2020年9月17日木曜日

感謝感謝の「惜別の辞」

 私は今日9月24日をもって72歳になる。生まれは1948年(昭和23年)。今年の12月で退職することになった。この機にこんな文章を創ってみたくなった。

よく頑張ったと思えば嬉しいのに、なんだヨそれきりっかヨと思えば悲しみが溢れてくるのはどういうことだろうか? 人生の岐(わか)れ道にいるからだろうか、此の訳(わけ)は人間・ヤマオカの変チョコリンの故か。

そんな気概はちょっと脳外に追いやりながら遣らなくてはならないことがある。それは、年末を控えての忘年会、肝心なのは送別会だ。大人数による宴会は避けなくてはならない。新型コロナウイルスの感染予防のために3密を厳しく避けなくてはならないからだ。そんな理由で、その類の宴会は避けられたら避けるべきだと思う。

でも私には私なりの都合があって、どうしてもやり尽くしたいことがある。それは、大学時代の友人や会社での皆さんに対して「有難う」と述べたいことだ。素浪人の2年間と大学の4年間、この会社の始まりから今までに約40年勤めあげたことになる。感謝の気持ちだ。

どうしても、京都府の貧農の家で生まれて地元の小中学校、京都府立城南高校を終えて2年間の浪人生活の末、早稲田大学のサッカー部に所属した。全国大学サッカー選手権大会と関東大学サッカー選手権大会の2冠に輝いたことだ。恥ずかしながら、サッカーの技量に貧しい私だって、関東で2回全国で1回出場させてもらった。早大のサッカー部史上、極めて稀な選手だったようだ。生家にも電話でその快挙を告げたけれど、嬉しいの一言も言ってくれなかった。父母も兄も、スポーツについては無関心だった。

高校三年生の秋頃。当時3年生は二人だけで、その友人に「お前、高校卒業したらどうするんや?」と尋ねると、「俺は中京大のスポーツ科学部に入って、サッカーをやるんだ」と答えた。その返答を聞いて、俺は何も考えてなかったことに、血も骨も疼(うず)くショックを受けた。

それから、私は私の戦いに突入することになった。今まで、家族の誰にも大学進学の話をしたことはないのと、勉強だってどの教科にも赤点を受けないだけの貧相な勉強ぶりだった。就職については、生家の遠い親戚が田舎では大きな茶問屋をやっていて、その会社の大阪支店開設の要員、茶師になることだった。

友人からの返答のあと、2年間かけて勉強をすることを決意した。どうせ大学に入るなら、サッカーに関して日本一の学校は早稲田、他にも法政、明治、中央を受けた。早稲田大学にどうしても入りたいと思う気持ちは高まり、心臓までもがブルブル、ドクンドクンと鳴りはじめた。受験した学校はどれも合格した。主目的なのがサッカーをやることだったから、勉強だってより深くより広くやることはない、過去の入試問題集を知るだけで大いに理解できた。

受験勉強の方法は簡単に見え透いた。ここで脳の中心の鍵となるのは、当時旺文社が纏めていた「基礎力水準法」だった。この法則に則って英語、国語、日本史をやる。英語は赤尾好夫の「豆単シリーズ」の基本単語集、基本熟語集、書き換え特集だけをやる、そして70点以上を確保。国語はあれもこれもやらないで、唯、新聞を隅から隅まで読み、書き、読解することを徹底的にやって、試験では70点を確保。そして日本史については、どんな問題が出ようがどんなことをしても90点以上、95点を確保すること。そうすれば、希望している学校ならばパスすることは解っていた。焦ることはない、2年間でやりきればいいのだ。

そして受かったとして、4年間の生活費と学校に納めなくてはならない授業料はどれくらい確保しておかなくてはならないのか、ぴったりした数字は解らない。何故、そこまで気持ちを高ぶらせているのかと言えば、この費用の全てを自分がこの2年間の浪人生活のアルバイトで稼ぎたいからだ。親のお世話にならないで、自らお金を貯めるのだ。その結果380万円なのか480万円なのか手に持つことができ、農業協同組合の貯金にして母に任せた。浪人生活の2年間の、1年目2年目は半年はドカタ稼業、半年は受験勉強。関西電力の山を越える鉄塔建設の基礎工事がメインだった。浪人生と言えども頂く賃金は大人の90%程度、そんなとんでもないことを友人らには話せなかった。

大学へ入学後、そのお金から私が連絡する毎に、母が送金してくれた。その送金の作業をしてくれたのは郵便局の小中学校同級生のHさんだった。母に任せたお金には当然のように限界があるので、送ってもらうお金はギリギリの限少にしたので、私の生活は嫌になるほど貧困だった。それでも、学生仲間はよくぞ気持ちよく付き合ってくれたものだと感謝している。私の生活費から授業料のことを仲間に、これほど細かく話したことはなく、皆も知ってか知らずかよくぞ付き合ってくれた。数多の先輩、後輩と同輩、監督、コーチに感謝、感謝の大乱舞。

