2017年11月19日日曜日
「青春の逆説」 織田作之助
織田作之助
無頼派とかデカダン、新戯作派とか言われていた仲間たちの著作を、ある時期に興味をもって多読していた。今回の本の著者は織田作之助だ。親しみを込めてオダサクと言われていた。
その後、無頼派、私はいろんな作家のいろんな小説や小論を読んで愉しい思いをした。当然、誰もが面白いだろうと思う数々の本だ。
この無頼派では、太宰治の「人間失格]、「斜陽」ではなく、「お伽草子」、「富極百景」。
太宰治の墓前で自殺した田中英光の「オリンポスの果実」、坂口安吾の「桜の森の満開の下]、「堕落論」。
当然各氏には有名な作品はいくつもあるのだけれど、その中でもこれらの本が無性に面白かった。
織田作之助編では、特に「青春の逆説]「夫婦善哉」が面白かった。
在学時代、卒業して幾年か過ぎたころだ。
この本は、1941年、昭和16年、1月に東条英機陸軍相が、「生きて虜囚の辱めを受けず」を含む「戦陣訓」を全軍に通達した。世界中が戦火に溢れるのを待つが如し、それぞれの国が戦争のための準備にたけなわだった。そんな時流のさなか、発売された。
でも、内容が戦火溢れる時期にどうしても相応しくないと判断され、廃刊になった。
ところが、今回の「青春の逆説」の再読で、当時、そんなに面白かったかなあ、と思い返してみても、それが解らない。確かに、行間の意味に心振られたことはあった。
私も、生まれは京都の外れ。
本の中の会話などに使われる言葉の種類や使い方に、同じ地方の出としての共感があった。関西弁や関西訛り。
だが、「青春の逆説」を今、再読していて、何故、あの時にそれほど興味をもっていたのか、今は不思議に思うことがある。私自身の頭の中が狂い駆けているのか。
物語の進捗が早々に進む、その廻り舞台のように変幻自在な筋道が面白かったのか。
ところで、この「逆説」とはどういうことかと、デジタル大辞典で調べてみた。
①一見、真理にそむいているようにみえて、実は一面の真理を言い表している表現。「急がば回れ」など。②ある命題から正しい推論によって導き出されている結論で、矛盾をはらむ命題。③事実に反する結論であるにもかかわらず、それを導く論理的過程のうちに、その結論に反対する論理を容易に示しがたい論法。ーーということらしい。
ちょっと恥かしさを投げ捨てて言わしてもらえれば、この「逆説」って、50年程前に関西地区で人気のあったテレビ番組「スチャラカ社員」の青春物語のようなものだろうか?
TBS系列の朝日放送制作のコメデイ番組だった。
個人的な思い違いかもしれないので、気楽に読み過ごしてください。
大学に入って、本を読む喜びを覚えたのだが、、、、、、、このオダサクの何処がどんなに面白かったのか、、、、だが、愉快だったことは間違いない。振り返っているが、なかなか文章としてその情感を著せない。
この「青春の逆説」を読んで、やはり後々のために粗筋を書き残すことにした。作成に原本の文章を利用させてもらう。
山岡は馬鹿なことを言うと、笑われるかも知れないが、この本の書名である「青春の逆説」の逆説とはなんどや?を知るために、粗筋を綿々と書いてみた。本文を出来るだけ沢山引用した。
★まだまだ、完成には時間がかかりそうだが、兎に角書いたところは公開します。
じわじわ、完成させますので、気長に付き合ってくださいな!!
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お君と軽部。
お君が軽部と結婚したのは19の時だった。
軽部は小学校の教師、出世がこの男の固着観念で、若い身空で浄瑠璃を習っていた。
校長の驥尾(きび)に附して、日本橋筋5丁目の浄瑠璃本写本師、毛利金助に稽古本を注文したりしていた。
お君は毛利金助のひとり娘だった。金助の妻は糖尿病で、お君が16の時に死んだ。
お君は大人並みに家の切り回しをした。
炊事、針仕事、借金取りの断りなぞ。父の作った写本を得意先に届ける役目もした。
お君が上本町9丁目の軽部に写本を届けに行った。やがて、軽部は小宮町に小さな家を借りてお君を迎えたが、この若い嫁に「大体に於いて満足している」と、同僚たちに言いふらした。お君は働き者で、夜が明けるとぱたぱたと働いていた。
軽部の留守中、日本橋の家に田中新太郎が訪れた。田中は朝鮮の聯隊に入営していたが、除隊になって昨日帰ってきたところだという。
お君はこの田中に唇を三回盗まれたことがある。田中は体のことが無かったことに大変悔しがっている。
そのことをお君は軽部に話した。
軽部は憂鬱な散歩に出かけた。
翌年の三月、男の子を産んだ。生まれた子は豹一と名付けた。
日本が勝ち、ロシアが負けたという意味の唄が未だ大阪を風靡していたときのことだ。
同じ年の暮、玉突屋日本橋クラブの2階広間で広沢八助連中素人浄瑠璃大会が開かれた。軽部村彦こと軽部八寿はそのときはじめて上座に上った。
軽部は熱演賞として湯呑一個貰った。
軽部は、はじめてのことだから露払いを済ませ、あと汗びしょりのまま会の接待役としてこまめに立ち働いたのが悪かったのか、風をひき寝込んだ。急性肺炎になりぽくりと軽部はなくなった。
お君の身の振り方に就いて、お君の籍は金助のところに戻し、豹一も金助の養子にしてもろたらどんなもんじゃけんと、お君に口をきけなかった。
