2019年5月10日金曜日

秀吉と利休

昨秋、10月のことだったと思うが、私が恩愛を限りなく受けている我が農園=イーハトーブに行った日のことだ。

その日は紙のゴミ回収の日。
ゴミの集積場を一目見て、その中の1冊に物欲しさが湧出してきた。
そのゴミの中に、紙類の最終日だったので本が大量に出されていた。

こういう光景を前に、私の脳はすぐさま本の背表紙に書かれている書名に釘付けになった。
何冊かあるなかから、手を差し伸べたのはこの野上弥生子(のがみ やえこ)さんの「秀吉と利休」/(中央公論社)だった。


ぺらぺらとページをめくってみて、なんと文字がいっぱいで、余白・空白のない本だと直感した。
ごみの集積場に捨ててあるものの中からいただくことなんて、気にすることなんかない筈だ。
そんなことで、この本だけをいただいた。
丁寧で細部にまで神経の行き届いた、野上さんの性格がそのまま表れたような気品のある文体なのである。

今まで野上さんの本を読んだことがなかった。
文学に対する変わらない真摯な姿勢、その意志の強さ、持続力、集中力、とりわけ端正な文章と緻密な構成、深い人間洞察には感心させられる。
全身全霊、痺(しび)れまくった。
もう少し前に、彼女の本をちょっとでも読んでいたら、さぞかし惚れまわったことだろう。
でも、この本をきっちり読みこなすには、相当努力が要(い)りそうだ。
本題の中で、知らない事項は当たり前だけれど、出番のあった人たちの心流の交感など、どうしても読み切れなかった。
よっぽど腹を括(くく)って、時間を掛けて読みたいものだ。


秀吉の名よりも千利休の名に心が奪われた。
「利休にたずねよ」(PHP研究所)/作者・山本兼一氏で、利休に恐ろしいほど魅入ってしまったのだ。
それ以後、利休のことには何でもかんでも、関心をもった。

そして、昨年の11月の初めから読み出したが、脳足りんの私には、知らない物象や事象を逸早く理解できない。
そのお陰か、読書中の幾ばくかの時間では、本を深底まで読めなかった。
この本の良さは、私が理解できないところに、秘められているようだ。
格闘するしかないと決意した。

野上弥生子は、明治18年大分県臼杵生まれ。
79歳のとき、この作品・「秀吉と利休」で女流文学賞を受けた。

4月には読み切れるだろうと思うが、その前に今まで読んだ範囲内で粗筋を書いてみようと思いついた。
ところが、3月10日(日)に読みきった。
本の4分の3辺りから、利休がどうも苦しみだしたのだ! そんな環境に舞台が代ってから、読むスピードが早まった。
読み切ったとき、私はガク~ンと体の力が抜けた。

5月26日に義父(妻の父)の33回忌がある。
そんな機会に、どうしても大覚寺を観てこようと思っていたら、お寺の側に住んでいる妻の妹の旦那が、ヤマオカさんがそれ程千利休にホの字なら、私が案内しようと言ってくれた。
妻の妹夫婦は大覚寺から歩いて10分の所に住んでいる。
ついでに、山岡さんは我が家に泊まればいいやと言ってくれた。

本の中では、兎に角あっちゃこっちゃで色んな人が活躍するのだが、その色んな人と言うのは、少し言い間違っているかもしれない。
数少ない登場人物が、派手に動き回ってくれるのだ。


千利休とはーーー。
安土桃山時代の茶人。
茶道(ちゃどう)の大成者。
千家流(三千家)の開祖。
堺の生まれ。
通称・与四郎、宗易と号す。
晩年は不審庵とも号した。

初めは茶の湯を北向道陳に学び、のちに武野紹鴎(たけのじょうおう)に師事。
織田信長に仕え豊臣秀吉に重用された。
1585年秀吉が禁中茶会を催した際に利休居士という号を与えられた天下一の茶人の地位を確立し、1587年北野大茶湯をつかさどった。

