2018・08・05朝日新聞・総合3の「日曜に想う」の題名に、私の心も同じように想った。
私の生まれは昭和23年9月24日。来月は古希70歳だ。
この題名の記事の内容そのものではなく、ただその題名に心が躍った。
そうさ! 夏になると、私だって、私の人生に関わる何かが発生して、それがその後の私の人生に大きな弾(はず)みになってきた。
弾みになったことは、幾つもある。
先ずは中学校のバスケットクラブでのこと、私はプレーにおいて反則が余りにも多くて悩んだ。
そこで、夏休みの間に、反則を少なくプレーできるように、一人っきりの基礎練習に励んだ。
そして高校3年生の夏、父に大学に行きたいこと、その大学も東京にあること、入学すると入学金、年間の授業料、生活費がかかるが、それでもいいか? と質問したら、返ってきた答えは、ウ~ンだけだった。
それで、父はそんなに喜んで呉れていないのなら、自らその費用を稼げばいいのだと確信して、2年間の浪人で380万円の貯金をした。
2年間の半年半年は勉強とアルバイト。高校を出たばかりだというのに、日給は大人並み。
2年間の受験勉強は、極めて変則的なものだったが、ここでその変則的だったことの説明は省く。
大学に入ってやったことは、ひたすらな練習、それも一人でもやれるものには欲張った。
夏休みにはアルバイトに出かけた。
大学2年生の時、京王プラザの窓枠パーツ作りの作業に雇われた。
学生なのに、私だけは大人の分を貰っていた。
必要なお金は、自分で稼いで母に預けてあるお金以外に、いつどのくらい必要になるか解からないから、稼いでおくことだ。
冬休みや春休みは期間が短い。
でも、夏休みは1ヶ月もあって、含みのある思考が重なる。
夏休みこそが私にとって記念樹的(モニュメント)なモノ? その摩訶不思議な何かが起こる。
これからの私は、何をどうして?どういう人生を築くべきなのか、どんなことをこれからできるのか? するべきなのか?
じっくり考えさせて呉れた。
卒業した後の実社会でのことは、さほぞ心配はしていなかった。
先輩たちのことを考えると、屁でもなかった。
努力と寛容、自信に漲っていた。
そんなことを詩想しながら、この記事を、心を新(あら)ためて読み出した。
こんな処で言うのも可笑しいかもしれないが、改めて想うに、今更ながらこんな処であ~だ、こ~ざと叙述したって、自らの恥ずかしさを表すことに過ぎないかもしれない。
そして、ブログに書き写すことにした。
朝日新聞さん、ご了承ください。
日曜に想う
編集委員・曽我 豪
新しいものが生まれる夏
入道雲を見ると思い出す。
33年前の夏、僕が目撃したのは、高校野球であってそれだけではない。
一つの高校が生まれ変わる物語だった。
熊本城公園にある熊本の甲子園こと、藤崎台球場。
西南戦争で焼けた藤崎八幡宮の名残である樹齢千年のクスノキが熊本大会を見守る。
そのスタンドが入社4ヶ月目の新米記者の仕事場だった。
勝てば次があるが負ければ応援も夏はそこで終わりだ。
負けそうな方を取材するのが鉄則で、開幕日のその1回戦で県立熊本西高校を選んだのは当然だった。
創立わずか10年の新設校で、試合もエースが打ち込まれ4回が終わって1-5の劣勢。スタンドも寂しかった。
聞けば翌日が模擬試験で、数えると生徒が30人ばかり。
組織だった応援は一つとてもなく、頼りは大声だけ。
それでもなぜか打線が爆発し、11-9で大逆転した。
校歌を唱和し始めて2番の途中から歌詞があやしくなったのを覚えている。
そこから古豪強豪ひしめく熊本ではまれな新設校の快進撃が始まるのだがスタンドも同じだった。
必ず何か一つ、新しいものが生まれてゆく。
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ベンチの上でナイロンの白いポンポンを振る女子応援団長が現れる。
前日クラスの女子が総出で作り、振りも考えた。
黒の学ランに白手袋、白鉢巻きの男子応援団が登場する。
ふぞろいだった足元も次は全員が黒の革靴で決めた。
保護者会が誕生し買ってもらったと胸を張る。
ブラスバンド「愛好会」も楽器を持ち寄り他校や大学からも借りて急成長を遂げる。
先頭でトランペットを吹くのは日本史の新米男性教師だ。
音は外れ同じ曲ばかり演奏していたが次第にそれも笑い話になってゆく。
あれは準々決勝だった。課外授業と重なって今日はまたスタンドも寂しかろうと思っていたら、朝一番で校長から電話が入った。
「今から皆で行きます」。
緊急の職員会議で「生徒たちが乗っている時は乗せてやろう」となり、校内放送で「課外延期、全校応援」を発表したのだという。
約600人の応援だ。
球場の外で到着を待った。
やがて、入道雲の下、お城の長い坂道を夏の制服の白い巨大な塊が笑い声を響かせつつ上がり来る光景が飛び込んで来た。
決勝も、課外授業を済ませて生徒たちは駆けつけた。
肩と背中を痛めて一度は投げられませんと監督に告げたエースが気力を振りしぼって投げ込む「緩いカーブ」に、相手の急打者のバットは空を切る。
3-2で逃げ切った。
歓喜に沸くスタンドで校長が座り込んでいた。
「甲子園って幾らくらいかかるんですか」と言った。
それでも民営化前の国鉄が熊本鉄道管理局始まって以来という1日2便、計19両の臨時列車「熊西号」を仕立て、生徒たちは甲子園に向かった。
僕は留守番だったがそれで十分だった。
テレビをつけると、3千人のアルプススタンドが映し出された。
最初の日の100倍だ。
藤崎台で生まれて「高校が初めて一つになった」と言い合った応援団やブラスバンドが指揮をとる。
他にひけをとらぬ堂々の応援を、しかも1回勝ったから2度も甲子園で見せたのだ。
酷暑のこの夏、熊本では応援の生徒たちが熱中症で搬送され、高野連は準決勝から全校応援の自粛を要請した。
高校野球とて同じ姿ではいられないのだろう。
だが変わらぬものがある。
藤崎台球場は一昨年の震災から立ち直った。
昔と変わらずクスノキが見守る決勝で、あの頃の僕と同じスタンド担当の記者が選んだのは、敗者の古豪熊本工の女子応援団長だ。
先輩らから引き継いだ学ランを着込めるのは、熱中症対策で団長によるエールの交換時だけ。
逆転負けして相手の校歌を聞き終え、35年ぶりの甲子園出場を決めた東海大星翔にベンチの上で最後のエールを送ったという。
藤崎台が僕の原点だ。どこで何を取材していても同じ思いがある。
大人は見守ればいい。
いつだって若者には、自分たちで新しいものを生み出し歴史をつくる力が備わっている。