今年の1月、昨年末に亡くなった恩師を偲ぶ会と中学校の同窓会に出席するために帰郷した際、時間が少しあったので、奈良の東大寺まで足を伸ばした。小学生のときの遠足以来だから、50余年ぶりの大仏(だいぶつ)様とのご対面だった。急ぎ足の見物だったけれど、どの仏像様も心身ともに疲れていた私を十分癒してくれた。馴れ馴れしい鹿は、相変わらずだった。
そんなことがあって、親しみを再確認していた矢先に、日経新聞が「東大寺法華堂の秘密」のタイトルで上(20120226)、中(ー0304)、下(ー0311)の3回に分けて特集を組んだ。今回の特集の本意とするところの秘密部分には、私には知識がなく理解できないことばかりなので、肝心要(かんじんかなめ)のその部分には触れられない。
が、その特集で使われた各種の仏像の写真は、見る者に何かを感じさせてくれた。
折角だから、この仏像の写真と各仏像に関する解説文だけを、パクらせていただいた。けっして悪用はいたしません。ここに貼り付けをさせてもらって、身内だけで楽しませてくださいな。
仏様は、その視線、その表情から私の心を見透かしている。恥・ず・か・し・い・限りだ。
不空羂策観音立像(ふくうけんさくかんのん)
奈良時代=8世紀、脱活乾漆造 漆箔 像高362,0センチ
法華堂の本尊(ほんぞん)。天平時代を代表する仏像彫刻。宝冠、光背が取り外された無垢の素の姿がかえってすがすがしく神々しい。今回初めて重量が量られたが、500キロ超。
法華堂本尊と脇侍
法華堂旧内陣に立つ不空羂策観音。脇侍に日光・月光両菩薩(ともに国宝)を従えたこの姿はもう観ることはできない。東大寺ミュ-ジアムでは三尊を安置中だが、法華堂内の修理を終えた後は不空羂策観音だけが法華堂に戻り、塑像の両菩薩は免震構造完備のミュージアムにとどまるという。
国宝 日光菩薩立像
奈良時代 8世紀 塑造 彩色 像高206,3センチ
国宝月光菩薩立像
法華堂本尊の左右に立つ。須弥檀中央の八角二重基檀の上段に安置されていた。当初は極彩色だったという。日光・月光菩薩の呼び方は江戸以前の文献には出てこず、仏教に守護神として採りいれられたインドの梵天・帝釈天の像ではないかとされる。
執金剛神立像
奈良時代=8世紀 国宝、部分、塑造、彩色 像高170,4センチ
法華堂本尊の背後の厨子に、北に面してまつられている。毎年12月16日に厨子の扉が開かれる秘仏のため、美しい彩色を今に伝えている。はげしい憤怒の相を鮮やかに写した造形美が見事だ。同じ塑像として手法的に日光・月光菩薩像との近親性がいわれている。
戒檀堂四天王・広目天立像
奈良時代=8世紀、国宝、部分、塑造、彩色、像高162,7センチ
戒檀堂の四天王像と法華堂の執金剛神像、日光・月光両菩薩像は、かねて同一工房の同一時期の作とみられてきた。最近の調査で法華堂八角須弥檀上に四天王像安置の痕跡が見つかり、戒壇堂の四天王像が元は法華堂にあった可能性が高くなった。
国宝 良弁僧正坐像(りょうべんそうじょう)
平安時代=9世紀、木造、彩色、像高92,4センチ 東大寺開山堂安置
良弁は東大寺の初代別当。高僧・義淵(ぎえん)を師として法相宗を学んだ。羂策院(今の法華堂)に不空羂策観音像を安置し、その北口には執金剛神像を持仏としてまつっていたという。その後、華厳経の研究に励み、聖武天皇に華厳経の偉大さを説き天皇のあつい帰依を受け、東大寺創建の基礎をつくった=写真 図録「奈良時代の東大寺」から複写(原版は奈良国立博物館)
興福寺 阿修羅立像
奈良時代=天平6年=734年 国宝 脱活乾漆造 像高153,4センチ 興福寺蔵
光明皇后が母の橘三千代の一周忌供養のために発願・改像した八部衆立像の一つ。法華堂の本尊、不空羂策観音像より古様を示すとみられていたこの像が、むしろ時代が下がる可能性が出てきた=写真提供 飛鳥園
法華堂内陣
本尊の不空羂策観音像、日光・月光菩薩、梵天、帝釈天、四天王、金剛力士像(いずれも国宝)などが居並ぶ法華堂内陣は、まことに壮観であった。秘仏の執金剛神像(国宝)は中央の本尊背後の厨子内に安置。本尊は東大寺ミュージアムから戻るが、これらすべてが一堂に会する姿はもう見ることはできない=写真提供 飛鳥園