草庵風の茶室を完成し茶道を民衆の生活のなかに根づかせた。

1591年秀吉の怒りにふれ切腹を命じられた。
大徳寺に自蔵を置いたためなどとされるが、原因については定説がない。

わび茶(草庵の茶)の完成者として知られ、茶聖とも称せられてる。

天下人・豊臣秀吉の側近という一面もあり、秀吉が旧主・織田信長から継承した「御茶湯御政道」のなかで多くの大名にも影響力をもった。


★秀吉の年表

和暦西暦月日数え年内容
天文6年1537年天文2月6日(1月1日説もあり)、西暦3月17日1歳誕生(天文5年説もあり)
天文23年ごろ1554年-1555年ごろ18歳織田信長に仕官
永禄4年1561年8月25歳浅野長勝の養女(高台院、ねね)と結婚。
永禄11年1568年9月12日32歳観音寺城の戦い
元亀元年1570年4月34歳金ヶ崎の戦い
元亀3年1572年8月ごろ36歳羽柴改姓
天正元年1573年8月8日-9月1日37歳小谷城の戦い
天正3年1575年7月3日39歳筑前守
天正5年1577年9月23日41歳手取川の戦い
10月5日-10日信貴山城の戦い
天正6年1578年3月29日42歳三木合戦開始(~天正8年1月17日)
4月18日-7月3日上月城の戦い
天正10年1582年4月-6月4日46歳備中高松城の戦い
6月2日本能寺の変が起こる
6月13日山崎の戦い
6月27日清洲会議
天正11年1583年4月47歳賤ヶ岳の戦い
11月本拠を大坂城に移転。
天正12年1584年3月-11月48歳小牧・長久手の戦い
10月3日従五位下・左近衛衛少将
11月21日従三位・権大納言
天正13年1585年3月-4月49歳紀州征伐
3月10日正二位、内大臣宣下
6月-8月四国攻め
7月近衛前久の猶子となる、藤原改姓
7月11日従一位・関白宣下、内大臣如元
8月富山の役
10月惣無事令実施(九州地方)
天正14年1586年7月50歳九州征伐開始(~天正15年4月)
9月9日賜豊臣氏
1587年12月19日内大臣辞職
12月25日太政大臣兼帯
天正15年1587年5月9日51歳書状「かうらい国へ御人」
6月1日書状「我朝之覚候間高麗国王可参内候旨被仰遣候」
6月19日バテレン追放令発布
1587年または1588年12月惣無事令実施(関東・奥羽地方)
天正16年1588年7月8日52歳刀狩令発布。ほぼ同時に海賊停止令も発布。
8月12日島津氏を介し琉球へ服属入貢要求
天正17年1589年5月27日53歳鶴松が誕生。鶴松を後継者に指名。
天正18年1590年2月-7月54歳小田原征伐
2月28日琉球へ唐・南蛮も服属予定として入朝要求
7月奥州仕置
11月朝鮮へ征明を告げ入朝要求
天正19年1591年55歳身分統制令制定
3月3日天正遣欧少年使節が聚楽第において秀吉に西洋音楽(ジョスカン・デ・プレの曲)を演奏
7月25日ポルトガル領インド副王に宛ててイスパニア王の来日を要求
9月15日スペイン領フィリピン諸島(小琉球)に服属要求
10月14日島津氏を介し琉球へ唐入への軍役要求
1592年12月関白辞職、太政大臣如元
文禄元年1592年4月12日56歳朝鮮出兵開始(文禄の役)
7月21日スペイン領フィリピン諸島(小琉球)に約を違えた朝鮮を伐ったことを告げ服属要求
人掃令制定
文禄2年1593年8月57歳本拠を伏見城に移す。秀頼が誕生。
11月5日高山国へ約を違えた朝鮮を伐ち明も和を求めているとして服属入貢を要求
慶長元年1596年60歳サン=フェリペ号事件
慶長2年1597年2月61歳再度の朝鮮出兵開始(慶長の役)
7月27日スペイン領フィリピン諸島(小琉球)に日本は神国でキリスト教を禁止したことを告ぐ
慶長3年1598年62歳太政大臣辞職
8月18日伏見城で薨去。
大正4年1915年11月10日贈正一位