実家に戻ることになり、豹一を連れて日本橋の裏長屋へ帰ってみると、家の中は呆れる程汚かった。お君は一張羅の小浜縮緬の羽織も脱がず、ぱたぱたとそこら中のはたきはじめた。
5年経ち、お君が24、子供が6つの年の暮、毛利金助は不慮の災難であっけなく死んでしまった。
耄碌していた金助が、お君に50銭貰い、孫の成長と共にすっかり老い込み、孫の手を引っ張って千日前の楽天地へ都築文男一派の連鎖激を見に行った帰り、日本橋一丁目の交叉点で恵美須町行きの電車に引かれたのだった。
毛利のチンピラと言われていた豹一は、救助網に跳ね飛ばされて助かった。
その夜、近所の質屋の主人がやって来て,おくやみを述べた後、金助にお金を融通したことを話した。預かっていたのはこれです、と見せたのが、系図一巻と太刀一振りだった。金助の家柄は立派だった。そんなことはお君は何も聞かされていなかった。
お君は上塩町地蔵路地の裏長屋に家賃5円を見つけて、そこに移った。
「おはり教えます」の看板を吊るした。
裁縫は絹物、久留米物など上手とはいえなかったけれど仕立物を引き受けた。月謝50銭の界隈の娘たち相手に針仕事を教えた。
毎年8月の末に地蔵盆(さん)の年中行事が行われ、お君は無理して西瓜20個寄進し、薦められて踊りの仲間にはいった。お君が踊りに入ったため、夜2時までとの警察のお達しが明け方まで忘れられた。
長屋の女に、お君の首筋に生ぶ毛が生えていることを言われ、散髪屋に立寄った。剃刀が冷やりと顏に触れた途端どきっと戦慄を感じた。
皮膚の上を走っていく快い感触に、思わず体が堅くなった。軽部を思い出した。
散髪屋の村田が、お君に気を持って、セルの反物を持ち込んで、縫うてくれと頼みにやってきた。豹一は寝そべっていたが、いきなり、つと起き上がると、きちんと両手を膝の上に並べて、村田の顔を見詰め、何か年齢を越えて挑みかかって来る眼つきだと、村田は怖れ見た。
豹一は早生まれだから、七つで尋常1年生になった。
学校での休憩時間には好んで女の子と遊んだ。
そして、男の子を1人2人、1週間に5人も殴った。
豹一は教師の顔を見なかった。それは、身なりのみすぼらしさを恥じていたのである。1つには可愛がられるということが身につかぬ感じで、皮膚はもう自分から世間の風に寒く当たっていた。
8つの時、仕立ておろしの久留米の綿入を着せられた。見知らぬ人が前の車に、母はその次に、豹一はいちばん後の車。
尋常2年の眼で「野瀬」2字を判読しょうとしたが、頭の血が引いて行くような胸苦しさで、困難だった。その夜、1人で寝た。
母は階下で見知らぬ人といた。ことし48歳の野瀬安二郎だった。
野瀬安二郎は谷町9丁目いちばんの金持ちと言われ、欲張りとも言われた。高利貸をして、女房を3度かえ、お君は4番目の女房だった。
安二郎が、ある日、豹一に淫らな表情で、お君と安二郎のことに就て、きくにたえぬ話を言って聞かせた。豹一は眼がぎらぎら光って、涙をためていた。
誇張して言えば、その時豹一の自尊心は傷ついた。
人一倍傷つき易かった。辱められたと思い、性的なものへの嫌悪もこのとき種を植えつけられた。持前の敵愾心は自尊心の傷から膿んだ。
だんだん憂鬱な少年となり、やがて小学校を卒業した。
お君は安二郎に中学校に行かせて欲しいとたのむが、なかなか承諾しなかった。頑張るお君に安二郎は狼狽して、渋々承知した。しかし、安二郎は懐を傷めなかった。
お君はどこからか仕立物を引き受けてきて、その駄賃で豹一の学資を賄った。
が、実は入学の時の纏った金は安二郎に借り、むろん安二郎はお君から利子をとる肚でいた。
仕立物に追われ、お君の眼のふちはだんだん黝んで来た。
中学生の豹一は自分には許嫁があるのだと言い触らした。
そのためかえって馬鹿にされていると気が付くまで、相当時間がかかった。
彼は絶えず誰かに嘲笑されるだろうという恐怖を疥癬(ひぜん)のように皮膚に繁殖させていた。
入学試験の日、試験中に尿意を催した。
下腹部を押さえたままじっとこらえていた。そわそわして問題の意味もろくに頭にはいらなかった。試験官に言うに言われず、坐尿してしまった。
入学試験には受からないと思い込んでいたが、合格した。
同級生間で、誰がどんな家に住んでいるか見届けようと、放課後探偵気取りで尾行することが流行した。
豹一の家の構えはともかく、高利貸の商売をしているのを知られるのが嫌だった。
豹一は顔色が変わる位勉強した。自分の学資をこしらえるために夜おそくまで針仕事をしている母親のことを考えれば、いくら勉強しても足りない気持ちだった。
何かの間違いだろうという心配があった。いつか、首席が渾名になってしまった。
1学期の試験前日、豹一は新世界の第一朝日劇場へ出かけた。
マキノ輝子の映画を見、試験場へのプログラムの紙を持って来て見せた。此の級は今まで学校中の模範クラスだったが、たった1人クラスを乱す奴がいるので、1ぺんに評判が下がってしまった。
やっと休憩時間になると、豹一はキャラメルをやけにしゃぶっていた。
普通、級長のせぬことである。3日経った放課後、沼井を中心に20人ばかりの者にとりかこまれて、鉄拳制裁をされた。2学期の試験。
豹一は書きかけの答案を周章てて消した。白紙の状態だ。
