が、自党からはリーダーとしての資質を疑問視され、世間の厳しい風評も耳にしているのだろうが、何が何でも反対、解散しかないと、いくら激しい言葉で攻めても民主党を追いつめられない。皮肉なことに、世間はそんな舌鋒に背を向ける。

ここに至って、馬鹿な討論はできない。対立ばかりしている場合ではないのだ。

その通りだった、割とまともな党首討論で、肩すかしを食わされた。喧々諤々(けんけんがくがく)、激しい質疑を交わされるどころか、全く私の期待はずれだった。

その討論を日経新聞の社説を借りて、再現してみる。

谷:「一番大きな問題は消費税を引き上げてそれを何のために使うかだ。具体的には何も決まっていない」

「内容が詰まっていない。これでは一体改革に値しない」

野:「社会保障の改革は順次実施する。今国会中に実現するもの、20012年度以降のもの、中長期的なものだ」

谷:「増税を首相が本当にやれるのかを我々も注目している。小沢一郎元代表は法案の決定や採決時の反対を明言している」

民主党と自民党は、基礎年金の国庫負担を3分の1から2分の1に引き上げて、安全財源として消費税を充てる方針で一致している。

谷:『衆院の「1票の格差」の是正、議員定数の削減や選挙制度の抜本改革についても、お互いに早く結論をだしましょう』、こんな調子だった。

なんだなんだ、これなら、妥協点を見いだす気さえあれば、まとまるのではないか。そんなに、もめることもないのではないか。そんな気にさせる今回の党首討論だった。

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(いつだったか?朝日新聞で見つけた。面白い!!)

 

討論を見終わって、今回はちょっと可笑しいぞ、と勘繰った。何かが、臭うぞと直感した。

先日、野田佳彦首相と谷垣総裁は、非公式にホテルで会っていた。その後、岡田克也副総理も自民党の町村信孝元官房長官と話し合いを持った。輿石東民主党幹事長は、森喜朗元首相にも会った。どちらの党でも、内部で賛否交錯、批判噴出しているが、この場に及んで、密会でも、公式の会談でも、私は大いに是とする。民主党は小沢系を抱え、自民党は支持率低迷状態。

野田首相は、口には出さぬが、顔の表情で衆院の解散選挙を臭わせるているように、私には感じられる。考え過ぎかもしれないが。

党員資格停止処分中の小沢一郎元代表は、自分と自分の子分たちが切り捨てられることになりそうで、異常に憤慨している。選挙になれば、小沢系はイチコロ、100人のグループがが間違いなく10人前後になる。

党首討論の場で、首相は反増税の小沢系を牽制した。民主党の党内論議を尽くし、閣議決定もして、手順は正しく進めていくと大宣言。そして、小沢被告が無罪の判決が出る前、今月末までには法案提出、国会決議には党議拘束をかける。一方では、解散をちらつかせて小沢チルドレンをビビラせ、裏では自民党の協力を得ておく。

衆院で、小沢系が法案採決の際、反対票を投じるようならば除名(民主党では除籍という)。可決されれば、参院をめざす。

参院で可決できるかがどうか?だ。 可決できなく、衆院の3分の2も無理なら、その時こそ「話し合い解散」だ。自民も加わって可決して、解散か、それとも内閣総辞職か衆院の解散・総選挙後に自民党、民主党で可決する、さて、どうなることやら。

それ以外の道は? 野田首相の腹は?

法案の成否は自民党と小沢系の出方次第だ。