■あらすじ (ネットよりいただいた原稿です)
利休(千宗易)は堺の商家の出で、四十代のころ信長に仕え、その茶頭として重用された。
信長が本能寺の変で亡くなった後は、秀吉の茶頭を務めることになる。
秀吉はほぼ十歳下であった。

利休は秀吉の依頼で幾つもの茶室を建てていく。
一切の余分なものを取り払った簡素な二畳の茶室、待庵。
意表をつく組み立て式の黄金の茶室。
また秀吉のために聚楽第で多くの茶会を行い、茶の湯の指導をする師弟関係が築かれていくが、一方政治に関しても意見を言い、相談に乗るような間柄であった。

利休の一の弟子、山上宗二は秀吉と対立して、北条氏に身を寄せていたが、秀吉の小田原討伐の際に、密かに抜けてきて師の利休のもとを訪れる。
利休のとりなしで秀吉に面会するが、宗二は秀吉の怒りを買い、その場で惨殺されてしまう。

秀吉に重用される利休には敵も多かった。
あるとき利休が宴席でふと漏らした「唐御陣が明智討ちのようにいけばでしょうが」の言葉を、日ごろ利休の存在を快く思っていなかった石田三成は、朝鮮出兵に反対する傲慢な意見として、これを咎めだての材料にと考える。

大徳寺三門に、親友の僧、古渓の発案で利休像を置いたことも、不遜であると非難された。
楼門修復に利休が尽力し、資金を寄付したので、寺側の謝意の木像だったのだが、怒った秀吉は利休に堺での蟄居を言い渡す。
秀吉に侘びを入れて、復帰する機会を無視する利休に、秀吉は苛立ち、遂に切腹を申し付ける。
利休の首は獄門にかけられて市中に晒され、木像も引き降ろされて磔刑となった。




多重視点の、かなり重い文体である。
内容も重たい話なので、決して読みやすい作品ではないが、いろいろなことを考えさせられるという点で、深いものを持っている。
通常多重視点を使って書くと、読者には異なった人物の目が与えられて、そこから作品世界を見られるので読みやすくなるものであるが、この作品は逆に登場人物の複雑な心理が、多くの歴史的事象と絡み合って、心理描写が錯綜し、屈折し、読み進む上で非常に努力を強いられる。
 

利休、秀吉の二大主要人物の他に、石田三成、古渓(和尚)、秀吉の弟秀長、大政所、北政所、山上宗二、利休の妻りき、紀三郎、ちか、など多くの登場人物(創作人物を含む)があり、作者の筆はどの人にも万遍なく愛情が注がれていて、おろそかでなく非常に丁寧である。

そこには手抜きもなければ省略もない。
せっかく登場させるからには、という訳だろうか、できうる限りの目配りと配慮で、どの人物も最大限に作品中に生かされ続けようとする。
そのため膨大な資料を駆使し、エピソード満載ということになってしまい、結局作品はこの分量を抱え込んで、膨張し続けていったのだろう。
おそらくは作者としては割愛するに忍びない個々の愛着ある場面を、網羅していった結果であると思われる。
 

印象的な場面は幾つもあるが、とりわけ利休一の弟子であった山上宗二が、秀吉の怒りを買って、見せしめのようにむごい殺され方をする場面は衝撃的である。それは作品中に重苦しい伏線となっており、利休の心に不吉な影を落とし、やがて最後の切腹の場面へと繋がっていく。
読み手の心の中にも不安な予感、恐怖感を共有させていく、効果的で巧みな構成であると思う。


