2011年1月17日月曜日

大宅壮一の原点を知る

得意の「105円何とかオフ」で見つけた本の中で、小沢昭一さん流の表現を借りれば、大宅壮一の「大宅壮一的心」を知った。大宅壮一は日本を代表するジャーナリストで、毒舌の社会評論家だった。彼の実績は偉大だ。

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猪瀬直樹さんの本を読むのは初めてだ。猪瀬さんは現東京都副知事。105円コーナーで表装の黄色が目立って、奇麗で、絵柄が面白かったので、優先順位の高い購入希望の候補リストに入れた。そして、当然買った。

本の題名が「マガジン青春譜」、ちらちらとページをめくってみると、日本の雑誌や小説、評論などの出版の歴史と、それにかかわった出版会社の社長さんや編集者、物書きと言われた人たちの青春群像を著したものだなと、直感した。そして表紙の絵柄の丸顔の太った紳士は、芥川龍之介を意識して著した「無名作家の日記」の菊池寛だ、と直感した。ズバリ、当たった。小学校のとき、講堂で観た映画「末は博士か大臣か」の菊池寛役をフランキー堺が演じていた、その時の残像が、フランキー堺=菊地寛になってしまったのだろう。

この本に登場するメインの作家は、茨木中学校の同窓生で、3歳年上の川端康成と大宅壮一だった。他にも、興味ある作家が登場するのですが、この二人を中心に進められている。

川端康成は、資産家の息子だった。身近な肉親はことごとく亡くなり、財産管理人の遠い親戚の方に、生活費が無くなれば送ってくれと言えば何とかなる、裕福な学生だった。成長とともに、女性に関心を高めていくのですが、そのことを当然女性に対しては表現できない、男の体に触ることぐらいで、鬱々として一高から東京帝大に進む。カフェの女性と恋に落ちるのですが、どちらかと言えば、片思いのような恋愛をした。同人誌を出すことや恋人とのために、実家に資金を工面してもらい、それらをことごとく散財した。この時期に、何回か訪れた伊豆での出来事が、その後、「伊豆の踊り子」として世に出ることになるようだ。

方(かた)や大宅壮一は、茨木中学では隔日登校主義を貫いていた。嫌な学科や勉強しなくても理解できる学科の授業には出席しなかった。長男が放蕩の末、軍隊に取られ、次男である大宅は家業の醤油醸造の仕事だけではなく、田畑を耕し、幼い弟を背負い、麦刈りにも精をだした。できあがった醤油を一日5里も7里も、大阪の町を肩曳き車に醤油樽を積んで歩いた。

中学時代は、仕事と勉強の合間に投稿に情熱を注いでいた。かって、この時代の雑誌はと言えば投稿してきた原稿を大いに掲載していたようだ。「少年世界」「少年」「日本少年」「少年倶楽部」「中学世界」などへの投稿で、大宅少年は時事新報社の「少年名誉大賞牌」をもらった。今で言えば、年間投稿最優秀(MVP)賞、というところだろう。茨木中学を放校処分。専門学校入学者資格検定試験に合格、第三高等学校に入学。

内村鑑三に興味をもち、東京帝大に入学して、「死線を越えて」の賀川豊彦の社会活動に関心を寄せる。そして、この頃から社会に対峙した物書きを目指そうとする気概が感じられる。東京帝大時代には結婚していた。大学で学びながら、岩倉鉄道学校で夜学の英語教師をして糊口をしのいだ。やがて、東京帝大も中退する。

 

少し話は、端折(はしょ)らさせてもらう。

これからが、この稿で、みんな~聞いて、聞~い~て、と私が叫びたいところなのです。文章の構成力において稚拙な私には、こんな文章を挿入して他人の注意を喚起させる方法しか見いだせないのです。この本の「第七章 親切の棄て所」だ。後日、大宅はこの部分を小説に書き上げているそうだ。この部分が、私がこの本に興味をもった全てです。

