都の西北大学
45,6年前、都の西北大学? に在学中は、唯、只管(ひたすら)サッカーをするためだけだった。勉強をするためにその大学を選んだわけではない。何とか、入試という障害を乗り越えられたのは、千中八九のマグレだった。私の高校サッカーは、平等院では名高いが、サッカーでは鄙(ひな)びた地域だったので、大学に入って思いっきり優秀な戦果を得られるなんて、想像もできなかった。思いつきでさえ、できなかった。勉強だって、それぁ難しい勉強に手は出せなかったけれど、私にやれるだけのことは、やった。専門的な部分は× 端折った分野について手当り次第に本は読んだ。
入部当初、技巧は貧しく、技量も素人にチョビット髭(ひげ)が生えた程度で、大学時代の成果なんて露ほども想像できなかった。だが、、、でも、、、希望はあった!、、、全日本に幾つかある大学のなかで、チャンピオンになることだった。当然、そのチームの一員として出場することは、絶対条件だった。ところが、どっこい、不(あん)に図(はから)ず、4年生になって、昭和48年の全日本大学サッカー選手権と関東大学サッカー選手権の2冠を得たのだ。試合には、出場させてもらったこともあるが、観覧だけのことが大半だった。優勝した夜は寮の電話を無料で使わせてくれた。郷里の父や母にことの重大さを輪にかけて熱っぽく話したけれど、う~ん、ヘ~ と生返事が返ってくるだけだった。
入部できたのは京都の山城高校出身の山本和尚?さんのお蔭だ。同じ京都の出身だということで、親密感?なのか、先輩に対する面影が気に入ってくれたのか、明日にでも荷物を持ってきなさい、1年生は強制的に入寮してもらうからね、ときた。実は、強制入寮なんて決まりを知らないものだから、10日ほど前に学校の傍にあるアパートの入室契約をしたところだった。アパートに帰って、サッカー部に入ったこと、強制的に入寮しなければならないこと、を大家さんに話した。自力で大家さんと契約していたのだ。10日間は、現実に過ごさせてもらった。気兼ねしながら話した私に、入室料も礼金も敷金も、ええわよ、あなたにはお金が要りそうに見える!! 気にしなくてもいいから貰ったお金は全額返しましょう!! 愉快なおばあちゃんだった。
、
宇治川
私の郷里は京都府でも極南の京都府綴喜郡宇治田原町。
日本緑茶の発祥の地。茶摘みの頃には、小学校と中学校のカリキュラムは特別版に急変わり、授業は午前中で終わった。午後は生家の茶摘みの手伝いをした。午後3時頃には、町役場の大拡声器で当時の流行歌を流してくれた。老若男女(ろうにゃくなんにょ)、周辺のことなどお構いなしに、その歌を大きな声で歌った。摘み人としては、近所の縁戚関係者は当然だけれど、東北地方から来てくれた人も多かった。小さな村だけれど、お茶の季節には人は増えた。
製茶工場の窓から流れ出る新茶の香りは、子供にもいい気分にしてくれた。生産者がその効率を重んじる一括製茶工場では、いろんな家族が集まるので、私にしてみれば余所のオジサンの顔を見ることが楽しかった。
浅蒸し煎茶=名前の通り「煎じる茶」の意味を持ち、煮出すことによって成分を抽出させていたとされているその昔、まだ赤黒い色をした煎茶をなんとか美しい緑色のお茶にできないかと、江戸時代の中頃。宇治の永谷宗円と言う人が現在の煎茶の元となる青製煎茶を15年という歳月をかけて開発したと言われている。甘みと渋みのバランスが良く、後味がさっぱりしているーーーーさくらんの森発行 「さくらもち」より。
琵琶湖からの湖水は、瀬田川を通じて宇治川になり、淀川になる。宇治川の湖岸には大きな桜が多く立ち並んでいた。高校時代、桜の花の咲 く頃、桜電車(サクラデンシャ)がお酒を呑んだオジサンやオバサン、綺麗な着物の娘さんが、我らを楽しませた。古都の趣に花を添えた。しかし、高校に通いだした頃に、天ケ瀬ダムを創ることになって廃線になった。私の目の前で工事は進んだ。大林組のこの工事を嘆いた。
宇治田原の南地区から宇治川の上流にさす田原川にも思い出がいっぱいだ。冬以外には魚や虫を採って、騒いで、泳いだ。私は、泳ぎに関しても優秀だった。ウグイ、鯉、鮒や亀が群れをなしていた。宇治川に流れる少し前に深い谷風の水域があって、自殺者も度々生まれる危険な地域だった。こんなこともあった、私の次兄が岸に辿り着こうとすると、仲間たちに苛められた。岸に捕まろうとする手を遮ったり、頭に手をかけて水中に潜らされた。そんな時、私は泣きながら必至でそんな邪魔者に刃向った、苦言で暴力、馬鹿にした。
保、エエか?お前は故郷に錦を飾ることはない。東京で好きなように働けばいいのだ。保、もう一つお節介だ、乞食の子でも三年もやりとげれば、三年生になるんだよ、心配するな。
小学校、中学校は狭い田舎のこと、勉強のことは一切苦にならず、通学することが楽しくてしょうがなかった。山井(やまあい)の田舎は狭かった。勉強が出来ようが不出来な成績を貰おうが、平気の平左エ門だった。そんな暢気なことを、何時までも続くものではなかった。高校進学が迫ってきたのだ。いつもは50人クラスのなかで15番くらいで暢気(のんき)だったのだが、公立高校の受験資格はクラスで5番くらいまででないと、先生は受けさせてくれなかった。それからの私は違った。負けん気をだして、ちょっと真面目に勉強すれば、2番や3番に入れた。これを、父や母に話すと驚天動地、異常に喜んでくれた。やっと、ここで、他の人はそれほど勉強していなかったことが、、、判ったのだ。
それからの学園生活については、言うことなし、万事うまくいった。それからの受験勉強についも、欲をかいて言うことなし。大学に入ってからのサッカー生活が好いのか悪いのか、グチャグチャのブッチャぶっちゃ、頭を巡らすことなど一歩も一著も不出来だった。サッカーのサッカーができていなかった。少しスピードをあげてのランニングさえできなかったのだ。サッカーの能吏や豊かな知識を持っている人にとって、私のことなど「ヘ」みたいな、あばずれだったことだろう!!