はじめてほのぼのとした自尊心の満足があった。
でもこの満足をもっと完全になるために、もう3月かかった。白紙の答案を補うに充分なほどの成績をとって進級するところを見せる必要があった。
水原紀代子に関する2,3の知識を得た。
大軌電車沿線S女学校生徒だ。授業をサボって周章てて上本町6丁目の大軌構内へ駆けつけた。澄み切った両の眼は冷たく輝いて、近眼であるのにわざと眼鏡を掛けないだけの美しさはあった。
うまく会えたのだが、紀代子は嗤って振り向きもしなかったが、彼の美貌だけは一寸心に止まっていた。
そして、何日間は上手くいかないままだった。
ところが、その後何日間した頃、何故なのか、豹一に紀代子は「好きです」と小さな声で答えた。紀代子ははじめて、豹一を好きになる気持ちを自分に許した。
だが、十日も豹一を見ないと、彼女はもはや明らかに豹一を好いている気持ちを否定しかねた。紀代子は豹一を嫌いになるために、随分努力を図った。
毎日、許嫁の写真を見た。許嫁は大学の制帽を被り、頼もしく、美丈夫だと言っても良い程の容貌をしていた。
「今夜6時に天王寺公園で会えへん?」紀代子のほうから言い出した。
その頃、夕闇せまれば悩みは果てしないという唄が流行していた。
藤棚の下を通る時、植物の匂いがした。紀代子は胸をふくらました。
時々肩が擦れた。豹一にはそれが飛び上がるような痛い感触だった。
文学趣味のある紀代子は、歯の浮くような言葉ばかり使った。
豹一が意味を了解しかねるような言葉や、季節外れの花の名も紀代子の口から飛び出した。そんな交際が3月続いた。が、二人の仲は無邪気なものだった。
もし仮りに恋愛とでもいうべきものに似たものがあるとすれば、紀代子が豹一に綿々たる思いを書き連ねた手紙を手渡したぐらいなものだった。
でも、3か月、「手一つ握り合わなかった清い仲」だった。
紀代子は卒業して結婚の日が迫ってきていた。
谷町9丁目から生玉表門筋へかけて、三・九の日「榎の夜店」の出る一帯の町と生玉表門筋から上汐町6丁目へかけて、一・六の日「駒ヶ池の夜店」が出る一帯の町には路地裏の数がざっと7,80あった。
野瀬安二郎が大工をやとったので、人々はあの吝嗇漢(しぶちん)がようもそんな気になったなと、すっかり驚かされた。
運よく隣の家が空いた。
造作工事は、暖簾には「金融野瀬商会」。別の看板には「恩給・年金立て替え 貯金通帳買います 質札買います」とあった。
豹一は、この店の応待をやらせられた。質屋へ行く仕事も命じられた。
嫌だったけれど、野瀬に食って掛かるのを思い止まった。
ある日、豹一は突然校長室へ呼びつけられた。
そこで、高等学校へ行く気はないかと聞かれた。
校長は候補者として、豹一と同じクラスの沼井と、4年F組の播磨だと言った。
沼井と聴いたからにはもう豹一は平気ではいられない。
元来が敏感に気持ちの変り易い彼は、高等学校へ行ってみようかという気になった。
ある篤志家がいて、大阪府下の貧しい家の子弟に学資を出してやりたい。
それには条件があって、品行方正の秀才で4年から高等学校の試験に合格した者。
それも一高と二高と三高に限る。合格した者は東京、京都のそれぞれの塾へ合宿させる。自高では4年から一高か三高へ入れるのは君ぐらいだからな。
翌年4月に三高の文科に入学した。
秀英塾を出ると神楽坂だが、豹一は神楽坂を避けて吉田山の山道へ折れた。
神楽坂の上にあるカフェの女が変な眼つきで彼を見たからである。
塾と言っても、教師はおらず、ただ3年生の中田が塾長の格で熟成を監督し、時々行状を大阪の出資者に報告するだけだった。
塾生は塾以外の飲食は禁止、学校のホールでも珈琲も飲めない。昼食は弁当。
十人分の飯を入れた御櫃と、菜を入れた鍋を登校の際交替(こうたい)で持って行く。夕食後の散歩は1時間、午後7時以降の外出は特別の事情がない限り許されない。
繁華街からの帰り、吉田神社の長い石段を降りて、校門の前まで来た。
門衛の方を覗くと、そこに自分の名前を書いた紙片が貼り出されていた。母からの手紙だ。五円紙幣が2枚、お君は内職のもうけたお金を豹一に送ってきた。
いきなり後ろから肩を叩かれた。同じクラスの赤井柳左衛門だった。
「町へ行こうか、戻ろじゃ吉田、ここは四条のアスファルトだな」。
二人は京都へ出かけることにした。赤井は「僕は寄宿舎の連中が嫌いなんだ」。
「彼らは郷に入れば郷に従えと言いやがるんだ。それは僕も知っている。
しかし、彼らが郷に従うのは彼らの無気力のためだ。彼の保身のためだ。けちくさい虚栄心のためだ。豚でも反吐を吐く代物だ」
豹一は父親に愛されている赤井と、憎まれている自分とどっちが幸福かと、大人じみた思案をした。二人は寺町2条の鑰屋(かぎや)という菓子舗の2階にある喫茶室へ上って行った。
三高生たちの記念祭の歌と乱舞に騒がしかった。このお店のお駒ちゃんがげらげらと笑いながら、すっと奥へ引っ込み、また顔をだす。
今度はコマドリへ行こうと、三条通りから京極へ折れようとしたら、赤井が「此処を通ろう」とわざわざ三条通りの入り口からさくら井屋のなかへはいり、「これが僕の楽しみだ。ちっぽけな青春だよ」「さくら井屋には旅情が漲っている。
あそこには故郷の匂いがある。
