2012年3月22日木曜日

饒舌と寡黙、無言

友人の奥さんが長女を連れて、久しぶりに生まれ故郷のフィリッピンから、家族の待つ横浜に戻ってきた。奥さんは元フイリッピン人、現在は日本の友人の妻。長女は母の療養生活に付き添った。

先週、成田の飛行場で、妻と長女を家族総出で迎えたときの様子は、実に感動的でした。長男は妻に抱きつき、次男は長女に抱きついた。夫で父である私は、みんなをまとめて抱擁しました、と友人から報告を受けた。体調を壊して、3ヶ月ほどフイリッピンの実家で療養して、元気になって帰ってきたのだ。

戻ってきた彼女を首を長くして待っていたのは家族ばかりではない。フィリッピンから日本に来ている大勢の仲間たちだった。フイリッピン人の女友達だ。

友人が仕事を終えて自宅に戻ると、奥さんのフィリッピンの仲間が来ていて、ペチャクチャの大盛り上がりの最中。何か、こども達に話したくても、そのペチャクチャで話が通じない。そのペチャクチャは大きな声で牛の涎(よだれ)のように絶え間がない。ヤマオカさん、そりゃ、頭が痛くなるほどですよ、彼は辟易気味だった。

そうか、そりゃ、お国柄なんだろうね、と彼に話すと、ウンザリとした顔で話しを続けた。

フィリッピンって可笑しいんですよ、初めて会った人とでも、べらべら、10年来の知り合いのように、いつ果てることもなく、話し続けるのですよ。スーパーへ買い物に妻と妻の姉妹らで行った時なんて、異常ですよ。品物を前に、いつまでも喋りっぱなし、それが楽しみなんでしょうが、私にはは考えられませんと話した。

そして、2012320の天声人語に話は移る。

天声人語で、会話のことが話題になっていた。東京都の1世帯あたりの平均人数が2人を割ったことで、家で話す相手がいない世帯が普通になってしまった。詳しくは、1世帯の世帯数は1,99人だ。無言の生活が増え、それだけなら仕方がないと諦めもできようが、話さなくてはならないときにさえ、無言では、ちょっと不気味過ぎではないか、そんな内容の文章だった。

続けて、フランスで暮らした作家の池澤夏樹氏は、「日本の買い物には会話がない」、まるで、ロボットの国のようだと、また、都心の駅員は「無言で地図を見せて道を聞き、礼も言わず去る人が多い」などと嘆いていることを紹介していた。

私は今、事情があって独り暮らしなのだが、先日、野原で蕗の薹(フキノトウ)を採ってきて食用の油不足で天ぷらにはできなかったが、小麦の衣をつけて炒めて食った。それは、それは香といい風味といい、美味かった。このとき私は、誰も居ない台所で、ウ・!・マ・!・イ!と快哉、大きな声で叫んでいた。何処からも、誰からも、返ってくる言葉はなかった。居るのは、人間の言葉を喋れない、排泄機能障害の猫だけが、無邪気に、私の酒ヤケの赤い顔を見つめていた。

友人に私の独り言の話をしたら、彼も独り暮らしのときには、ただ今ーお帰り、行ってきますー行ってらっしゃい、頂きますーどうぞ、召し上がれ、ご馳走さまでしたーお粗末さまでした、こんな風に、独り会話をしていましたよ、と言っていた。

友人の奥さんと奥さん仲間との過度の饒舌は、ちょっと疲れるが、気の利いた会話は、人間関係を潤す必須の手段だ。寡黙、無言は、ときには重い意味をもつこともあるが、殺伐として冷ややかなのは少ない方がいい。

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ところで、私の独り言は?