練習は絶対休まなかった。学校へは行かない、そんな時間があったら何でもいいから自分一人でできる練習をやった。レギュラータイムの練習が始まる前の1時間は近所の中華料理屋さんでアルバイト、練習が終わったころにやってくる早稲田実業の練習にも参加、その練習が終わっても私は一人グラウンドに残ってヘッディング、ランニング。練習休みの月曜日には走りまわった、吉祥寺、三鷹、武蔵境、国立、上石神井、井の頭公園、石神井公園、善福寺公園、武蔵関公園、多摩湖までだ。3年生の夏休み、新宿駅から数分のところで京王プラザホテル新築工事の窓側のコンクリートの枠組みを作った。これも、何人もいた大学生のなかでトップクラスの日給をいただいた。昭和45年11月25日、作家・三島由紀夫が盾の会を率いて、憲法改正のため自衛隊の決起を呼びかけ、自らは割腹自殺した三島事件の報道を観ながら、ダンボール会社でアルバイトをしていた。

そうして、縁あって西武鉄道の基幹会社である国土計画(株)に入社し、同期生と違って私だけは国土計画、プリンスホテル、西武鉄道、伊豆箱根鉄道、近江観光の慣れない宣伝部の企画を担当をさせてもらった。そんなお勤めが10年間。その業務のなかで和田さんとも付き合うことができ、その後色んなお世話になることとなった。

33歳頃、そんな手慣れない仕事に邁進していた矢先、隙間風が吹いたのだ。午前中に吹いた隙間風の勢いは、午後に直属の部長に退社願を提出していた。余りの急転直下の激しさに、女房も空いた口が塞がらない状態だった。そんなことに、私はメソメソする男ではなく、たまにはこんな自由自在奔放な時間を過ごせるのは、棚から牡丹餅の心境だと思った。

そして西武系会社からの退社。アーバンホームズの設立になった。私が33歳の頃だと思われるので約40年前のことだろう。その後の仕事については何も此の書にて公に話すことはない。アーバンビルドの破産から破産を何とか乗り越える努力は、中村社長をはじめ皆さんの努力が実を結ぼうとしている。破産はしたけれど、どこまでもやれるだけやりたいと歯を喰いしばってくれた中村社長。驚くことなかれ、今、立派な会社に様変わりした。

和泉、海老沢、桜庭、古舘、坂西、向坪さん。小さな子供育ちで大変な時期だった和泉さん。某住宅メーカー出の設計士の桜庭さん。ある施設のレストランで調理部にいた古舘さん。弊社が協業していた会社から坂西、向坪さん。入社について私が骨を折ることもなかった人々も何人もいる。今一度我が社に戻ってきてくれないかとの声に、その気になってくれた浅見、細川、佐藤さん。彼たちは仕事に夢中になってくれた。この人たちの応援、協力に感謝したい。

そして今から7年前、私は樹木の上で枝を切る作業をしていて頭から落ちて重症を受けてしまった。前面の道路に落ちたのだが、頭のどこが路面に直面したのか記憶がない。2,3日の意識不明のころは、無意識に布団の何かを必死で噛み切ったり、夢中でシートを引きちぎった。4か月の入院生活でなんとか人並みに喋れるようになり、車椅子を脱却して歩くことだってできるようになった。そして、退院して自宅に戻りたかった。

それから高次脳機能障害に対するリハビリテーション専用の病院に転院した。この障害とは、てんかん発作に各種の精神症、記憶力の低下、言葉をうまく発音できない、ものの理解が上手くできない。治りたい意識が先行し、看護婦さんや医師に対してもいい患者になりたかった。でも、夜中に聞こえる隣りのベッドのオジさんの話を異常なことを目論んでいるのではないかと思いこんだ。それを看護婦さんや私の見舞いに来てくれた人びとに話して、山岡さん、あなたは狂っているよ、と「変な一言居士」扱いにされた。退院後、昼間だって一人で歩くコンクリート階段が怖かった。夕刻、電信柱の陰に何か不思議なものが潜んでいるのではないか、遠くから見る商店の看板の絵柄が恐ろしいものに見えて近づくのが怖かった。

それからこの落下事故とは関係ない筈なのに、サッカー部時代に痛めた腰回りの骨がガタガタになった。腰椎椎間板ヘルニアの発生だ。お尻や足の痛みが激しく、しびれが筋肉の隅々を走った。腰や足が動かしにくくなり、力が入りにくくなった。皆と一緒に歩くことが辛(つら)かった。落下事故とこの腰痛で、気分がほぐれなくなった、辛かった。

この文章の題字に『感謝感謝の「惜別の辞」』としたのは、浪人時代と大学でのサッカー部、新しく創った会社でのドタバタ劇、落下事故と腰痛において、私は幸せにも沢山の友人や理解者に囲まれたことだ。こんな、幸せな時代に巡り合えたこと、私を支えてくれた人々の援助、協力に感謝したいことが、文章を綴る原因になった。

★郷里・京都府綴喜郡宇治田原町では、鎌倉時代に茶の栽培がはじまり、江戸時代に「永谷宗円」が現代の緑茶製法の礎となる青製煎茶製法を開発した。
よって、永谷宗円のことを日本緑茶の祖と言われている。
我家は祖父が本家から分家をして生家・山岡家は生まれた。
当時分家の時にいただいた田畑だけでは裕福に暮らせないと腹をくくった父は当時の金融業からお金を借りて、自分の代になって倍以上の田畑を耕作するほどまでに成長した。
父が亡くなって、兄と私で不動産の登記済み証なぞをチェックしていて、新しく取得した田畑や、銀行との間で交わした金銭消費貸借契約書を見つけて二人は吃驚した。