弊社は、昨年菅平で別荘を購入した。
去年の冬、この夏休みには、社員の家族たちがよく利用してくれた。購入する際には、私たちにとっては、ちょっと贅沢かもよと心配する社員もいた。現在、会社には、新しく入社してくれた社員が、慣れない仕事に精を出している。一刻も早く、我が社の社員のスタッフに相応しい人物になろうと、勉強しながら頑張っている。私は、そんな彼たちのための慰労と施設見学、掃除を兼ねて菅平に行こうぜ、と声をかけた。総勢、10人。キャップテンは1年半前に入社した先輩のA君とB君。
「菅平に行こうぜ」は、私にとっては、それは「合宿に行くぞ!!」という意味なのです。
菅平の麓のほうでは、レタスなぞの高原野菜の収穫中だった。この光景は、私が学生だった約40年前と同じだ。中腹から上の方ではラグビー、サッカー、テニス。そのもっと上はスキー場やゴルフ場になっている。大学生と思われる集団が、各種競技の練習に余念がない。ロードワークの集団もいる。食堂には、若い男女で賑わっていた。
この別荘は、ある電鉄系のレジャー施設運営会社が保有していたのですが、遊休施設の処分として売却を検討していた。そこに現れたのが不動産屋の友人で、うまいこと買わしてもらうことができたのです。最終決裁者である私は、社員の保養所として大いに使えそうだと判断したのは言うまでもないのだが、他人には解らない、私だけの理由もあったのです。それは、今から約40年前に、私と菅平の間に生まれた特殊な関係があったからこそなのです。
菅平は私にとっては特別の地だ。懐かしい土地だ。菅平を一瞬でも思い出すと、自然に目蓋の裏に、熱い涙が滲んでくる。嗚咽が、沸き出す。体がブルブル振るえだす。大学のサッカー部に所属していた時、部員は夏休みを自由に3週間程楽しんだ後、指定された日時に、国鉄上田駅に集合するのです。合宿のために。私にとって、今生の別れの感。あの世に近いところに行く覚悟。メンバーが確認されたところでバスに乗って菅平に向かうのです。バスは人里を離れて行く。緊張が高まってくる。両サイドには山が迫ってくる。毎年、ダムが見えてくるあたりで、合宿を終えたラグビー部が乗ったバスとすれちがう。向こうは、合宿を終えてニコニコ、こちら側は恐怖の合宿を前にコチコチ。手を振り合う。ああ、それでも、やっぱり バスは進む、菅平に近づく。そして数日後、合宿は得に言われぬ時間の経過とともに、終わりを迎えるのです。頭の中はスッキリ、でも体はガタガタ、骨は削られ、どの筋肉も極度の疲労。こんな地獄の時間を過ごした菅平は、私の青春そのものだった、ようだ。
それから私は極度に貧乏だったのです。浪人時代に貯めた資金で、できるだけ長く食い繋ぎたかったのです。母に預けてある軍資金を切り崩して送って貰っていたのですが、どうしても3年間はもたしたかったのです。だから、送って貰う額は皆の半額か3分の1程度でした。月額28、000円だった。この額では飯代だけで精一杯だった。よって、寮費、部費は当然払えません。マネージャーのしつこい集金にも隠れたり、逃げたり、ごまかしてばかりでした。昨年、40年間未納になっていた諸費用と利息少々を払わせていただいた。肩の荷がおりた。当時、友人たちは私の懐事情を察知してくれていたものだから、酒を飲みに郎党を組んで出かけても、精算の段に至って、誰も私を割り勘の一人には数えなかった。私以外の人数で処理をしていてくれたのです。感謝しています。親友の金さんは、私にどれだけ酒を飲ましてくれたことか。後輩の昌克は、肉屋の店先に並んでいた手羽先を何本食わしてくれたことか。