そして赤井は「うわ!」とわけのわからぬ叫び声をあげた。フラダンスの踊り子のように両手を妖しく動かせて、地団太を踏みながら長い舌をぺろぺろ出し入れした。
「どうも僕は3日に1度あんな発作が起こって困るんだ」
「僕の行為は軽蔑に値するか知らないが、しかし、肉体の開放は極く自然なんだ。
不自然な行為のかげにこそこそ隠れているより、大胆に自然の懐へ飛び込んで行く方が良いんだ。汚れてもその方が青春だ」
芸もなく赤井と一緒に興奮して、青春だ、青春だと騒ぐのが恥ずかしいのだ。つまり彼は自分の若い心に慎重になっていた。
彼は赤井の若さに苛立っていた。赤井は豹一が少しも自分に共鳴しないのを見て、酔わす必要があると思った。二人はそれから大いに飲んだ。
豹一は今まで飲めなかったけれど、続けだまに飲んだ。反吐を吐いた。
豹一は円山公園から知恩院の前へ抜けて、平安神社の方へ暗い坂道を降りて行った。
岡崎の公園堂の横から聖護院へ出て、神楽坂を登って秀英塾へ帰った。
塾長の中田は豹一が掟を破ったことを認めていた。
豹一は前後不覚になってぐっすり眠っていた。
5月1日、記念祭の当日になった。各自、各クラスで仮装行列や模擬店がはじまった。入り口には破れ帽やボロ布や雑巾が垂れ下がったいた。
その一つに浜口雄幸氏三高時代愛用の褌などまであった。南寮五番の部屋まで来ると、そこには「西田哲学」という題で、はいると「絶対無」と書いた部屋があった。
そこに赤井がいた。赤井は裸の体にボール紙の鎧をつけ、兜を被って、いかにも虎退治らしい装(いで)立だった。
豹一のクラス・文科1年甲組の仮装行列がはじまる前で、教室には誰もいなかった。彼はクラスの者が仮装用の費用に出す1円ずつの金を集めれば50円になる。
その金でパンを買って皆でグラウンドへ担いで行き、グラウンドを1周してから代表者がそのパンを養老院へ持って行って寄付する。
これは全員に反対された。
仮装は「酋長の娘」という無意味な裸ダンスに決まった。豹一は参加しなかった。
野崎は、大阪訛の抜け切らぬ口調で,参加しなかった。
忘れ物が多い学生で、でも豹一に対しては底抜けのお人善しだった。
そのうち豹一はお駒と散歩することになった。豹一は余りにも恋愛を知らな過ぎた。
どんな愚劣な人間でも大した情熱もなしに苦もなくやり遂げて見せることが、彼にはできなかったのだ。
ある日、植物園を散歩していると、北園町から自転車で通学している桑部という同じクラスの者に見つけられた。桑部は自転車の上から、ちらっとお駒と豹一を見並べて、にやりと薄笑いを浮かべて通り過ぎてしまった。
でも、鑰屋へ豹一の姿が現れない。お駒との恋愛は2ヶ月で終わったのだろう。
赤井は此の半年間、1人の女に通い続けていた。寮費を滞納し寄宿舎を追い出され、鹿ケ谷の下宿へ移った。
家から送られてきたお金はその女に注がれていた。野崎が自分の自分の授業料を滞納してまで、赤井の費用を立て替えていた。
野崎は赤井や豹一と一緒に四条通りへ出ると、もう宮川町へ行かなければならぬと思い込んでいるらしかった。
宮川町が見える「八尾政」へビールを飲みに入ったりすると、もうやることは決まっていた。資金が必要だった。
京都にある2軒の親戚から借りることもできなくなっていた。野崎はそのお金をなんとかしてくれた。
お金のない豹一と野崎は喫茶室で、八重ちゃんと呼ぶ綺麗な女の子を眺めていた。それから、あっちこっち歩き回った。
野崎さん、今日は何入質(いれ)はるんどす?と言われて考えてみたが、なかった。結局咄嗟に脱いだ毛糸のシャツと、帽子と万年筆と銀のメタルで2円50銭貸してくれた。
4条河原町の長崎屋でカステラを食った。紅茶を飲んだ。
午後2時半になって京極で活動を見た。
午後5時。赤井は首長くして待っているだろう。
喫茶店に2回、うどん屋へ2回入りそこら辺当てもなく彷徨い歩いているうちに夜が更けてきた。
赤井が待っているだろう。
豹一は短距離選手のゴール前の醜悪な表情を自分の生き方と比較してみた。
そして首席になる決心を断念した。今のままでは進級も危ない状況だった。
校門をはいって直ぐ右手に古い建物のなかで、及落決定の教授会が開かれた。
豹一、赤井、野崎の3人は欠席日数が既定を超過していると聴いて、3人とも落第した。3人は朝から助けてもらおうと、教授宅を訪ねていた。
豹一と赤井、野崎らはまず「リプトン」へ行き、「ヴィイクター」へ、そして長崎屋の2階へ上がった。豹一は三高を辞める覚悟をしていた。
その夜のうちに荷物を纏めて朝運送屋へ頼み、赤井と野崎と落ち合った。
豹一は二人に見送られ四条大橋から京阪電車に乗って、大阪へ帰った。
学校を止めた豹一は、毎朝新聞がはいると、飛びついて就職案内欄を見た。
まずは製薬会社が広告文案係を求めているのを見て、履歴書を送った。面会の日、7,8人の試験官の眼がいっせいにじろいと来た。
1週間後、不採用の通知が来た。
ある日、「調査係募集。学歴年齢を問わず。活動的人物を求む。某財閥直営会社。本日午前10時中央公会堂2階別室にて面会す」という広告を見て、中央公会堂へ出かけた。若すぎるとのことで不採用。
