2013年1月3日木曜日

歩いて、鶴岡(鎌倉)八幡宮

20121231 002

20121231、家族と孫・晴の友人・ショーマとその父母も加わって、次女(ハナ)の夫・竹ちゃんお手製の年越しそばを頂いて、09:30に鶴岡八幡宮に向かって歩き出した。鎌倉にあるから鎌倉八幡宮と日常呼んでいるが、正式には鶴岡八幡宮のようだ。

ショーマ家からの高級なフィレとサーロインの持ち込みがあり、蕎麦で腹を充たしたうえに、ガッツンと肉の塊を焼いて頂いた。軟らかく、肉汁にあふれて美味かった。出発を前に、腹ごしらえは十分過ぎた。一行は6人。上の写真のカメラマンはショーマの父、一番小さい子はショーマの妹で、二人は留守番だ。

16時ころに驟雨。天気予報では31日、1日は晴れだったので長く続くことはないと確信はあったけれど、内心心配だった。が、やはり予報通りすぐに止んだ。気温は低くなかった。

1年前と同じコースをたどったが、子どもたちの成長が著しく、道中は最後まで快調だった。

20121231 005

私にとって1年前と言ってもさほど過去の話ではないが、孫の晴にとって1年前と言えば、日々の生活はめまぐるしく、小さな頭の中に、たくさんのことがさどかしぎゅうぎゅうに混乱しているのだろう、と思ったが、その小さな頭の中から、去年私と歩きながら話したことを、ぽろりぽろり引き出してきては、話すではないか。

よくも、そんなことを憶えていたもんだと感心させられた。世界には戦争をしている国や食べ物が足りなくて困っている国が多くあることを話したことを思い出していたようだった。先生に怒られた時によく言われることは、そんなに喧嘩がしたいなら、大きくなったら軍隊に入ればいいんだよ、そこではいつでも戦いの訓練ばかりしているんだから、そうすればいいんだ。

でも、喧嘩ばかりしていたら、いつまで経っても仲良くなれない。戦争で一時的に混乱が収まったように見えても、それは本当の平和ではない。多くの犠牲者が浮かばれないし、いつ再発するかもしれない。

そのような喧嘩や戦争をしないように話し合いでまとめようとする人もいる。そうして話し合いがつけば一番良いことだろう、犠牲者も出ない。そのような役ができる人を、世の中から求められているんだよ、と先生は話してくれたそうだ。

ジジイ、この辺だったけ、去年大学の話をしたのは、と聞かれて何を言い出したのか解らなかった。それから約10分ほど歩いて本郷台駅の近くに来て、アッと気づいた。私が、ここに消防大学校があったことを話したことを思い出したのだ。新しい大きな建物を聞かれた時に、かってここに消防大学校があったことを話したのだった。

 

20121231 015

歩き出したときは、夜空には雲がかかっていて、月が見えなかったが、舞岡公園を過ぎたころから、雲間から月が顔を出したり、隠れたりしていた。横浜と鎌倉の市境をまたいだころには、すっかり月が顔を出して、街路灯のないところでも、月明かりで歩けた。スピードを上げて歩いたので、体温が上がって喉が渇いた。久しぶりに大好きなガリガリ君を食った。62円也。

腹が減ったという奴が出たので、コンビニで食料補給。細身で軽量のショーマ、お前なあ、2時間前にあれほどたくさん食ったのに、どうしたんだ?肉マンを頬張って、トイレをすませて歩き出した。

後ろの方で、次女とショーマの母の話声が耳に入った。ショーマが幼稚園での発表会のときのことだ。演じた内容は解らないが、演技が終わってそれを観ていたショーマの母は大泣きした。他の母親にはばかることなく、それも観客席の前のド真ん中で。なんで、そこまで泣けたの?の質問に、母親は「そりゃ、あの、あのショーマがだよ、ちゃんとやったんだもん」。私の心は和(なご)んだ。

