2012年10月31日水曜日

登山家・芳野満彦を読む

アルムクラブ創設者の1996年当時八ヶ岳ビジュ間hp

芳野満彦氏

この1ヶ月で、芳野満彦氏の著作「山靴の音」(二見書房)と「新編山靴の音」(中公文庫)、それに芳野満彦氏をモデルにした新田次郎の「栄光の岩壁上下」(新潮文庫)を読み終えた。

20121020

20120207の朝日新聞の訃報記事で、芳野満彦氏のことを初めて知った。当時は仕事のことで頭が混乱中。日本人として初めて欧州アルプスのマッターホルン北壁登攀した登山家の彼が心筋梗塞のため死去。80歳だった、との記事を読み進めていくと、彼は五文足(約12センチ)のアルピニストと言われているとあり、これはどういうことだと興味を持った。

そして、上の本4冊を読むことにした。

低い山や安全な山を散策する程度の私には、この本に書かれている山々や峰々の名前や登山の装具のこと、使われている登山用語のほとんどを理解できない、まして近寄り難い岩壁登攀なんて、、、、なのに読書のペースはどんどん進む。

氷も雪も、風も雨もない暖かい部屋で、私の読書は岩壁登攀の取り付き点から、カーテン越しに暖かい日差し受けて、ピッケル、ハーケンやカラビナではなく、温かいコーヒーカップを手にして、1ピッチ、2ピッチと一気に進んだ。彼なら、きっと今でも冥界にある山岳を攀じ登っている。      

 index_05

「山靴の音」の冒頭の「八ヶ岳遭難」は友人との八ヶ岳登山で遭難した時の内容だ。18歳で遭難してその翌年にこれを著している。出発して、遭難、救助されるまでの詳細が、恐ろしいばかりの記憶力で振り返っている。悲惨な事故に、これだけ冷静に描写していることに恐れ入った。

この遭難事故をきっかけにますます、山にのめりこんでいくさまが、鬼気じみる。何故、そこまでして?と問いかけたくなる。その私の問いに、彼は別の本のなかで答えているのを見つけた。「そこに、希望があるからだ。だから、僕は涙して登る」だった

山にとりつかれた男が、山から山を攀(よ)じ登る。そしてどの山にも情熱を高らかに謳って止まない。

本文中には、山岳や動作する人の絵があり、マジックなのかペンなのか絵筆なのか、描かれたものは登山家の心そのものだ。自然には、強く賢く冷静に対峙している。山男らしい純情詩が幾編も盛り込まれていて、どの詩も読み人を粛然とさせる。

こんなに山を愛した登山家は他にはいないのではないか。

それに、小説「栄光の岩壁」を併せて思うに、彼は山仲間のことは当然、関わった人たちとの人間関係を大事にしていた。岳人、クライマーとしてだけでなく、立派な人格者だったのだろう。

 

小説「栄光の岩壁」は、彼をモデルにした主人公・竹井岳彦の幼少からマッターホルン北壁登攀を征服するまでの物語だ。

18歳の時に学友と八ヶ岳で遭難し、友人は凍死、彼は凍傷によって両足先の大半を失う。それでも山への憧憬は増すばかり、鴨居にロープを吊るしての歩行訓練を始めた。

北アルプス、上高地の氷壁の宿と言われる徳沢園(山小屋)の冬の管理を任される。この小屋を拠点に、未踏峰の岩壁を十以上も征服する。指のない足が痛む。靴下を重ねて履いても、歩行したり岩を蹴ると血が溢れる出る、それでも岩壁にむしゃぶ-りついていった。

1962年、大倉大八(本名)氏と組んでアイガー北壁を目指すが悪天候のために無念の撤退を強いられた。そして翌年、アイガー北壁に再挑戦したが、失敗。

この再挑戦の報を聞いたカメラマンの藤木高嶺さんと朝日新聞の本多勝一記者が、カナダ・エスキモーの取材の帰途、現地で、1800メートルの魔の北壁の1000メートル地点で悪天候のために断念したところに立ち会った、とこの本の解説の欄にあった。この本多勝一、藤木高嶺コンビでいくつもすばらしい仕事をこなしている。彼らのファンだったが、こんなところに出現してきたことに驚いた。朝日文庫の「カナダ・エスキモー」をかって夢中に読んだ。

そして、1965年、日本人として初めて.渡部恒明(本名)氏とマッターホルン北壁を完登に成功した。最初からずうっとトップを登っていた渡部氏が、登頂約20メートルを前に、疲れたから代わってくださいと彼を立てた。

二人は引き続きアイガー北壁を狙うが、彼の足先からの出血がひどく断念した。

「ツエルマットより愛を込めて、我北壁に成功せり」と奥さんに電報を打った。