20121020、京都向日市物集女に住んでいる義母が、今まで私の敷地だった横浜市保土ヶ谷区権太坂に、次女夫婦が自分たちの住まいに建て替えた、そのお祝いに来てくれた。
82歳だ。腰が以前に会ったときよりも随分曲がったことに驚いたが、腰の曲がり以外は、顔の色よく、よく喋り、体の調子もよさそうだったので、迎えた我ら横浜族は内心ホッとした。
長距離の移動には車椅子で誰かが押して歩いたが、短い距離ならば、杖を頼りにゆっくりゆっくり、歩くことができた。今回も、京都駅までは息子に送ってもらって、新横浜駅までは迎えに行ったが、その間は自分で歩いてきた。
ハル像
権太坂で義母を迎えたのは、新しく建ちあがった新居と、玄関前に設(しつら)えたハル像だった。このハル像は三女の夫・タツが、私の会社にあった廃材を利用してリメイクしたものだ。人知れずアパートでこつこつと創った。元の石像に粘土やコンクリートやらを盛り付けたようだ。顔の表情は、実にハルの人柄がよく表現されている。サッカー狂いのハルは、サッカー気違いのジジイを信奉している。いいサンプルでなくちゃイカンなあ。
義母はいつも京都高島屋で、私の大好物な鯖寿司を買って来てくれる。このシーズンは米の収穫期、新米を使った鯖寿司は、最高に美味い。今回は、鯖の焼いたものを載せた鯖寿司も持って来てくれた。初めてだ。美味かった。
義母が来浜するに際して、次女夫婦は東京見物を企画していた。旧古河庭園のバラ、東京スカイツリー、東京駅の見物をして、昼食は深川飯、こんなコースを用意していた。孫のハルが突然サッカーの試合が入ったので、オヤジよ、一緒しないかと次女に声を掛けられ参加することになった。
全員を撮るチャンスを逃した
夜の宴会は賑やかだった。子供、孫、大学時代の友人・マサチカも含めて17人の大宴会になった。マサチカ以外は全て身内だ。長女は200メートル傍に、長男は歩いて20分ほどの距離の東戸塚の駅前に、三女は道路を隔てた向かいに住んでいる。イザという時に直ぐに集まれるのが、山岡軍団の強さの秘訣だ。長女は、世界のビールをセットにしたものを持って来てくれた。ビールの世界一周旅行だ。
孫たち5人は、特別に作ってもらったテーブルで仲良く食事していた。
宴がたけなわになったころ、岩壁ならぬ居間の壁面登攀が始まった。ボルダリングだ。壁面に埋め込まれたホールドと呼ばれる突起物を手でしっかり捕まえて、足ではしっかり踏ん張って、壁面を登る。落下しても大丈夫なように命綱も用意していた。ザイルだ。
皆で代わる代わる登った。長女の長女・モミジが、誰もがそれほど運動的な子ではないと思っていたが、進められるままに登り始めると、それはそれは勇猛果敢、恐れを知らぬクライマーに変身、観衆の心配を尻目にどんどん登っていった。その、いつもとは違う彼女の行動に拍手喝采、両親も目から鱗(うろこ)落ち。翌日、モミジの母親は、うちの子はスピード競技は苦手だけれど、時間をかけて取り組むことには優秀なんですよと言っていた。
私も登った。酔ってはいたが、ジジイの意地とプライドを賭けて登った。不確かな指によるキャッチ、不安定な足場のまま、次のステップに進むのは危険だ。何事も同(おんな)じだ。
そして、20121021(日)。
私は急遽休日をとった。
サラリーマン生活から経営者として40余年仕事をしてきたけれど、当日は当然、前日に休みを申し出ることは絶対にしなかった。休みは1週間前に通告するのが私の常識にしてきたが、今回初めて前日に休みを所望した。
次女夫婦
先ずは旧古河庭園だ。住所は東京都北区西ヶ原。
大正時代の古河財閥の屋敷と聞けば、直行で憎っくき足尾銅山鉱毒事件を思い出すが、それは過去の話。今はジェフ市原の出資者でもあるから、かっての悪行は不問に付す、か。
治外法権の撤廃を認めさせた不平等条約の改正に辣腕をふるった陸奥宗光の別邸だったが、次男が古河財閥の養子になった時に古河家の所有になったらしい。
武蔵野台の丘陵地に、小高い丘に英国風の洋館、斜面を利用したテラス式の洋風庭園、低地には池を囲むように日本庭園を配している。人込みが混雑、列を作ってノッソリノッソリ見て回った。義母は車椅子。通路は小石が敷かれていて、車椅子には難儀だった。
手入れの行き届いた英国風の庭園には、いろいろなバラが大輪になって咲き誇っていた。まだつぼみのままのもあった。私は、バラの花に馴染みがない、近づき難い何かを感じるのだ。
洋館のなかの喫茶室で、庭園の人々とバラを窓越しに見ながら紅茶とケーキを食った。義母がお金を払ってくれた。紅茶580円、ケーキはいくらだったか忘れた。
次に東京スカイツリー。住所は東京都墨田区押上。