利休の死の原因には諸説あって、
自分の木像を三門に置いた不遜行為がよくいわれるが、
朝鮮出兵に反対したからという説、
茶頭としての慢心説、
娘を側室に差し出さなかったからという説、
茶席である人物の毒殺を命じられたが断ったからという説や、
秀吉に対する毒殺未遂説まであるそうだ。
その死の真相が分からず、いろいろな説が出るのも、秀吉に信頼が厚かった側近の突然の切腹、木像の磔刑という処罰の形があまりにも異常であったからだろう。
利休の首が獄門にかけられた時、あらたに大徳寺の山門の木像まで処刑された。
それも磔刑で、場所は堀川の東西の岸をつなぐ、一條戻り橋のたもとであった。
 

今東光の小説「お吟さま」では側室説が採用されている。
利休の娘が秀吉の側室にと望まれたが、利休がそれを拒否したことによる悲劇、というある意味では分かりやすい話になっていて、物語はまた別の様相を帯びている。
利休は二度結婚していて、先妻の娘は三人あったようだが、当時の彼女たちの年齢をみてみると、皆若くはなく既婚で子もあり、そのうちの一人(末娘)は寡婦であったそうだ。


「秀吉と利休」では、利休の娘の側室の話は一切絡まない。
そういう話とはまた別の、違う角度から試みた作品なのである。
秀吉は、機を見るに敏ではあったが、成り上がり者で、真の芸術など何一つ解さない現実的な絶対権力者として描かれる。

それに対して、利休は内心で反発しながらも恭順の姿勢をとり、茶道を深化させる一方で、冷静に時代を眺める目を併せ持った知的人物として描かれている。
主点は利休の心の描写にあり、いってみれば心の底で軽蔑している相手に、日々屈服しつつ生きていかなければならなかった一人の人間の、苦衷の内面が、豊富なエピソードとともに綴られていくのである。

トラブルが起きる晩年までは、利休はうまく時流に乗って、生き抜いていくしたたかさも持っていたようで、そのことも作品中に織り込まれている。
そして秀吉と利休の対立、というテーマは、この作品では、政治家と芸術家の相克、対立という構図で捉えられている。
 

作品ではさまざまに揺れ動くその心理的葛藤が中心に据えられている。
石田三成ら、側近の嫉妬や反発や策謀に翻弄された結果、自らの矜持ゆえに悲劇的な死を選び取っていく、という経緯が「唐御陣……」の言葉が発端となったという作者の創作で、具体的に説明され、気を許してうっかり吐いた言葉が独り歩きをしていく恐ろしさが如実に描かれる。

秀吉に頭を下げ、非を認め、皆の前で謝罪さえすれば、また元の茶頭に復帰できるとわかっているのに、最後までそれをしなかった利休の意地というか、誇りの高さが、秀吉の中の強固な意地と正面からぶつかり、潰れていくさまは、むしろ淡々とした調子で描写されている。
利休があくまで自己を貫くのなら、もうその先に予想されるものは宗二と同じ死しかなかったはずであったからだろう……。
 

利休の家は豪商ではなかったが、堺で魚、海産物を扱う中程度の商家であった。
信長が堺を制圧しようとした折、堺の人々は初め結束して信長に抵抗しようとしたらしい。
それが話し合いで決着していったのは、双方のさまざまな利害関係によるものであった。
茶の湯をたしなむ堺の裕福な貿易商人でもあった今井宗久、津田宗及たちは、宗易(利休)とともに、信長に茶頭として召抱えられていく。

信長は仕舞、小鼓をよくし、茶の湯にも通暁し、その膝下で茶頭を務めていた彼らは、信任されて次第に高い地位を得ていった。派手好みの信長は、安土城内に黄金ずくめの茶室を作らせもした。
 

