会場に向かう次女と孫、武蔵小杉駅で南武線に乗り換えるために移動中。二人の背後にはエネルギーがムンムン!!
20121110、ランネットという会社が開催した「ランネット駅伝多摩川大会」で走ってきた。
南武線の鹿島田駅で下りて多摩川に向かった。突き当たりの多摩川の河川敷には2~3000人ほどが集まっていた。ところでこの河川敷の広場はただの広場ではなくれっきとした名前の「古市場陸上競技場」だった。
色んなパターンの組み合わせの駅伝が次から次にスタートする、そんな大会だった。我らが出場した種目は午後のショートの部で、4人組の混成チームが、1区・5キロ~2区・3キロ~3区・1キロ~4区・3キロのトータル12キロを走破するコースだった。私はこの1区を走った。2区は孫のハル、次女が伴走した。
エントリーされるための条件とか参加資格がなくても、誰でもが参加できる。参加費用は幾分かは支払わなくてはならないようだ。幾らって? 私の分は、次女が払ってくれたので、知~ら~ない。
1週間前に、突然 次女から電話がかかってきて、竹ちゃん(次女の夫)が仕事の都合で参加できなくなったので、代わりに出てくれないか、といつもの有無を言わせぬ迫力だ。
決して走るのが嫌いでない私のことだ。娘や孫の前で、ジジイの偉大さを目(ま)の当たりに見せつけるにはいい機会だと思った。まだまだ廃(すたれ)れてはいないことの実証だ。昨秋、竹ちゃんと箱根の温泉プールで、娘や孫の前で、25メートルをクロールで競って負けなかった。
わが混成チーム。
走り出すまでは、ジジイは世界記録を目指していた!! 孫は疑いなくジジイを信じていた。
力走する、我がチーム。
世界記録への挑戦は叶わなかった。
大会側から渡されたタスキにはチップが仕掛けられていて、個人の成績は正確に記録された。
100~200人が一斉にスタートするために、スタート地点の狭いエリアにギュウギュウ詰めで並んだ。私はこの場所の居心地の悪さを感じた。違和感だ。この雰囲気は昔どこかで感じて、長く忘れていた感覚だ。真剣勝負を前に身を切り裂くほどの緊張感が漂っていて、私には息苦しかった。
私が並んだ位置は全体の前の方で、そこに居並ぶ人たちは、自らの記録を意識した猛者連中だった。順位か記録か。私のように間抜けた服装で緩んだ気構えの連中は居なかった。
スタートした時は、皆には遠く及ばない実力なので、無理をせずに完走さえすれば、それなりの順番でゴールできるのでは、と高をくくっていた。ところが、そんな簡単なものではなく、男も女も、ガンガン走るではないか。抜かれても抜かれても、それでも、自分のペースだけはしっかり守って、孫にタスキをきっちり渡す、計算高いランナーだった、はずが?
スタートして10分後、私の右足のふくらはぎに異常が発生した。10分後というのは折り返し点のずうっと手前だ。おかしいぞと感じてから、急に度を越して痛くなった。肉離れを起こしたようだ。
折り返し点が遠かった。折り返し点を折り返した時には、ふくらはぎの痛さは固まってしまった。膝が曲がらない、足が棒だ。周りを見ず、ひたすら地面だけを見て、何とか歩を進めている状態だ。こんな筈はない。何と、この5キロは長いんじゃ、この距離を呪(のろ)った。
ようやく我がチームの応援団の前を通過した時には、顔面蒼白、否青ざめていたかもしれない。声援に応えるだけの余裕はない。
私の到着を待つ次女と孫組は、ジジイはどうしたんだろう? 逝っちゃったか?と心配していた。まさか、あのジジイのことだから、棄権することは絶対ない、とは思っていてくれたようだ。絶対諦めないのが、このジジイの真骨頂。もう少しです、頑張ってください、と観衆のなかから美しいお婆さんが声援してくれた。
タスキを外して渡そうとしても、次女たちがいる所までのただの10メートル、5メートル、3メートルが異常に遠い。観衆が居なければ、間違いなく泣いていた。
やっとの思いでタスキを渡し終えて、地面にひれ伏した。ふくらはぎに手を当てても感覚がない。30分後、立ち上がったが右足は地面を踏みつけられない。
64歳と50日のジジイの記録は、412名中、405番。タイムは32分21秒という惨憺(さんたん)たる成績だった。20121110、我が人生、痛恨の日になった。
帰途。牛歩ならぬ亀のようなノロノロ歩きでは我がチームに迷惑になるので、一人、早い目に鹿島田駅に向かった。競技場を、このような格好で去るのは実に惨(みじ)めだった。でも敗者ではない、痛恨の挑戦者だった。
来年は、今日の屈辱を必ずはらす、再起を期す。