そこで、今回、菅平で別荘を買うぞと張り切ったのは、学生時代に迷惑をかけた諸先輩や後輩に、この施設を気兼ねなく使ってもらって、私の罪滅ぼしの一環にしたい、と思いついたからなのです。私を見守り励ましてくれた、菅平。肉体の心棒部分と精神力を鍛えてくれた、菅平。疲れた体にダボスから吹き降ろす風が気持ちよかった。腹一杯飲んだ水は美味かった。レタスをザルに山盛り喰った。朝夕の空気は肺胞の隅の隅まで、吸い込まれていく。牛乳は甘かった。合宿の打ち上げでは、感激の余り、喉が詰まって、校歌が歌えなかった。スピードはのろかったけれど、距離においては誰よりも誰よりも長く走った自負がある。
私が迷惑をかけた人、私に迷惑をかけられた人、私に貸しがある人、昔のことを思い出しに菅平にきませんか。女房、子供、お父さん、お母さん、友人を連れて是非菅平にやって来てくださいな。使用料については、私の個人の所有ではないので、ロハという訳にはいきませんが、電気代、灯油代で結構です。こんなことも考えて取得したのが、正直なところなのです。
ラグビーマガジン8月号別冊付から抜粋して転載させていただきました。菅平の豆知識にどうかな。
上田温泉電軌が縁結び
昭和の初期、上田温泉電気軌道株式会社専務取締役の柳澤健太郎が、農村の山際の傾斜した地形を利用してスキー場と近代ホテルをつくった。話題づくりも抜かりなし。「雪の王者」と呼ばれる世界的スキーヤーをヨーロッパから呼び、全国にその地名「菅平」を知らしめた。冬用に施設を作ったからとはいえ、夏にも利用できれば、と思いついた矢先に、ラグビータウン・菅平の誕生である。彼が相談を持ちかけたのは、大学の同級生。法政大学(以下、法大)ラグビー部部長(当時)の高橋一太郎だった。法大は当時、まだ創部8年目の若いクラブで、思い切り練習を積める合宿地を求めて、年毎に各地をめぐっていたところ。菅平は気候も土質もいい。グラウンドは、温泉軌道がこしらえるからと。このときできた菅平最初のグラウンドは、現在の菅平ホテル第一グラウンドにあたる。こうして、菅平ラグビー合宿、第一のチームはやってきた。昭和6年(1931年)のことだ。翌年には早稲田大学(以下、早大)から連絡が入る。2校目のお客様のために、もう一つグラウンドを作った。早大は1963年に自前の宿舎とグラウンドを設置した。1942年に集団旅行が禁止されるまで、法大、早大は菅平を格好の山ごもりの場として利用した。
戦後の夏合宿復活
戦後は、菅平側が合宿中の米を用意すると申し出て、まず早稲田が戻ってきた(1951年)。2年後には法大の合宿も復活する。日本中が貧困から這い上がろうとしていた時代に始まり、’70年代のちのチーム激増を経て、ラグビーは菅平の発展に大きな役割を果たしてきた。ここにもう一人の仕掛け人がいる。一連の合宿復活をリードしたのは、東京育ちの青年。戦前’41年に「食料増産」のため勤労動員でこの地を訪れた渡辺才智(故人)は、拓殖大学を卒業、復員後、菅平に移住していた。まさに才智の人だった。東京、関西の各大学にかけあい、次々と合宿を誘致した。農業以外の、もう一つの柱として観光を確立させるべく生涯奔走した。法早の合宿という戦前の実績をヒントに、菅平をメッカにまで発展させたリーダーの一人。チーム数が増えると、本格的なスポーツ環境が求められるようになり、グラウンド確保とともに叫ばれていたのが医療問題だった。冬スキー然り、ケガ人が安心してかかれる診療所がどうしても要る。この難関は、才智の妻・正子の従兄に東大病院の医師がいたことから解決した。東大の医局員が交代で派遣され、季節診療所を回した。以降、’59年から40年間にわたって東大病院との関係が続き、現在は民間の診療所が常設されている。 やや時代は前後する。’67年には大西鉄之祐率いる全日本チームが初めてやってきた。