2013年11月13日水曜日

ア式蹴球部思い出アラカルト4

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そんなこともあったか!!

 

私たちの大学のサッカーチームからは、日本のサッカー史上、多くの名物人を傑出してきた。

サッカーが日本に持ち込まれた当初は、師範系大学から帝国大学に、そして一般大学に広まった。その草創の頃から、我が大学は先駆的に関わり、発展の過程に特別な人たちを輩出してきた。その人が監督だったり、コーチだったり選手だったり、その面々は余りにも個性的で多彩だ。

私がこの大学のア式蹴球部に所属した4年間だけでも、私を魅惑した先輩、こんなオッサンにはかないっこない!! そんなスーパーマンを何人も見てきたが、今回は、その中でも代表して3人の傑物をここに登場してもらおう。もの凄く傑物なのに、ほんの一部しか紹介できないのが残念だ。このオッサンたちから大きな影響を受けて、私は学生時代を過ごした。

 

一番目に登場願うのは、なんと言ってもキングこと工藤孝一(1909~1971)さんのことだ。

早稲田大学のサッカー部が、Jリーグの発足(1993年)に合わせるように発展的?な運営を意識、未来のサッカーを思考し始めた。私が在学中(1968~1972)は、早稲田だけではなく、日本のサッカー界全体がまだまだ手探(さぐ)り状態だった。競技のレベルとしては、東京オリンピック(1964)を経て、メキシコオリンピック(1968)で銅メダルを獲得してから、進化の芽が吹きだしつつも、爆発的な人気が持続するまでには至らなかった、それでも日本サッカー協会は努力し、我々愛好家は一所懸命ボールを蹴った。

それより50数年前のこと、1936年(昭和11年)のベルリンの奇跡は、代表選手16人中10人を早稲田が送り出した。このときに、工藤さんは日本の代表チームのコーチとして帯同した。監督は早大OBの鈴木重義氏、もう一人のコーチは東大の竹腰重丸氏だった。手前味噌になるが、この日本代表チームの大半は早稲田の選手が占め、早稲田のメンバーが中心になってチームは強固な意志をもつ一本縄に仕上げた。この大会の少し前から、日本の代表チームや早稲田大学のチームには常々、必ずそこには工藤さんが監督として、コーチとしてそこに居た。それから、亡くなるまで早稲田の主(ぬし)であり、精神的大黒柱だった。

私が1968年に入部して、最初、工藤さんを見たときに不思議なジジイだなあ、と思った。東伏見駅の方から、毎日、杖をついて不自由な左足を引きずりながらやってきては定位置のベンチに座り、じっと練習を見つめる。1966年に病に倒れ、その後遺症で体の半身が不随になった。毎回、練習や試合を終えて工藤さんの前に集まって講評を求めた。工藤さんは、全体的なことには触れないが、ワンポイント、気づいた選手のプレーについてコメントした。その際の表現が辛らつだった。でも、工藤さん特有のユーモアを含んでいるので、その表現が酷ければ酷いほど、笑って受けとめられた。東伏見での一日の練習の全てを見終わって、ゆっくりゆっくり坂道を自宅に向かって歩いて帰る。今でもこの光景は網膜に焼き付いている。

なかなかパスを出さないで、一人でボールを保持し過ぎて、墓穴を掘ることが多かった海さんに、「お前は、いつまで片肺飛行をやっているんだ」とか「片目をもぎ取られたトンボみたいだ」と批評した。又、ラフなタックルを売り物にしている先輩に対しては、「お前のことを、?大学の監督が関東蹴球協会でも注意して欲しい、なんて言ってたけれど、俺はアイツは頭が変なので、大目に見てやってくれ、と言っておいたので、心配しないで、いつものようにやってこい」、と指示していた。

2年生になって、みんなと同じ練習になんとかついていけるようになった頃、工藤さんに「尻(けつ)に糞を挟んで走っている奴は、偉そうな名前のヤマオカか? そんなんじゃ、サッカーはできない、田舎へ荷物をまとめて帰れ」と怒鳴られた。瞬間、この糞ジジイと思ったが、この時期の私は、他の人から何と批判されようが、びくともしなかった。そんなことに、構ってなんかいられなかったのだ。

それから、ときどき交代選手として試合に出してもらえるようになった頃のことだ、紅白試合の最中に、何を思ったか工藤さんが杖をつきながらグラウンドに入ってきたのだ。どうも、工藤さんの向かっているのは私のようだったので、嫌な予感がした。そこで、試合は中断。私の前まで来て、お前は下手(へた)なんだから、ここからここまでは、と言いながら杖でグラウンドに線を引いて、この線の中だけは、絶対に、確実に相手のプレヤーにボールを自由にさせるな、この線からは出るなとも言われた。当時のフォーメーションはWM方式で、私はフルバックを任されることは多かった。オフサイドトラップをかけなくてならないときもあるし、時にはチャンスにドリブルでサイドを突っ走らなくてはならないときもある。でも、工藤さんのここからここまでのエリアでは、命がけでデェフエンスしろ、の戒(いまし)めは徹底的に厳守した。その結果、守ることには部内でも評価されるようになった。

