2018年6月3日日曜日

ビーダーマンと放火犯たち





先月の3月27日(火) 19:00より、東京演劇アンサンブルのブレヒトの芝居小屋で「ビーダーマンと放火犯たち」を観た。
その際のことについては、4月5日に投稿した。
なかなか未熟な原稿だったが、本日、私の机の中を整理していたら、こんな文章を見つけたのでここに投稿させてもらう。
もっと、具体的にお芝居の内容を知ってもらえる。




2018・4・27 NO124
a letter the Ensemble

■fasebookより
今村修さん(演劇評論家)

一昨日の夜は、東京演劇アンサンブル「ビーダーマンと放火犯たち」(作=マックス・フリッシュ、訳・ドラマトゥルク=松鵜功記、演出=小森明子)
ブレヒトの芝居小屋。スイスの劇作家フリッシュ(1911~1991)は、不勉強にして今回が初めての出会いだが、ちょっとブレヒト、さらには安倍公房や別役実も思わせる人を食ったこの不条理な寓話劇はどうにも後を引く。機会があれば、他の作品も観てみたいものだと欲が出た。

この街ではどうやら放火が頻発しているらしい。行商人を装って家に入り込み火をつける手口は共通しており、消防隊も組織されたのだが、一向に止む気配はない。「(犯人たちを)縛り首にしてしまえ」と酒場で気炎を上げていたビーダーマン氏(公家義徳)は、ヘアトニック製造会社の社長。ついさっき共同経営者だったクネヒトリング(坂本勇樹)を首にした。

どうやらかなりオレサマな性格らしい。ある雨の日、元レスラーだと名乗るホームレス、シュミッツ(小田勇輔)が突然自宅を訪ねてきた。低姿勢の言葉とは裏腹な体から発する威圧感に押され、ついつい屋根裏部屋に泊めてしまう。翌朝追い出しにかかった妻バベッテ(洪美玉)も不幸話にほだされて腰砕け。

あろうことか、仲間のアイゼリング(松下重人)まで引き込んでしまあう。そんな夫婦を、小間使いのアナ(山埼智子)と消防隊姿コロス(原口久美子、竹口範顕、永野愛理ら)が冷ややかに見つめていた。

演出の小森は、空間を立体的に使い、コロスを巧みに動かして、ドラマをテンポ良く転がしていく。コロスは歌で状況を説明し、登場人物をたちを批評し、狂言回しのの役を務めていくのだが、その言葉が妙に哲学的、抽象的で、しかも何だか他人事。それこそ居酒屋談義の趣もあり、時に興味本位で右にも左にも触れる世間そのもののようにも見えてくる。それが祈りにも似た美しい旋律に乗せて語られるのが、何とも皮肉で意地が悪い。

シュミッツたちは、ガソリンの入った大量のドラム缶を運び込み、危機は加速度的に増大していく。だが、ビーダーマンはその場しのぎの事なかれ主義に終始し、打つ手打つ手がことごとく裏目に出てドツボにはまっていく。その善良を装う小市民的偽善に、放火犯たちは軽々につけ込む。”今そこにある危機”から目を背け、オロオロするばかりビーダーマンたちの姿は、いつしか時を超えて今の日本と重なる。時の権力が自制を失い、国が大きく道を誤ろうとしているときに、テレビの画面から流れてくるのは、賑やかなだけのバラエチィーばかり。
ドラム缶の群れを前にして危機感をいだかないビーダーマンと何も変らない。

寓話劇だから、どんな状況を投影することも自由だが、作家の活躍した国、時代に鑑みれば、放火犯たちにナチスの影を見て取ることは容易だろう。そういえば、ナチス台頭の切っ掛けとなったのが国会議事堂放火事件だったよな、と放火繋がりで思い出す。

最初は低姿勢でにこやかに近づき、気がつけば数を頼りに国を牛耳り、隅々まで支配する。誰もそれを望んだわけではないのに、飴と鞭を巧みに使う闖入者たちに抗う術もない。そんなナチスの手口に学べ、と臆面もなく口にする副総理をいただく国に私たちは生きている。黒い哄笑と共にその事を思い出させてくれるこの舞台を、極めてタイムリーに出会わせてくれた東京演劇アンサンブルに大きな拍手を贈りたい。
(敬称略)