愛用していた靴や登山装備
会社の私の椅子の後ろにあるホワイトボードの下隅に、小さな新聞記事のスクラップを磁石でおさえておいた。ホワイトボードを見る度に気づいてはいたが、手にとって再読することはなかった。登山家・芳野満彦氏の追悼の意を込めた評伝だ。いつかじっくり、この登山家で画家でもあった同氏の詳細を確認しようと思いながら、ほっぽらかしたままだった。
いつもなら、新聞名とその記事の日付を、切り取った記事に添えておくのだが、それがなかった。筆者は編集委員・工藤憲男氏とあって、この名前から日経新聞の記事だと解った。この新聞記事を下の方で、記事そのままを転載させてもらった。
内容は、彼の紹介を『青春求めた「五文足」』のタイトルで著したものだ。この記事を読んで、初めてこの登山家のことを知ったのだが、此の記事を読んでしまったら、只では済まされないと血が騒ぐ。
そして、今、新田次郎が芳野氏を主人公にした「栄光の岩壁」を読んでいる。この本の読後感想を後日ブログしたいと思っている。
以下記事のまま。
学生時代に山の本に夢中になって読んだ中で、新田次郎の「栄光の岸壁」が一番心に残る。主人公の竹井岳彦が、八ヶ岳で遭難し凍傷で両足先の大半を失い12センチの足になる。ふつうの人間なら松葉づえか義足でないと一生歩けないと言われた障害を負ったが主人公は鴨居に帯ひもをぶら下げ、腕の力だけで起き上がることから訓練を始める。その度に足から血が噴きだしたが、この不屈のクライマーは冬期の国内の初登攀(とうはん)記録を次々と打ち立て、やがて日本人初のマッターホルン北壁登頂も果たし、伝説のクライマーとなる。
栄光の岸壁のモデルとして芳野満彦さんは新田次郎の家に通い、泊りがけで取材に応じた。「しつこかったねえ。その執念はすごかった」というが、新田こそ芳野さんの生きざまに圧倒され、それを上回る意気込みを見せようとしたのだろう。
芳野さんの、大胆なタッチの山岳画展では、入り口に小さな登山靴が置いてある。子供の靴といってもいいほどのかわいいものだ。”五文足”のアルピニストといわれた。超人的な山男が、この小さな靴で世界中の山々を駆け巡ってきたと思うと、胸を締め付けられるものがあった。
晩年の芳野さんは酒を愛し、子供の頃から大好きだった大相撲の世界を語るのを楽しんでいた。無為自然の画人として絵筆をとり、山と対話しながら大作に挑んだ。2度、八ヶ岳美術館で絵画展を行ったが、若き日に遭難し、岳友を亡くした鎮魂の思いもあったろう。
1959年に27歳で出版した「山靴の音」は、多くの登山家に読み継がれている。厳冬期、半年も社会と隔絶された山小屋・徳沢園での孤独な生活が、山に生きる芳野さんの精神を鍛えていった。「山がそこにあるからではなくて、やっぱり山には何かがあるのだと思う」。いくつになっても芳野さんには「山には青春のにおいがした」のである。