3年生の9月、工藤さんは亡くなられた。葬儀は23日、早稲田大学ア式蹴球部葬として、同期の井出多米夫さんが葬儀委員長を務められた。棺を自宅からグラウンドまで、ベルリンオリンピックの代表者たち、次いで卒業年度順に、棺をグラウンドまで運んだ。グラウンドの中央のセンターサークルに棺を置き、ベルリンオリンピックの代表監督だった鈴木重義、現役、早大OB、慶応のサッカー部関係者で円陣を組み、「都の西北」と「紺碧の空」を歌った。

4年生のときには、工藤薬局の2階に下宿させてもらった。行儀の悪い学生だったけれど、工藤さんの奥さんは文句一つ言わずに置かしてくれた。奥さんの笑顔は最高だった。その工藤さんの息子が同期の工藤大幸だ。次女の京子さんは同じ学部の先輩だ。

工藤さんは1909年(明治42年)、岩手県岩手郡(現・岩手町)に生まれた。地元の小学校、中学校から早稲田大学第一高等学院に入った。それから、工藤さんの早稲田とサッカーとの関わりが始まった。私は、このジジイは、どうも岩手県の岩か石から生まれたのではないかと思うようになった。風貌は凡庸でよくよく見かける路傍の石、口数少なく、だが、意志は強過ぎて固過ぎる、コチンコチンの細工のきかない石のような岩のような男だった。人生のほとんどの時間をサッカーにかけた。見事なサッカー狂人、サッカー馬鹿だった?このような人生を過ごした人を、他に見たことないし、聞いたこともない。 

工藤さんは私にとって、雲上の人だった。

 

二番目は堀江忠男教授(1913~2003)だ。

入部した時の4年生のメンバーは他の大学を圧倒するような優秀な選手が揃っていたにもかかわらず、残した成績は戦後最悪だった。そして翌年、監督には堀江教授、キャップテンは松永章でスタートした。そこで、監督の堀江教授を初めて知った。以前にも監督をしたことはあったが、チ-ム再建のために、教授の再度の出番をOBたちが求めたようだ。

さすが教授だけあって、黒板に戦況を描き、それぞれの選手の動きを多少は理論的?に話されたが、基本は、局地において1対1で勝つこと、ボールをゴール前に集めて、それをなんとかゴールに持っていくこと、単純に表現すればこれだけのことだった。伝統的な早稲田の百姓一揆の復活か?を目指していたと言ったら、天上の堀江監督に叱られそうだ。 ところが、その単純明快な教えを、監督は自ら実践を織り交ぜて説明した。

堀江監督は日本代表(ベルリンの奇跡)でもフルバックだったので、守りにおける心構えや、対処の仕方は実にユニークで、堀江流だった。ボールを挟んで二人が相撲のように、レスリングのように肩と肩をガツンガツン、突っつき合ってのボールの争奪戦を実践して見せた。最初は、滑稽に思えて失笑してしまったが、そのうち、監督の迫力に誰も何も言えなくなってしまった。

タックルの仕方だって、多分当時55歳位だった監督が、両足を前後に大きく股を開いて猛然とボールにタックルして見せるのだった。筋肉の落ちた白い足が、にゅうと器用に伸びた。相手の懐深いところに入り込むことの見本を見せたかったのだろう。その程度のことぐらい、言われただけでも理解できたが、身を挺して模範を見せて説明しないと、監督は満足しなかったのだ。そして、監督が独り言を漏らしたのを聞き逃さなかった、「俺は、やったぜ」と。

学校は、入学して間もなく2年間はロックアウトされ、学校での授業は開かれず、単位はレポート提出で取得していた。2年生の終わり頃のことか? うちの大学のグラウンドではなかったが、監督が私を呼びつけて、「ヤマオカ、お前のあのレポートでは単位はやれないよ。でも、可をつけといたから悪(あ)しからず、、、」と言われた。勉強不足の私には、堀江教授が提示した命題の意味が解らなかった。だから、レポートらしいレポートなど書けやしなかったのだ。私のレポートは、きっと、教授が求めていたこととは、大外れで、チンプンカンプン、デタラメだったのだろう。