翌日、勝山通りの「日本畳新聞社」へ出かけた。戸をあけると、三和土度(たたきど)の右側に四畳半位の板の間がり、机と椅子が二つ窓側に並び、そのうしろに帳簿棚が、その前にも机と椅子があった。勤務時間は午前9時から午後5時まで。月給は42円、賞与は年末に1回、月給の10割乃至(ないし)12割。仕事は帯封書き、帳簿の整理その他雑事があった。1週間後、営業主任の園井が来た。園井の仕事振りは一分の隙もなかった。真剣そのものだった。社長は2階で裸でせっせっと記事を書いていた。
社長と園井が印刷所へ出張校正に行った留守中、妻から豹一は呼び出された。一昨年に彼女は社長の奥さんが死んだ後釜に入った。「わてのこのお腹のなかにたまっている、いやや、いやや思う気持ちを一ぺん正直にかいてほしいんどっせ」、そして、彼女はこまごまとと、身の上話をはじめた。
その後、ややこしい雑事に身を焦がしていたが、流石にこの会社で仕事をやりこなせる自信がなくなった。その雑事のなかで、「僕は今日限り廃めさせていただきます」わりに丁寧な声が出たので、われながら気持ち良かった。この会社を辞めることにした。
千日前法善寺境内にはいると、いきなり地面がずり落ちたような薄暗さであった。献納提灯や燈明の明かりが寝ぼけたように揺れていた。何か暗澹とした気持ちになった。前方には光が眩しく流れている戎橋だった。
その光の中で飾窓を覗いていた女が、ふと振り向いて豹一の顔を見た。その女性が、紀代子だった。2,3間行くと、紀代子はいきなり振り向いて、ペロリと赤い舌を出した。
紀代子は傍に立っている亭主のニキビだらけの顔を醜く思った。豹一は未だ少女のような顔をしていたのだ。
彼女は丁度ハンドバッグをねだって、「世帯が荒い。もったいない」と亭主にはねつけられていたところだった。
半時間ほど戎橋筋を駆けずりまわったが、紀久子の姿は見つからなかった。女の顔が5つ、6つ赤い色の電燈に照らされて、仮面のようにこちらを向いていた。まるでカフェのような喫茶店だった。眉毛を細く描いた眼の細い女が、豹一のテーブルへ近づいて来た。「あんた、ボタンがとれちゃっているよ」と豹一の上衣にさわった。よし、この女を恋人にしてやる、だしぬけにそう決心した。もうあとへ引けないと思うと、豹一はだんだん息苦しくなって来た。ルンバの騒音は豹一の声をほとんど消していた。色電球の光に赤く染められた、濛々たる煙草のけむりの中で、豹一の眼は白く光っていた。
彼女の手を握るきっかけを、何とかつけるために100数えて、そしたらその瞬間に手を握るのだとして、早速数を数えはじめた。そして100になって、彼女の手を握った。そしたら、銀紙の玉を投げた男がいきなり傍によって来た。男の手が女を退けるまえに、女は傍を離れた。男は豹一を連れて御堂筋へ、南海通の漫才小屋の細長い路次をはいって行った。この男、勝の手が伸びてきた。拳骨が飛んできた。
勝に連れて来た弥生座の舞台にレヴュー「銀座の柳」の幕が上がった途端、2階の客席からあ奇声があがった。東銀子が主役の踊り手と思ったが、後列の隅の方で沢山の踊り子にまじって細い足を無気力に上げている子が東銀子だった。東銀子があ入団したとき、文芸部の北山が男優一同に、此の子にさわるでねえぞ!と駄目押しをした。
北山や銀子がしわがれた声で歌いだした。その銀子に打ちひしがれた豹一を見つけた。「あら、誰や倒れたはるわ。銀ちゃん、見て御覧」。豹一はしょんぼり立ちあがって、すごすご路次に出て行った。道頓堀の勝はとっくに姿を消していた。
父親である安二郎は、子供にあたる豹一から炬燵代も負担させたいと考えていた。食費何円何銭、部屋代何円何十銭、電気代何円何十銭、水道代何十銭。今月から〆て何十何円何十銭を豹一に払わせることにしよう。お君には電気座布団の線をはずしてくれるように言った。電気代を節約するためだ。
お君は、針仕事の賃から1円紙幣や50銭銀貨を針箱の抽出へこっそり隠していた。
母に日本畳新聞社を辞めたことを話した。住むことの経費は請求書を出してもらえば結構ですと母に言った。用談を済ますと、豹一はいつもの畳新聞社へ出勤するさっさと家を出た。
畳新聞に代る会社を探さなくてはならない。「社会部見習記者一名」、「応募者ハ本日午前九時履歴書オ携帯シテ本社受付マデ。鉛筆持参ノコト東洋新報」。そんな三行広告が新聞に出ていた。東洋新報の受付に行った。まずは一人一人履歴書を調べた結果、100人ほど筆記試験を受けた。出来上がった答案用紙を持ってきてください。
1、作文「新聞の使命に就いて」
2、左の語をか解説せよ。
lumpen
室内楽
A la mode
platon
答案を書いていると、ふっと鑰屋(かぎや)のお駒や紀久子や喫茶店の女の顔が思い掛けず甘い気持ちで頭に浮かんだ。どんなに良く出来た答案でも、永い時間掛かって書くようなのは、新聞記者としては失格だという編集長の意見だった。新聞記者の第一条件は、文章を早く書けるということ、しんねりむっつり文章に凝るような者やスロモーは駄目だということだ。結局、豹一の答案が一番出来が良かった。
lumpen(ルンペン)について、豹一はかくのごとく答案した。
「独逸語で屑、襤褸(ぼろ)の意、転じて放浪者を意味する。日本では失業者の意に使う。しかし、ルンペンとは働く意志のない者に使うのが正しいから、たとえばこの講堂へ集まった失業者はルンペンではない」と、編集長自身にも書けない立派な答案だった。
