2019年8月20日火曜日

夭折の新聞記者 北村兼子

20190804の朝日新聞から下の記事をそのまま転載させてもらった。

日曜を想う
編集委員福島申二
題名は夭折の女性記者 色あせない勇気

NHKの大河ドラマ「いだてん」は視聴率こそいまひとつだが面白い。
先月の放送では伝説の名選手、人見絹江が、アムステルダム五輪の陸上800メートルで銀メダルをとっていた。

女性ゆえに偏見や好奇の目にさらされながら、それをはね返すように新しい道を拓いたアスリートだ。
しかし栄誉から3年後の1931(昭和6)年夏、24歳で病のために早世してしまう。

ドラマに重なるように胸に浮かんだのは、同時代を生きた一人の女性ジャーナリストだった。
性差別という理不尽に立ち向かい、洞察に満ちた14冊の本を残して、人見と同じ夏に27歳で夭折(ようせつ)した。

その人は北村兼子という。

関西大学に学び、高等文官試験を受けようとしたが女性には許可されず、大阪朝日新聞の記者になった。
たちまち頭角を現してめざましい筆を振るった。

たとえば、「(女学校で)教わったことは大きな嘘である。先生は『女は奴隷に甘んぜよ』という耳ざわりの悪い言葉を修身に用いないで、『女は女らしく』といったような、円滑で狡猾な陰険的感化をもって、限定せられた不自由な範疇の内に女性を追い込んでしまう」

あるいは、「婦人が向上したら(参政の)権利を与えようというが、権利をくれないで束縛せられては向上のしようがない。
束縛を解いてくれれば女の手足が伸びる。
夜が明けたから太陽が昇るのではない。
太陽が昇るから夜が明けるのである。
思いの丈(たけ)をつづる筆は冴(さ)え、羨望の念を抱かせるほど歯切れがいい。

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男女共学を唱え、女卑に抗(あらが)い、優れた記事を連発する一方、歓楽街への潜入ルポを試みるなどした。
しかし記者として名声が上がるにつれ、幾つもの通俗紙ゴシップ誌がモダンガール風の彼女を餌食にし始める。
「淫婦」などといった性的な中傷を執拗に書き立てた。

彼女は反論する。
「卑しい男子が数でかかって夜襲する―――婦人が社会に立って何らかの働きをすれば、すぐ中傷の糸がからむ、無限のことでも繰り返しているうちに事実化してしまうから恐ろしいーーーー」。
このあたりの状況は、約90年を経た今も驚くほどに変わらない。

結局、反論に疲れはてて2年半で退社した。
しかし、挫折によって行動と思考のスケールはいっそう大きくなる。

女性参政権の活動などで欧米や中国などを訪ね、旺盛に執筆して次々に出版した。
「フリーになってからの彼女はまぶしいほどでした」と、評伝「北村兼子―炎のジャーナリスト」を20年前に敢行した関西大教授の大谷(おおや)渡さんは言う。



さらには航空機の時代を予見して操縦を習得した。
欧州へ飛び立とうとする矢先に病で急逝したのだった。
「大空に飛ぶ」が遺著のタイトルになった。

大谷さんは北村を「当時の日本女性では最高のリベラリスト」とみる。

「マンに対するウーマンという区画を立てるそのことが既に婦人にとっては一種侮辱と考える」といった彼女の言葉を挙げ、「現代の最先端でも色あせない視点と思想がある。今はほとんど忘れられた存在なのが残念です」と惜しむ。

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百年、二百年後の人たちが、私たちがもつ世界観に、信じられぬと首をふることは考えられるでしょうか?
これはドイツの文学者エンデの問いかけだ。

思えば人間の来し方は、小さなことから大きなことまで、今日は当たり前と思われていることが、明日になれば間違っていたという錯誤と変容の繰り返しだった。
「いだてん」が描くオリンピックもそうだ。
クーベルタンは女性のスポーツに不寛容だった。
だから第1回に女子の姿はない。
彼だけが石頭だったのではなく、そのような価値観の時代だった。

世界は変わる。
しかし黙っていて変わるわけではない。
「正しさ」はたいてい少数者、弱者の勇気あるチャレンジから始まる。
そしていつの時代も、道を拓こうとする人の歩む道は険しい。

女性、障害者、性的少数者ーーー今も様々なチャレンジが進行中だ。
変わっていくことこそが人間の営みであろう。
勇気への敬意、それを忘れまいと思う。