1日目。東京帝大2年生だった大宅は、帰省先から東京に戻ろうと京都駅に朝10時30分に着いた急行列車に乗ったのでした。この列車は、岐阜、名古屋に向かうのですが、どうも走行する様子が変だった。それは、首都圏で大きな地震が発生した影響だった。関東大震災のことだ。本には時間の経過が示されていないので、私なりに想像してみる。大学時代東京から大垣までの銀河2号を利用した経験から、京都から沼津まではきっと5時間はかかっていると思われるが、この日はのろのろ運転なので、7時間ほどかかったとしたら沼津には夕方の5時ごろと思われる。

沼津でストップしてしまった。静岡に戻って、中央線を目指したが不通だった。遠い東の空にぼんやり見える赤い色は夕焼けではない、大火事なのだった。未曾有の大震大火のため、目下横浜全市は宛然(えんぜん)火の海の如し、東京市も同様の見込み、だと知らされる。

8ヶ月の娘と妻が待って居る東京になにがなんでも戻らなくてはならない。

手荷物を運送屋に預けて、5、60人ほどで箱根峠を越えることにした。先ずは三島まで歩く。役場前には、帝都は八十八箇所より出火してほとんど全滅せりの掲示板。

東海道を三度も行脚したという老僧が先頭に立った。箱根の中腹に至るまでにメンバーは半分に減った。見晴らしのいい場所に出たところで、箱根湯本、湯河原、熱海から避難してきた人たちがめいめいに情報を交換した。それでも、前進を決意したのは、9名のみになった。

芦ノ湖を見て、転げるように麓(ふもと)の村について、小学校の講堂で寝かせてもらう。

2日目。朝が明けぬうちに村を発った。小田原を過ぎると、避難民が押し寄せるようにやって来る。大宅たちはみなが逃げてくる方角へ逆に進んだ。震災の惨状は擦れ違う人たちの口々の訴えや嘆きに、鮮明になった。国府津、二宮、大磯と線路に沿って歩いた。相模川の橋が落ちていた。渡し舟で渡った。

横浜では朝鮮人が暴動を起こして、押し寄せてくると警告された。戸塚で老僧の知り合いの寺に宿泊を願ったが、許しを得られなかった。保土ヶ谷で老僧と別れ、闇のなかを川崎から多摩川にたどり着いたときは、朝になった。

3日目。老僧が別れる際にくれた握り飯1っ個しか口にしていない。道に面した床屋で、握り飯と、熱いお茶だと出されたのはお酒だった。ごくりとコップ一杯ご馳走になった。屈託のない親切に感謝する。

三日三晩の苦難の旅を終え、下落合の長屋に着いたのは夕刻だった。

この箱根越えには、一緒に歩いた人々との交流や、知らない女の荷物を持ってやったことで、その荷物のことをあれこれ考える様子が面白く物語り風に書かれていて、その文章はとっても楽しいのだが、それはそれ、後日語ることにして、今は、この大宅の心身の頑健さ、苦難な状況におかれながらも、冷静に客観的に、愛情をもって外の世界を見通す眼力は、もう既にこの時期にきちんと確立されていたのだ、そのことに私は痛く感動したって、ーーーーーわけさ。

前の方で書いた文章をもう一度ここで引用する。長男が放蕩の末、軍隊に取られ、次男である大宅は家業の醤油醸造の仕事だけではなく、田畑を耕し、幼い弟を背負い、麦刈りにも精をだした。できあがった醤油を一日5里も7里も、大阪の町を肩曳き車に醤油樽を積んで歩いた。1里は約4キロですから、20~30キロを歩いていたことになる。そして、隔日登校主義を貫いていた茨木中学校は放校処分、東京帝大は中退。

こんな大宅だからこそ、この沼津から箱根を越えて、自宅のある東京・下落合まで歩き通せたのだろう、私はおっ魂消(たま)げたのです。そして、後には辛口社会評論家として、偉大な仕事を残した。

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