2013年1月31日木曜日

映画「北のカナリア」

吉永小百合主演の最新作だ

原作は、湊かなえの短篇集・「往復書簡」(幻冬舎)に所収された「二十年後の宿題」

 

題名:「北のカナリア」

20130130 10:40~

キネカ大森

監督=阪本順治

脚本=那須真知子

出演者=吉永小百合、森山美来、満島ひかり、勝地涼、宮崎あおい、小池栄子、松田龍平、柴田恭兵、仲村トオル、里見浩太朗

 

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映画を観るなら東京テアトル系の映画館と決めているので、観る映画を決める制約は厳しい。考えた末に、西友大森店5階のキネカ大森で上映中の映画「北のカナリア」を観ることにした。館内は、私の年齢以上のご婦人がほとんどで、男は4分の1で6人だった。

久しぶりの映画鑑賞で、泣いて、泣いて、どこにこれだけの涙が溜まっていたのか、と思うほど涙を流した。この2、3年、何度も泣いたのに、それでも涙を溜め込んでいたようだ。

原作が「告白」の湊かなえさんで、吉永小百合さん主演と知れば、決心に弾みがつく。浪人中に進む学校を決めたのは、サッカーの一番強い学校だった。そしてその学校には先輩として吉永小百合さんが在学中だった。陰でお慕いする影武者サユリストだった。それでも映画を観たのは「愛と死をみつめて」だけだった。同病者?は私以外にも大勢(おおぜい)居た。ライバルはコマキスト(栗原小巻)だった。

×70.7%本B2 8-12 

映画の粗筋を、映画館でもらったパンフレットをもとに、もっと詳細に感想もまじえて加筆した。それにしても、あれだけ感涙に咽(むせ)びながら観た映画なのに、その感想を文章で著すとこの程度なのかと、筆力の乏しさを実感している。

その前に、この映画を理解するのに、「北のカナリヤ」の作中歌「唄を忘れたカナリア」の歌詞を書き出してみた。そして、今まで何度も口ずさんできたのに、今回初めて歌詞を吟味した。

 

歌を忘れたカナリアは後ろの山に棄てましょか

いえいえ それはかわいそう

歌を忘れたカナリアはは背戸(せど)の小籔に埋(い)けましょか

いえいえ それはなりませぬ

歌を忘れたカナリアは柳の鞭でぶちましょか

いえいえ それはかわいそう

歌を忘れたカナリアは象牙の舟に銀のかい

月夜の海に浮かべれば忘れた歌を思い出す

                  

(詩・西条八十)

 

主人公・川島はるは、余命6ヶ月と医師から告げられた夫と共に、北海道の離島の教師として赴任してきた。彼女が受けもつことになったのは、6人の生徒だった。彼らの歌の才能に気付いたはるは、合唱を通して生徒たちの心を明るく照らしていく。生徒たちは子ども心にも、それぞれに悩みや苦しみを抱えていた。先生が来るまでは学校がつまらなかった、と言う子どもたちに笑顔が溢れ、村の大人たちをも大自然に響き渡るその歌声が優しく包み込んでいった。

そんな時に、心に傷を抱えた警察官が島にやってくる。人知れず悩みを持っていたはるは、陰のある警察官と自分を重ねるかのように心を動かされていく。

夏の或る日、合唱の練習に行き詰まって生徒たちがギクシャクしていると話すはなに、夫は、バーベキューで気晴らしをしてはどうかと、助言をする。その準備に勤(いそ)しむ夫婦と、その様子を陰でうかがう警察官。警察官は、心、ここにあらずの体(てい)で、夢遊病者のように、街を彷徨(さまよ)う。

そのバーベキューの最中に、夫は、警察官がこの島を今日、出て行くことをはなに告げ、はなに警察官とのしばしの逢瀬を示唆する、そして警察官に会って抱擁する。かたやバーベキューの現場では、独唱を指名された生徒がみんなから嫌がらせを受け、その反発にみんなを困らせようと試みたところ、不意に崖から足を滑べられせて、海に落ちてしまった。それを見ていた夫は、助けようと咄嗟に飛び込んだが、夫は死亡して生徒は助かった。

村では、夫が海で藻掻いている時に、はなは男と密会していたと噂が広がった。はるは島にいたたまれずに去った。

教師をしていた離島の分校時代に、担任していた生徒の一人が殺人事件を起こしたと、警察官が突然訪ねてきて告げられた。島を追われるるように去ってから20年後のことだ。

20年前に教師を辞めて、東京で図書館司書として勤めていたが、定年を迎えようとしていた時で、温泉にでも行って、のんびりしようと考えていた矢先のことだった。

はるは、真相を知るために、6人の生徒たちとの再会を心に決め北に向かった。久しぶりに再会した生徒らの口から語られるのは、20年間言えずにいた想いだった。それぞれが抱えていた後悔が大きな傷となり、今も心に残っていることを、はるは知らされる。そして、自身もまた、心に閉じ込めていた想いを明かすのだった。

はるは電話をかけてきた殺人犯の元生徒に、分校のある島に来なさいと勧める。殺人犯は昔の住み慣れた自宅に身を潜めていたところを、同窓生の警察官に見つかり、高い煙突を逃げるように登っていく。旧友から自分の名前を呼びかけられ、顔を見合わせた瞬間、煙突から落ちて気を失う。

妻と幸せに暮らしていたアパートに、突然やってきた妻の前夫の卑怯な行動に抵抗して、殺すハメになってしまった。

意識が覚めて、待っていたのは分校の仲間たち、5人の同窓生と担当のはな先生だった。

そして大団円。

殺人犯は警察の温情で手錠を外されて、懐かしい教室で同窓生たちに囲まれる。はな先生の指揮で「唄を忘れたカナリア」を合唱した。誰もが、面貌や体つきは随分変わったけれど、仲間を気遣う気持ちや友情、先生への思慕は20年前と何も変わっていなかったことを証明するかのように、澄んだみんなの歌声が、雪の山野に響き渡る。

20年、それぞれの人生を駆けてきた。

 

 

ネットで見つけた文章をここに転載させていただきます。

『心に響く聖書の言葉』

(唄を忘れたカナリア)

童謡というのは大正時代に、鈴木三重吉、北原白秋など唱歌に飽き足らぬ文学者や詩人がたちが、「子供等の美しい空想や純な情緒を傷つけないでこれを優しく育むような歌と曲」を与えようと立ち上がって作られた子供のための文学なのです。

西条八十は幼い日、教会のクリスマスに行った夜のことを思い出しながら、この唄を作詞しました。会堂内に華やかに灯されていた電灯のなかで、彼の頭上の電灯が一つポツンと消えていたのだそうです。その時、幼き心に「百禽(ももり)がそろって楽しげに喋っている中に、ただ一羽だけ喋ることを忘れた小鳥であるような感じがしみじみしてきた」と言います。

子供は子供なりに孤独や悩みを抱えているものです。それは昔も今も変わりません。身を以ってそのような子供の心を知る西条は、そのように傷つきやすい子供らの心に希望を与えようとして、この「かなりあ」を作詞したのでした。唄を忘れたカナリアも、自分の居場所を見つけることができれば再び美しい声で歌いだすーーーーー現在の子供にも、ぜひ「かなりあ」を歌って欲しいものです。