豹一は今まで、大学時代はただ慇懃な態度が欠けていた。他人を媚びることをいさぎよしとしない精神が、不遜に見せただけのことだろう。ところが、銀行や商事会社ならいざ知らず、新聞社では慇懃な態度はあまり必要とされない。どこで働きたいかとの質問に、内勤が希望ですと答えた。今日は帰っていいが、明日は9時だ。局長室を出た途端に、筆記試験の時檀上で妙な質問をやった男に、お茶を飲みに行こうと誘われた。
社の近くの喫茶店に着いた。誘った男は、さきほどの男は販売部長や。天気予報の名人やと自称しとるが、毎日空模様を見て、その日の印刷部数を決めるのがあの人の仕事や。雨が降ると、立売が3割減る、雪なら4割減る。
誘った男の名前は土門だった。社会部だ。喫茶店に入って、豹一に金を貸してくれと言った。豹一はいいですよと了承しながら、財布を開けて、50銭でええ、と言いながら1円にしてもらおう、やっぱり3円とってしまった。このお金は返します、但し1年以内に、、、。時々催促してください。豹一は莫迦にされているような気がした。
「僕は君が気に入ったよ君の貸しっ振りはなかなか良いところがあるよ」
「しかしまあ、とにかく名刺を作ることだ。君のような可愛い顏をした男が、半鐘が鳴って火事場に駆けつけても、名刺がなければ通してくれないよ。八百屋お七が変装して吉三に会いに来たと思われるぜ」、と土門が言った。
編集長にも気をつけてくれ。創業当初のある日、頗る美人で名門の出の社長の女秘書が、編集長と同じ部屋にいたんだが、いきなり辞意を表明した。社長が編集長を呼びつけて、美人の秘書の前で、越中褌一つで平気でいる土門に褌一つで平気でいるところを見ると、奴さんは女に興味がないようだ。褌は困るね。せめて汚れのない奴を使ってくれ。
豹一は土門の話よりも、土門の煙草を吸う動作にすっかり気を取られていたので、腹を立てる余裕などなかった。煙草から煙草へと火を吸い移す。話し振りの飄々たるに似合わぬ、なにか苛々とした焦躁がその吸い方に現れていた。豹一はなぜかその土門の苛々した態度になんとなく奇異なものを感じた。
その日の夕方の6時に豹一は弥生座の前で土門と落ち合った。幾ら待っても土門は来なかった。土門が来るまでに大急ぎで土門のことを述べよう。土門は自分では50歳だと言い触らした。本当は36歳。50歳だとすると、つまり土門は20年間東洋新報に勤めている勘定になる。じつは東洋新報は創立以来まだ10年しかならぬ。
毎年1回昇給するとその翌日は必ず洋服を着替えて出社、「おかげをもちまして質受けできました」と真夏に冬服だった。編集会議などでは、糞真面目な議論をやった。観念的だとか弁証法的だとか、妥協を知らぬ過激な議論をやった。
退社時間の6時が来ると、いきなり目覚まし時計が鳴りだし、悠々と自分の机の目覚まし時計を停め、さっさと帰った。
「人間の幸福は社会の進歩にある」「文化人になりたいか?よし、50銭出せ?文化人にしてやる!」
社会面の特種以外に映画批評も担当したが、「キングコング」のような荒唐無稽な映画だけを褒めた。飛行機や機関銃の出てこない映画はつまらない。日本の映画は大都映画。レヴューが好きで、弥生座のピエロ・ガールスのファンで今待ち合わせをしたのも、このピエロ・ガールスを見るためだった。
豹一と土門は弥生座に入った。入るのに入館料を払っていない。「取るなら、取れ! 但し、子供は半額だろう?]舞台では「浪人長屋」という時代物の喜劇だった。土門は豹一と並んで座ると「一(ぴん)ちゃん!」と怒鳴った。長い顔をした浪人者が、土門の顔を見つけるといきなり頭に手をあてて、あっという間に鬢を取ってしまった。あれは中井一だ。顔が長いから長井一と呼ぶ奴もいる。俺の親友だ。
「森凡(もりぼん)!」ひどくしょんぼりした顔の小柄な浪人者に土門は、あれも親友だ。
やがてレヴュー「銀座の柳」の幕があいた。土門は豹一に、「後列右から2番目の娘に惚れるなよ」豹一はその娘を見て途端にどきりとした。足に見覚えがある。先刻弥生座の前で土門を待っていた時、鮮やかな印象を風の中に残してさっと通り過ぎた少女にちがいはない。なんと言う子ですかと土門に聞いたら、「東銀子」と答えた。削り取ったような輪郭の顔に、頬紅が不自然な円みをつけていた。
土門はなにか狼狽したありさまを見せていた。そして、「帰ろう」と言い、席を立って歩いて行った。豹一は後を追った。弥生座を出た。
弥生座を出ると、雪だった。2人は喫茶店に入った。それから土門は電話で弥生座の文芸部の北山さんに電話した。話した内容は、貴様も50なら俺も50歳だ。年に不足はあるまい。おれはだね、貴様のように未だうら若い生娘に手をつけないだけだ。可憐な東銀子のような娘を食うのは貴様のような助平爺(じじい)ひとりだ!おれの居る所へ半時間以内にやってこい。
豹一は東銀子が文芸部の北山に「手をつけられた」ことに、土門が抗議していることだとわかり、打ち消しようもないないほど、心の曇りは深かった。中学生時代女学生の紀代子と夜の天王寺公園を散歩した時も、また高等学校時代鑰屋(かぎや)のお駒と円山公園を寄り添うて歩いた時も、恋情のひとかけらも感じなかった。
豹一が東銀子に惚れていることを見抜かれたと、朱くなった。