茶の湯は当時の武士のたしなみであったが、単なる文化的な趣味の範囲を超え、小さな密室である茶席では、武器弾薬を扱う堺の貿易商人たちとの商談が行われ、さまざまな軍事、政治の情報交換の場としての意味も合わせ持つようになっていった。
茶道政治といわれる所以である。

信長は大名たちを集めて盛んに茶会を開き、その一方では、茶道具を収集することにも熱心で、戦乱で散逸していた天下の名器といわれる室町時代の茶道具類を買い取って手元に置き、褒賞として家臣に与えることもした。
このような茶道の隆盛につれ、武将たちは信長に倣って茶会を開くことを望み、優れた茶器を手に入れたがったが、信長は並みの武将には茶会を開くことを許さなかったという。


本能寺での信長の横死後、信長に仕えていた茶頭たちは、そのまま引き続き秀吉に仕えることになった。
信長の茶の湯による政治的文化政策はもうしっかり根付いていて、それを切り離したり否定したりすることは、最早できなかったのだろう。

信長が生きていた頃、利休のほうが秀吉よりも身分は上であった。
本能寺の後、秀吉の時代になったが、天下人の秀吉といえども、茶の湯の世界では、利休が師匠であり、秀吉は弟子の立場である。
その辺りは、秀吉は複雑な心境であったかもしれない。
 

利休はじめ宗久や宗二など、信長に仕えた茶頭たちは、二人の主君を比較し、皆口には出さなかったが、内心できっとその差を絶えず思ったに違いない。
性格的には恐ろしい面を持つカリスマ君主ではあったろうが、どこか洗練された鋭い感覚の持ち主であった信長、そういう信長の茶の湯に対し、秀吉のそれはおそらくはかなり劣るものであったことは充分想像できる。


秀吉は信長のようになりたかったかもしれない。
信長がしたように自分も大坂城に黄金の茶室を作らせ、人々を驚嘆させた。
得意だったことだろう。
黄金の茶室を組み立て式にし、持ち運び可能としたのは秀吉の新しいアイデアだったろうが、金の茶室という思い切った発想自体は、本来信長のものであった。


秀吉はまた信長のように能も稽古した。
けれども能も茶の湯もうわべには真似できても、なぞれることには限界があり、真の上達に至るにはほど遠いものがあったろう。
秀吉は信長という理想のモデルに自分を近づけようとし、単に模倣したに過ぎないともいえる。
 

秀吉は事あるごとに信長と比べられ、蔑まれる自分を感じていたはずである。
悔しかっただろうことは想像がつく。

この作品中にはあまりはっきりとした形では出てこないが、目に見えない、信長という強大で魅力的で、決して乗り越えられない壁のような存在が、秀吉と利休の間には重く介在していたことは当然考えられるし、秀吉の苛立ちや怒り、意地悪さ、猜疑心に含まれる感情には、信長の姿が絶えずちらつき影を落とし、信長を超えられない焦燥感があったこと、また秀吉の芸術的なものに対する憧れや劣等感をもっと強調すれば、この作品は更に理解されやすくなったのではないだろうか、と思うのだがどうだろうか。


秀吉は大坂城を居城としたが、大坂城を築城するまでは、光秀を破った山崎合戦の地、天王山の山頂に山崎城を築いて、一時期そこで政治をとっていた。
今は山崎城の遺構は何もなく(土塁、石垣も見られない)僅かに礎石らしいものが幾つか山頂に残っているが、何の整備もされていないので、ハイキング客が弁当を広げてごみを散らかすだけの場所となっている。
そこにかつて秀吉の城があったということは、地元でももう忘れられかけているようだ。
 

山崎城があった頃、利休は秀吉に命じられて、天王山の山麓にある妙喜庵の中に、小さな茶室を建てた。
これが今に残る有名な待庵である。
当時は秀吉の来客のもてなし、密談、商談など、さまざまに茶室は用いられたことだろう。


