新聞記事のタイトルは
「元寇船沈む長崎沖の海底 国史跡に
水中考古学 足りぬ支援」、だ。
培風館 日本史精義
前回、秀吉の朝鮮出兵の新聞記事を見つけて、かっての受験勉強に使った参考書まで動員して文章を綴ったと思いきや、1ヵ月後の20120314の朝日新聞に、今度は元寇のことについての記事を見つけた。朝鮮出兵は1592年だから、元寇はそれより約300年前の1274年。今から730年前のことだ。私は、敏感に反応した。記事は編集委員の中村俊介氏のものだ。
元寇とは、文永の役と弘安の役のことだ。この二つの元寇が、これほどまでに凄まじい戦いだったとは、教室での授業では理解できなかった。
蒙古族の中から成吉思汗(チンギスハン)が現れ、あれよあれよと言う間にヨーロッパとアジアにまたがる大帝国を作った、国号を元と定めた。マルコ=ポーロが「東方見聞録」に、日本には金が多いことを記述した、これが日本征伐を目指した原因ではないかといわれている。
下の新聞記事にあるように、元、高麗、漢人の連合軍の軍船が4400隻が鷹島沖に沈んでいるという。兵も多いときには、約10万人が攻めてきた。なんと、数の多いこと。難を逃れて、引き返した船もそれなりにあっただろうから、この戦いの規模は相当なものだった。九州の彼方此方で、苦戦を強いられながら、何度も台風やら悪天候で助けられた。元連合軍は、陸上では強かったが水上ではからっきし駄目だったようだ。それに、軍の中枢や国内においても反対運動があり、次第に力を弱めた。日本は、まがりなりにも、北条氏を中心に結束して対処した。
秀吉軍が朝鮮に出兵した際に、彼らが朝鮮国内に築いた城の址が20箇所も、今も残されていると知って、戦の規模の大きさに驚いたのだが、今度は元寇に対する日本の反撃で、撃沈した元の軍船の数の多さで、再び昔の戦いといえどもその凄まじさに、またまた、驚いたわけさ。
鷹島沖に沈む元寇時のモンゴル軍船の残骸=琉球大学考古学研究室提供
記事の一部=鎌倉時代に来襲したモンゴル軍船が沈む長崎県鷹島沖の海底遺跡が2月、国史跡指定の答申を受けた。海底遺跡では初めてだ。この海域では30年余りにわたって調査が重ねられ、昨秋には琉球大などの研究チームが730年前の「元寇」で沈んだ船体を発見。今年も水中調査を予定している。
鷹島沖の海域には元寇船4400隻の多くが沈むという。琉球大の池田栄史(よしふみ)教授らは音波調査で海底の異常地点を絞り込んで潜水。水深23メートルから船体の背骨となる竜骨や整然と並ぶ外板、たくさんの磚(せん)「れんが」を発見した。夏から秋にかけて再び調査を予定しており、元寇に詳しい佐伯弘次・九州大教授(日本中世史)は「日用品や武器類、未知の遺物もあるかもしれない」と期待する。
鷹島沖の調査は1980年に調査団が組まれてスタート。鷹島町教育委員会(現・松浦市)と九州・沖縄水中考古学協会(現・NPO法人アジア水中考古学研究所)に引き継がれ、「蒙古襲来絵詞(えことば)」に描かれる炸裂弾「てつはう」の現物が見つかったほか、部分的ながら船の部材や中国陶磁器、矢の束などが引き揚げられた。
現地には観光資源や地域活性化への期待も出ているが、簡単ではない。海水につかった遺物は脱塩や保存処理が不可欠で、専用施設もいる。