「惚れても駄目でっせ。東銀子はもうあかん。おれは諦めたね。ああ、東銀子も失われたかととね」。北山がやって来た。「誤解だ。誤解も誤解も大誤解だ。おれが下手人だなんて、悲しいことを言ってくれるな」。土門と北山ははっきりしないまま、「握手しよう」と北山の手を握った。「わしもやっぱり旦那に下手人になってもらいたかったよ」と北山。これで、土門と北山の東銀子のことは終わったのだろうか。
東洋新報の編集長はいつになく機嫌が悪かった。この編集長は、56の年でありながら妻君に双生児を生ませた。じつは、その日の大阪の新聞が一斉にデカデカと書き立てている記事を、よりによって、東洋新報だけが逃していた。映画女優の村口多鶴子がキャバレエ「オリンピア」のラウンドガールになったという記事だ。当時はこんな記事が特種として、ああらゆる新聞の三面に賑やかに取り扱わされていた。村口多鶴子は監督との恋愛事件のいまわしい結果が刑法問題になった、「問題の美貌女優」だった。
この件を土門に任せようとしたが、土門は休みだった。自然次長と社会部長はいない。昨夜、北山は「オリンピア」の支配人と到頭泥酔してしまった。そこで、編集長が決めたのは豹一だった。
編集長から豹一は、これは大任やよって、気張ってやってや、と指示した。伝票をもって階下の会計へ行き金を貰った。1人で出かける豹一の後姿は1人前の新聞記者には見えなかった。編集長はそんな失望を感じたことは知らず、興奮して淀屋橋の方へ歩いて行った。豹一は肥後橋まで来て、村口多鶴子の記事を読むために新聞を買って、フルーツパーラーへはいって片っ端から読んだ。
「罪の女優」「嘆きの女優」とか書いてあった。買ってきた新聞からは罪や嘆きとかいった印象は全くなかった。村口多鶴子の顔はいちように妖艶とでもいいたい笑いを派手に浮かべていた。豹一は花1つのことにも大袈裟に笑っている村口の写真を見て腹を立てた。豹一は華やかな名とか社会的な地位を鼻の先にぶら下げている連中には「因縁をつけたあがる」という悪い癖があった。このとるに足らぬ女性を大騒ぎで祭り上げている新聞記事というものに、自分が記者であることを忘れて、苦々しく思った。どうやら高慢ちきそうな村口多鶴子のような女は体がふるえるほど苦手だと思われた。
勇気を出して会いに行くと、喧嘩に出掛ける男みたいに飛び出した。
キャバレエ「オリンピア」の「支配人」佐古五郎は昨日から引き続いて、仰々しく燕尾服を着込んで、鼠のように忙しく立ち廻っていた。村口多鶴子のせいである。「支配人」ではなく本当は「宣伝部長」とでもいうところだ。電気の工事人として「オリンピア」へ出かけてきたのが、いつの日か「支配人」に出世した。村口多鶴子を「オリンピア」に招聘したのが大きな貢献だった。法廷にも立ち女優もやめなければほどの罪を犯した女優を、醜聞関係の後始末を闇に葬った。そんな村口多鶴子を引っ張り出した。どんな映画会社も憚ることを、平気でやってのけた。
キャバレエに出ることなど自他ともに想像もできないような女だった。附焼刃にしろ、教養のある女優といわれていた。知性の女優と呼ばれていた。それゆえに人気もあり、また事件も一層大袈裟に騒ぎ立てられた。
彼女の老いたる母親は何のことかわからぬ理由で、白浜温泉へ招待されたりした。女中のところへ身分不相応の品物がデパートから届けられた。そうまでされては、彼女ももはや断り切れなかった。2か月にわたる口説き落としの努力が報いられた。多鶴子がいよいよ「オリンピア」に現れる晩、それは昨夜のこと、燕尾服を着用した。多鶴子とおそろいの真紅の薔薇を燕尾服の胸にぶら下げた。
多鶴子の出現は「オリンピア」には大成功だった。「良え女子を入れてくれたな」経営者は佐古に一言だけ感謝の言葉を与えた。この一言がしかし佐古をぎくりとさせた。経営者の眼は多鶴子の胸から腰に執拗に注がれた。音を立てるような視線だった。
経営者も糞もあるものか?馘首にするならしやがれ。あの女をおれのものにしたらあの女で食って行ける。そう思って、佐古は自然に動きだした。多鶴子に近ずいて、「おやじに警戒しなはれや。よう心得とき」と話した。
そして、東洋新報の豹一が「オリンピア」に現れた。佐古が東洋新報だけがこのキャベレエに元女優がサービスする側として登場したことを扱っていなかったので、そのクレームの電話をした。その結果、閉店近くの夜11時、豹一が現れたのだ。豹一は、男ボーイ入用、雑役夫人用、淑女募集などの貼紙がはためく勝手口から入った。佐古は(駆け出しの癖に威張ってくさる)。下手に怒らしては後が怖い、佐古は咄嗟に考えた。
ボーイが現れて、テーブルの上へ爪楊枝入れのようなちっぽけなグラスを置き、それに洋酒を注いで立ち去った。村口多鶴子が現れ、無意味に取り残され、物も言わずに向き合っていた。目まぐるしく交錯する赤、青の光線が思い切ってはだけた多鶴子の白い胸を彩っていた。豹一は自然胸のところばかり見ていたが、赤く染められた胸の脈が急にぴりりと動いた。
蝶々のように宴席から宴席へ飛び回っている自分の姿を、広島県のある女学校の先生は何と思うだろうか。中途退学だが、その時可愛がってくれた先生はアララギ派の歌人だった。因みに彼女はアンドレ・ジイドが愛読書だったと答えた。佐古が東洋新報さんと言って、洋酒の瓶を持って現れた。無我夢中で食傷横町の狭苦しい路次を抜け、法善寺の境内に出たところのベンチを見て、げっと吐き気を催した。
