2013年1月23日水曜日

カルチョはサッカーの起源

下の記事は、2012の或る日の日経新聞のものだ。サッカーを愛して止まない私にとって、読み捨てるわけにはいかない内容だったので、そのままここに転載、マイ・ファイルさせてもらった。

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カルチョはサッカーの起源

伊 フィレンツェ

古代蹴球 市民に脈々

乱闘排除「お祭り」守る

 

イタリア中部の古都、フィレンツェ。ルネサンス期の絵画や彫刻があふれる文化の都は毎年6月後半、あるスポーツに熱狂する。その名はカルチョ・ストーリコ。訳せば古代フットボールで、イタリアではサッカーやラグビーの先祖とされている。存続の危機を乗り越え、その伝統は市民の手で受け継がれている。

青組のリーダー、ガブリエレ・ツェケレーリさん(56)がボールを手にじりじりと前進する。赤組の選手がこれを阻もうとすると、あちこちで殴り合いや取っ組み合いが始まる。ツェケレーリさんはこの間に中央を突破し前線にパス。受け取った味方が敵陣ゴールにボールをたたき込んだ。

1チームは27人。ボールを蹴ることもできるがラグビーのように持って走ったり、パスを回したりする場面が多い。ボールを持たないプレーヤーへのタックルやパンチも反則でなく、集団格闘技のようにも見える。

市内の教会前の広場がこの時期だけスタジアムに一変し、約5千の観客席は満杯になる。青いシャツ、青いカツラをまとったモニカ・カルブーティさん(40)は「旦那がいる青組が絶対に勝つ」と興奮気味だ。

市内の4地区がそれぞれチームを持ち、この日は準決勝。東部地区の青組はその後も攻め続け、11対0で圧勝した。青組は過去に何度も優勝したことがある強豪。最年長のツェケレーリさんは「カルチョは私の人生そのもので、チームメートは家族同様」と話す。普段は雑貨店を営み、息子もチームにいる。

歴史家でフィレンツェ市顧問のルチャーノ・アルトゥージさん(80)によると、カルチョは約2000年前にフィレンツに進駐した古代ローマ軍の玉を使った訓練に源流がある。13世紀ごろに現在の形で市民に定着。1530年にはフィレンツェを包囲した敵軍が砲弾を浴びせるなか、平然と試合が行われたことが史実に残っている。

サッカー発祥の国は英国というのが通説だが、アルトゥージさん「欧州各地に進出したフィレンツェ商人が英国にカルチョを伝え、足だけを使うサッカーに変化した」と断言する。イタリアでは今もサッカーをカルチョ、サッカーくじをトトカルチョと呼ぶ。ルネサンス期の装束をまとったパレードが試合に彩を添える。よろい、かぶとの騎士団を先頭に約600人が市内を練り歩き、選手とともに入場する。鼓笛隊で太鼓をたたくのは細川泰利さん(49)。市内に住むオペラ歌手で、外国人として初めて参加を許された。「大変な名誉で、ずっと続けたい」と意気込む。

選手からパレード隊、会場の係員まで全員が市民のボランティア。カルチョは市民による、市民のための「お祭り」だ。しかし、最近は観戦目的の観光客も増え続け、経済振興に一役買う。

そのカルチョは2006年、存続の危機に立たされた。大乱闘で試合が続行不能となり、警察が捜査に乗り出す事態となった。07年、08年と試合は中止に追い込まれたが、再開を願う市民がルールを厳格化し、チームは粗暴な一部選手を追放。審判委員長のアレッサンドロ・アルジェールさん(53)は「騎士道に反する行為はなくなった」と話す。

試合は09年に再開され、広場には市民の歓声が戻った。各チームは集団で献血したり、OBがチャリテイーマッチを開いたりして社会貢献活動にも力を入れ始めた。

(フィレンツェで、藤田剛)