20120312の朝日新聞のアジア版で、秀吉が朝鮮に侵攻した時(1592~98)に築いた城の址(あと)が今も残っているという記事が掲載されていた。
記事で、秀吉軍が侵攻のために城を20箇所も築いたことに驚いた。後の方で紹介する大学受験に使った参考書を読み直したら、なんと秀吉軍は約16万人の兵を送ったそうだから、大変な戦いだったことを改めて認識した。そのときの日本の人口は、何万人がいたのだろうか? 派兵の規模としては、相当大がかりで負担は重かっただろう。
新聞記事で扱われているのは、韓国南東部の蔚山(ウルサン)だ。上の写真では、山の頂上まで400年以上前に築かれた石垣が今も見える=西生浦倭城(ソセンポウェソン)
これより新聞記事の一部=(蔚山・中山晃) 城址は地元で「西生浦倭城(ソセンポウェソン)」と呼ばれる。「倭」は日本を意味し、日本で「文禄・慶長の役」と称する秀吉の出兵は、韓国で「壬辰倭乱(イムジンウェラン)」と呼ばれる。旧暦の干支で「壬辰」の年に日本が始めた戦乱の意味だ。今年は60年に一度めぐる「壬辰」年。韓国人の知人らに聞くと「まず壬辰倭乱が頭に浮かぶ」と口をそろえた。韓国では「侵略者」としての日本は「倭政(ウェジョン)」と呼ぶ植民地支配期に始まるのではなく、秀吉の出兵にさかのぼる。
これは、秀吉軍による”文禄・慶長の役”のことだ、とは直ぐに答えられる。この戦の名は、記憶から絶対抜けない。だが、悲しい哉(かな)、知識はそれまで、だ。それ以上に知識は広がらない。
でも、今はちょっと時間的に余裕のヨっちゃんだ。本棚から受験時代に使っていた参考書を開いてみた。
昭和40年初版、私が使っていたのは42年第6刷発行。培風館「日本史精義」、著者・下村富士男 ¥560 を何度も何度も読んで、暗記した。今は、この参考書の内容のほとんどが記憶から遠ざかっているが、それでも、大まかには内容が蘇った。それにしても、参考書には詳しくチャンと書かれていたのには、驚いた。
ここに、上の参考書の186~187Pを紹介することにした。当時の努力の手垢が懐かしい。