近くに車を駐車させて、タワーの下に陣取った。近くでは高過ぎてカメラ画面に全貌を上手くおさめられない。仰向けに寝っ転がって、見上げて撮った。それにしても、この迫力にはビビラされた。H鋼ではなく鋼管。鋼管が何本も群立して地中に突き刺さっている。青空を突き抜けて宇宙にも届けとばかりに尖(とんが)っている。東京タワーは女性的で優美だが、スカイツリーは男性的で挑戦的だ。
東京タワーの周囲には超高層建物が林立して、電波の行き届かない陰の部分が発生して、その解消の目的のために建てられた。事業主体は東武鉄道、工事の施工会社は通天閣でもお馴染みの大林組だ。
全高(尖塔高)は634メートル、建築物としての高さは、470,97メートルで横浜ランドマークタワーの296,33メートルを上回って、建築物としては日本一高い。
Wikipedia=構造システムは法隆寺の五重塔を参考に、心柱(鉄筋コンクリート造高さの375メートル、直径の約8メートルの円筒で内部は階段)により地震などによる揺れを防ぐ心柱制震構造となっている。
上3葉の写真は、Wikipediaのものを拝借した
次に向かったのは改装された?と言うよりも復原された東京駅だ。日本の表玄関と言われる。住所は東京都千代田区丸の内一丁目。
東京駅の開業は1914年(大正3年)、すでに開業していた新橋駅と上野駅の間に、首都圏の中心的役割を持たせるために作られた。駅舎の設計は辰野金後。前の旧古川別邸も、同時期の建築だったと思われる。
車で、駅舎の正面が見られるところまで来ると、周辺を埋め尽くした大勢の見物者が、ウロウロしていた。車の停められるところがなくて、私は車の中で待機、みんなは近づいて見て来た。私には見る機会がいつでもある。
少し前、テレビで見たライトアップされた赤レンガの駅舎が綺麗だった。今も夜間にはライトアップされているのだろうか。
1923年の関東大震災でもほぼ無傷だったらしい。終戦直前に米軍による空襲を受けて屋根と3階部分が燃えて、簡易に修復していたものを、今回、ドーム屋根に復原された。
アサリとしめじの炊き合わせ
次は、肝腎の昼飯だ。次女がネットで調べておいた店に向かった。深川飯(ふかがわめし)だ。
深川飯はアサリのすまし汁をご飯にかけたもので、元々、江戸の漁師たちが考え出した簡便なもので、庶民の味だ。古くはアサリではなく深川近辺で多く採れたバカガイだったものが、大正の時代にアサリを使うようになった。定型なものはなく、店によって趣向をこらしているようだ。
私たちはアサリの炊き込みご飯をオーダーした。
ぶっ掛け風ご飯の方は漁師に、炊き込みご飯は大工などの職人さん用だったようだ。
店内には、観光で来ているような人が多く見られた。この辺りは、名所旧跡が多いところのようだ。深川不動尊、深川八幡宮、芭蕉記念館、東京都現代美術館、出世不動尊、清澄庭園だ。店の前には、何故か日本地図を作った伊能忠敬の像があった。彼は千葉の人と記憶にあったのだが、説明書きにはこの辺りで活躍したとか? 活躍したのは日本全国だった筈だが。相撲取りの顕彰碑のようなものもあった。
帰りの運転は次女が快く引き受けてくれたので、次女の夫・竹ちゃんと人肌燗の2合徳利を2本いただいた。空っぽの胃袋にお酒が沁みる。竹ちゃんは、私の申し出にいっつもにっこり、盃を受けてくれる。
御代は義母が引き受けてくれた。
帰途の車中、孫のハルに電話で試合の結果を聞くと、1試合目は勝った、ゴールを入れたよとのことだった。車中は大いに沸いた。もう1試合勝たなければ公式戦の本大会に出られない。首都高速から、東京スカイツリーがよく見えた。
20121022、義母に「葉トウガラシ」をお願いしようと、数日前に野良仕事のお手伝いをしている山田農園からトウガラシの葉っぱを貰ってきていたが、手入れを怠(おこた)ったので、料理するまでもなく傷(いた)んでしまった。不肖者! め。前もって京都の義母に電話で了解をとっておいたのに。電話を切ってから、82歳の先輩に酷なお願いをしたことを悔いた。
私は、子どもの頃から、この葉トウガラシが大好きで、私の母によく作ってもらった。作ってもらうためには、枝から葉をもぎ取り整理して母に渡した。毎年この季節だ。ちょっぴり辛く、甘く、炒めて煮るのか ?
葉トウガラシは未遂に終ったが、「塩昆布」作ってくれた。素材が第一だと言って、これも鯖寿司と同じように京都高島屋で買って来てくれた。最高級の昆布に、ジャコ、山椒、筍を醤油で煮たものだが、これも格別に美味い。これさえあれば、いくらでもご飯が食えた。
夜は、長女の家で義母と長女の子供たちに囲まれて食事をした。
翌日20121023、義母は焼津に新幹線を使って向かった。小学生時代の友人たちと食事とお泊りだと言っていた。70余年も前の友人と会うなんて、凄い。腰は曲がってしまったけれど、元気だ。長生きして欲しい。
来浜、ありがとうございました。