夜11時過ぎると、気の早い拾い屋(バタヤ)が道頓堀通のアスファルトへ手車を軋ませながら、薄汚い姿を現す。「オリンピア」からはショールームにくるまった女給たちがぞろぞろ出てきた。佐古は村口多鶴子が車に乗るのを手伝った。「早くせんと経営者が来まっせ」意味ありげに囁いた。豹一は多鶴子が「オリンピア」から出て来るのを、浮かぬ顔で待っていた。風が冷たかった。多鶴子の乗った車をせかせた。佐古の出番をはじくためだ。「金はいくらでも出す!」この言葉を早く言うべきだった。多鶴子の車は道頓堀通を真っ直ぐ御堂筋へ出てナンバの方へ折れて行った。豹一の車もあとを続いていた。
多鶴子の車に乗った佐古は、寒い寒いと言いながら、運転者に寄りつき5円紙幣を運転手の膝の上へ落とし、何やら囁いた。その瞬間、車は阿倍野橋まで来たが、彼女の住居のある帝塚山へ行くべく右へ折れずに、不意に左へ折れてしまった。「方角がちがうってよ、車を引き返して頂戴!」阿倍野橋から二町も行った頃だろうか、いきなり車が停まった。運転手は素早く降りて、「清川」と門燈の出ているしもた屋風の家へはいって行った。それがどんな商売の家であるか、多鶴子には直ぐわかった。
佐古は「どうぞ」と多鶴子を促した。佐古は身震いした。蒼ざめた多鶴子の顔は、佐古の眼にも凄いほど美しく見えた。佐古はなあんだか大それたことをしているような気がするほどだった。その時、豹一の車がぎいとにぶい音を軋ませて辷りこんで来た。豹一は停めたらあかんと思ったが、佐古の車の傍に着けた。尾行してきたことをわざわざ知らせるようなものだ。
多鶴子はなぜ豹一がそこにいるのか、理解できぬ間に、豹一の車に乗り込んだ。インターヴィユを取りに来て一言も喋らなかったという点だけでも、記憶に残るに充分だった。豹一も多鶴子も運転手に「走れ」と命じたわけではなかった。ただ運転手が咄嗟の機転を利かせたのだった。
「あ、そこで停めて頂戴」。小奇麗な洋風のこぢんまりした住宅の前まで来ると、多鶴子は車を停めた。そして、豹一を家に案内しだした。乗車代は多鶴子が当然のように素早く運転手に渡した。運転手はじつは「金はいくらでも出す」と言った豹一から貰いたかったのだが、多鶴子から渡された金を見て、ひどく満足した。多鶴子は女中に命じて、豹一を応接間に案内させると階下の日本間にいる母親のところへ顔を出した。「---炬燵が熱すぎたので、外へ出して冷ましてから寝ようと思って―――。多鶴子はおかしいと思うより、むしろつんと胸にこたえて悲しかった。
女優になる前ダンサーをしていた頃もそうだった。女友達の下宿で長話をしている内に電車がなくなり、泊めてもらった。娘に靴を買ってやるべくいれて置いた金を財布ぐるみ公衆電話のなかへ置き忘れてしまった。2年前に、いきなり夜遅く訪ねてきて、多鶴子に紹介されたのは監督の矢野だった。多鶴子の体に異変が起こり、女優を廃めさせてでも産まし育てるのだったのにと後悔したが遅く、矢野の入智慧かと矢野が恨めしかった。新聞社の方で、私の尾行記を書きたいんですって。若い女中は一目見た途端に豹一を好いてしまった。もし豹一が幾分でもこの女中に惹きつけられるところがあるとするれば、それは彼女が見せるのを憚った、赤切れた汚い手だったかもしれない。母の手を連想するからだ。
豹一はコーヒーを頂いて、早々に帰宅した。多鶴子はこんなに夜更けになってしまったのだから、是非、寝て行って欲しかった。多鶴子は翌日豹一の社へ電話を掛けることを、全く思い掛けずやってしまった。
夕刊第一版の原稿〆切は正午だった。尾行記の原稿を〆切時間に間に合わせるため、鉛筆を走らせた。そこへ土門がやってきて「金を貸してくれ! 50銭で良いよ」。土門に、村口多鶴子というのはどういう女優なのかと尋ねた。「良い役をつけて欲しさに、監督にくっつきやがった挙句、到頭カル焼みたいに肥りだして来たお腹を、あっという間にもとのスタイルに整形した。それで謹慎してりあ、まだ可愛いが、よくよく人気稼業が忘れられんと見えて、「オリンピア」にやってきた。
それを聞いた豹一は今までの原稿を破り捨て、土門に刺激された辛辣な文章で書き始めた。
そこへ森口多鶴子から豹一に電話がかかってきた。今夜心斎橋の不二屋で会って欲しいとのことだった。不二屋で豹一はコーヒーを多鶴子はヴァニラを頼んだ。豹一に言わせると寒中にアイスクリームを食べるのは気障なのだ。京極裏で、豹一たちが学生だったころ、赤井と野崎はアイスクリウムを食べ、豹一はコーヒーを飲んだ。そんなことを思いだしていた。何故、多鶴子は豹一に会いたかったのか解らなかった。尾行記のことで、豹一に頼みごとがあったのだ。尾行記を書かないで欲しいとお願いしたかった。
「人気のことなんて考えてはいません。矢野さんのことだって皆さんは、村口は良い役をつけてもらいたに矢野の貞操を与えたなんて、ひどいことおっしゃいますが、私そんな気で矢野さんとお交際したのでしょうか」。
「色眼鏡でごらんになるのですわ。あなたもきっとそうでしょうね?」(少くとも私は自分の人気よりも矢野さんを愛していた)
豹一の「批判」が辛辣であっただけに、一層彼女の言葉を信ずる気持が強かった。
尾行記を書いてしまったから、社へ電話して発表を見合せてもらいます。