3年生の時、学校から高田馬場駅までの帰途、いつものように古本屋の店頭に並べてある文庫本を物色していたら、前の道を早足で歩く堀江教授に見つけられ、一緒に東伏見に帰ろうと言われた。ハイと答えて、持っていた文庫本の束を棚に投げ入れて、並んで歩くことになった。私からは何も話す内容を持ち合わせていない。早足だった。教授も、私などに話すことなど何もなかったのだろう。一緒に帰ろうと言われても、こんなに息苦しいことはない。そして、高田馬場駅の改札口を過ぎた瞬間、黒い鞄を手下げたまま、初老の教授は階段を2段飛びでダッシュした、その表情は真剣、猛進するさまは異状だった。私は、ニヤニヤして後ろを追っかけた。そして、私は教授から逃げることを考えた。これ以上、二人っきりになるのが怖くて、先生、やっぱり、僕、古本屋さんに戻ります、と言って、実際に本屋さんに逃げた。彼と、私とはモノが違うと実感した。

工藤さんに教えられた通り、ここからここまでは、絶対、相手に自由にボールを持たせるなの戒めを、私は忠実にこなした。そんな私の守備を、監督からも少しは評価されるようになって、少しづつ、試合に出してもらえるようになった。

私たちの4年の時も堀江監督だった。私たちの学年にはスーパースターがいなかったからか、どうかは、よく解らないが、キング工藤・堀江監督の考え方をチームに生かすことが最善と、誰もが思い始めていた。チームの結束は固かった。その結果、一人ひとりの実力はそんなに大したことはなかったにもかかわらず、関東大学リーグ優勝、全日本大学選手権優勝の2冠獲得につながった。

卒業して数十年後、堀江教授は後輩の結婚披露宴の主賓のスピーチで、私のことを、田舎からやってきた無芸無才の男が、努力して試合に出られるまでになったことを話したと後輩から聞いた。監督からは何も言われなかったが、私のことをそのように理解してくれていたのかと、嬉しかった。

堀江監督は人生の先生でもあった。

 

 

三番目は、胡崇人(えびす たかと))さんだ。

このオヤジも凄いんだ。日本サッカーリーグ(JSL)の日立製作所サッカー部のコーチだった。背丈は私と並んでも10センチ以上低かったので、おそらく155センチぐらいの小兵だったが、ぴりりと辛い男だった。

日立のサッカー部の監督さんは早稲田大学のOBで日本代表チームの監督も務めたこともある高橋英辰(ひでとき)=通称ロクさんだ。そのロクさんが目指したのは、走るサッカーだった。「これまでの日立は60分走るのが精いっぱいだった。90分走り続ける体力がまず必要」だと考え、その指導を徹底するには、大学の後輩の、胡崇人=通称エビスさんがコーチになるのが必須条件と考えた。

当時の日本サッカーリーグは、テクニックや個人技を重んじるヤンマー、スピードを誇る三菱重工、組織力の東洋工業(現・マツダ)や古河電工がいた。そのなかで、走るチームがなかったことに注目した。どのチームも、日本のサッカーは走り足りないとロクさんは考えた。

そこで、登場したのがエビスさんだった。

日立のサッカー部のグラウンドは吉祥寺にあって、私たちの大学のグラウンドとは近く、公式戦のない時は毎週末と言ってもいいほど、練習試合をした。日立の選手が来る1時間前に、エビスさんはグラウンドを一人で駆け巡る。グラウンドを確かめながら。前日の練習で疲労くたくたの私には、エビスさんが元気でグラウンドを走っているのがまぶしくて、言葉にならない呻(うめ)き声を上げた。 エビスさんが走っている!!ぞ。

性格が気さくな人で、我々学生の誰とでも親しく話してくれた。ちょっとインテリ風で物静かなロクさんの目の届かない部分をエビスさんが引き受けていた。日立のチームは何故かキーパーを除いて、エビスさん同様小柄な選手ばかりだった。背丈165センチの野村六彦選手を中心に、走って走って走り回るサッカーを作り上げた。その走り回って、走り回って、相手に優位に試合を進めている場面を見ると、私の目に涙が潤んでくるのだった。それほど、感動的なのだ。

当時、グラウンドは今のように芝生ではなく地面だったので、雨の日などは泥んこ状態になることもあった。そんな時こそ、日立の低い位置に備えられたエンジンは、バランスよく、俄然パワーを増すのだった。日立の底力だ。個人的なテクニックを重んじるヤンマーやスピードの三菱重工、組織力の東洋工業や古河電工を、こてんぱにやっつけた。そこには、ロクさんの発想と、現場監督のエビスさんがいたのだ。この名将の陰にこの名補佐あり。

このように元気で、溌剌とした人を今までに見たことがなかった。

エビスさんは私の理想の人だった。このような男になりたいと思った。