JR山崎駅前に今も妙喜庵跡が残っている。
妙喜庵は室町時代の連歌師、俳人である山崎宗鑑の庵であった。
そこに利休の待庵というシンプルなたった二畳の茶室が、今も当時のままに保存されている。
それは拝観もできるのだが、一ヶ月前に葉書で申し込まないとならないので、思いついて出かけて行って、その場ですぐ見せてもらうことはできない。
ただ近くの阪急大山崎駅前にある、大山崎町資料館にはレプリカがあり、こちらのほうは随時見学できる。
 

私は以前この複製された茶室のほうを見学したことがあった。
それは実に簡素極まりない空間であった。
照明を落とした一隅に原寸大の茶室が拵えてある。
にじり口の正面に床があり、左手に炉。
床の間の壁は黒っぽい土壁。
本当に質素な無の空間である。
ほとんど虚無的な感じのする、でもここで真に豊かなものが生み出され、それを心に感じる人のみが、味わうことが可能な、そういう精神的な空間なのである。
利休は禅の世界にも深く入っていたとよくいわれるが、確かにこの虚無に近い空間をみていると、禅の何らかの影響下にある空間と考えても差し支えないだろう、という気持ちになる。
 

質素な中にもてなしの心と気持ちを尽くそうとする精神、利休のいう草庵路地の侘び茶の世界が、金ぴかの黄金茶室と方向を逆にすることについての作者の考察はどうだろうか。
その点をみてみたい。
「秀吉と利休」ではこのように表現されている。



「……妙喜庵内の待庵によって、いっぽう無にまで圧しつくした美の創造に悦びを見出したに劣らない意欲を、他方黄金の茶座敷にもそそいだまでであった。
火焔に消滅したことで、いっそ活き活きと眼に残る安土の七重の天守閣、それの再現にほかならぬ大坂城のけんらん、華麗が象徴する限りなく豊満で、過剰な、美の時代感覚を、畳三ひらの黄金の空間に横溢させてみようとした試みでもあった。
はなはだしく異質なる建物も、それ故に別種のものではなく、利休の利休らしい独創が、たまたま極の両端に表現されただけで、その意味からは、二つは一つのものに過ぎなかった。
同時に黄金の茶室で金の茶道具を用いつつも、待庵の侘び茶を味わうに変わらず、その粗ら壁をまえにして座っても、百畳敷きの大広間で、永徳、山楽の障壁画の間にあるに等しく、溌剌とおおらかな美意識に浸りえないならば、結句はそれを枯れかじけさせた侘び数奇にも、徹することはできないはずだ、と利休は考えたかった……」。
 


長く引用してしまったが、利休は「茶湯とて別事ではなく、ただ湯を沸かして飲むまで」と言い切り、素朴な日常の生活用品である竹筒や、魚を入れるびく、手籠などに、山野に咲く草花を、それも一日でしおれる可憐な花を、何ら技巧を加えず「花は野にあるよう」に生けることをよしとしていた。


侘び茶の世界に生き、やがて権力の前に呑み込まれていくそのような利休の葛藤と逡巡と覚悟の姿勢を、作者は手探りしつつ、作品中に描いては削りまた描いて、あたかも彫刻刀で丹念に刻みつけていくのに似た文体で、しっかりと書き進めるのである。
  





「秀吉と利休」/野上弥生子  中央公論社

(注) 紙の収集日、イーハトーブ入口のゴミ集積場で拾ってきた。


千利休居士聚楽屋敷跡石碑・晴明神社

秀吉が聚楽第を建てたころの利休屋敷跡。
また、利休終焉の地でもあり、ここで自害した。
首は、堀川の中立売橋で、大徳寺三門の木造に踏ませるかたちで、晒し首にされたのだとか。
千利休の自害後、秀吉によって屋敷は取り壊されたが、後に、利休七哲の一人である細川忠興の長男によって茶室としてこの地は活用された。晴明神社の境内には、利休が使ったとされる井戸があり、鳥居南側に屋敷跡を示す石碑がある。