小袋谷から北鎌倉、鎌倉への道は交通制限していて、地元の住民以外の車両は通行禁止だ。孫たちは、働いている警察官やガードマンの人たちに、「良い、お年を」と、私は、ご苦労さんです、と声をかけた。どの人たちも、ありがとう、気をつけて行ってらっしゃい、と返ってくる。このように声をかけることも、なかなか気分の好いもんだと思った。

北鎌倉駅の前を通り過ぎたころかから八幡宮に向かう人たちが増えてきた。車の往来のない道路で転がったりして孫たちは楽しそうだ。気温が下がってきた。

昨年は鶴岡八幡宮の三の鳥居の50メートル手前でカウントダウンだったので、建長寺を過ぎてから、今年は神社の境内で参拝を待つ人たちと一緒にしたいよ、とピッチを上げた。小走りに歩いた。駐車場の係員たちは準備のために配備されていた。

三の鳥居を00:00の15分ほど前にくぐった。スタートしてから約4時間後に到着したことになる。大勢の人が既に並んでいた。最後尾の石の敷いてあるところに並ぶようにと警察官が指示していた。

そして、カウントダウン。明けましておめでとう、と一行は声を掛け合った。友人にもアケオメのメールを送ろうと何度も試みたが、電波が混んでいたのだろう、通信できませんでした、だった。

20121231 009

20121231 018 

20121231 019

参拝者の大群は、警察の誘導によって少しづつ進んでいく。義経の愛人・静御前が舞った舞殿の左横を過ぎて、左に大銀杏の大きな切り株を見て、大石段を登っていく。そして本宮でお祈りした。晴は、犬・ポンタの病気の回復を祈願していた。私は、自分自身のこと、家族のこと、会社のスタッフ、友人や仕事でお世話になっている人たちの健康を、思い出せるだけの名前を呼びながら真っ先に祈った。そして、会社のことはやるだけのことはやります、と誓った。

昨年と同じ場所に、同じオヤジがやっているおでん屋さんで、おでんと熱燗をオーダーした、毎年、この場所と決められているんだよと言っていた。孫たちは他の屋台からじゃがバター、焼きそば、お好み焼きを買ってきて、同じテーブルで食った。ここのおでん屋のオヤジは度量がある、我々の気ままな行為を嫌な顔をせず、椅子をすすめてくれた。

 20121231 020

駅に向かう我々が歩きづらくなるほど、神社に向かう人の数は多くなってきた。

02:15発 大崎行きの横須賀線に乗った。私一人が戸塚駅で下りて、帰途についた。と言っても、自宅までは歩いて1時間以上、道中、畑の隅っこに捨ててある大根を3本貰ってきた。切干大根にしよう。疲れた体に酒の酔いが残っていて体がだるい。街路灯がありがたい。猫が道路を横切る。大根3本は相当に重い。

自宅に着いたのは4時ころだった。着の身着のままでベッドにもぐり込んだ。

 

目を覚まして、鶴岡八幡宮のことをネットで調べたので、それを簡単にまとめておこう。

大阪の河内を本拠にした河内源氏2代目の源頼義が、東北(前九年の役)での戦勝を祈願して、石(いわ)清水八幡宮護国寺(京都)を鎌倉の由比郷鶴岡(現在の材木座1丁目)に鶴岡若宮として勧請(かんじょう)した。その後源頼朝が、今の小林郷北山に移して、周囲には幕府の中枢を整備していった。源氏の氏神として、幕府の守護社とした。

江戸時代に入ると幕府の庇護の下、大規模な施設を充実、僧坊も多かったが、江戸幕府崩壊後、「神主を兼帯していた僧侶に対して還俗する旨の通達」が明治政府から出され、大教宣布(天皇に神格を与え、神道を国教、日本を祭政一致の国家とした)がなされると、廃仏毀釈の動きが加速した。

神仏習合の典型的な宮寺形式の神社で、神主に改名した社僧によって運営されてきた。これで納得した。以前から、お寺のような神社だと思っていたのだ。

ところで、歌人でもあった3代将軍源実朝(頼朝の次男)が殺されたのは、どこだっけ?これで源氏は途絶えたのだった。それに、実朝ときたら金塊和歌集だが、確か、この金塊じゃないキンカイだったなあ。