2013年1月30日水曜日

元横綱 大鵬死去

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大相撲で歴代最多となる32度の幕内優勝を果たし、一時代を築いた元横綱大鵬の納谷幸喜(なや・こうき)さんが、20130119、死去した。72歳だった。

下に20130120の朝日新聞・朝刊の記事をそのまま、転載させてもらった。私が中学生だった頃から大学を卒業する頃まで、テレビに映る大鵬を家族や友人たち、みんなで観てみんなで応援した。負けて悔しがり、勝っては喜んだ。立居は傲然として寡黙で、強かった。昭和のスーパーヒーロー、みんなの憧(あこが)れだった。眉目秀麗な顔立ちが印象的で、立ち姿が恰好好かった。

記憶に残るのは、誰もが口を揃えて語る柏戸との一戦だ。柏戸の物凄い体当たりを大鵬が受ける。私はその体当たりのたびにお腹に痛みを感じた。土俵の上には火花こそ散らなかったものの腹には電光が走った。怖かった。

横綱として賜杯を抱いた時期は、1964年に開催される東京五輪のために、東海道新幹線が開業し首都高速道路が整備され、地下鉄工事、ホテルやビルの建設ラッシュだった。日本の国民総生産が当時のドイツを抜いて世界第2位になった。日本は、経済成長まっしぐらだった。そして、私が抱いていたささやかな青雲の志は、東京に向っていた。

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1963年の名古屋場所で土俵入りをする横綱大鵬=名古屋市の金山体育館

 

以下は、全て新聞記事からのものだーーーーー。

1面

1940年、樺太(現ロシア・サハリン)で生まれた。56年に二所ノ関部屋に入門し、同年秋場所で初土俵。身長187センチの体で頭角を現し、60年初場所で新入幕を果たした。3度目の優勝を果たした61年秋場所後、当時では史上最も若い21歳3ヶ月(現在は北の潮の21歳2ヶ月に次ぐ歴代2位)で、48代横綱に昇進。ライバルの横綱柏戸と名勝負を繰り広げて「柏鵬時代」を築き、68年秋場所から昭和期以降で当時歴代2位(現在4位)となる45連勝を記録した。

71年夏場所で当時の小結貴ノ花(元大関)に破れ、引退した。全勝優勝8度は最多タイで、横綱在位勝利数622は歴代3位、幕内勝利数746は同4位、その功績から現役時の名前で親方になれる「一代年寄」となり、大鵬部屋(現大嶽部屋)を創設し、元関脇巨砲らを育てた。

77年に患った脳梗塞の後遺症で左半身が不自由になったが、日本相撲協会理事として相撲教習所長などを務めた。

2005年に協会を定年で退職した後は、08年まで国技館にある相撲博物館・館長を勤めた。09年には相撲界で初めて文化功労者に選ばれた。

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評伝 抜井規泰 

「心の上に刃」 努力の大横綱

昭和の大横綱が、逝った。

ウクナイナ出身の父と日本人の母の間に生まれた。端正な顔立ちと無類の強さで、絶大な人気を集めた。取り組みが近づくと、銭湯の湯船から人が消え、テレビのある脱衣所がごった返したという。

1960年代、子どもの好きなものとして、「巨人、大鵬、卵焼き」と称された。大鵬自身は、そう言われることを誇りに思いつつ、抵抗も感じていた。

2010年末、鼻から酸素吸入をしながら取材に応じ、誇らしそうに言った。「長嶋(茂雄)さんや王(貞治)さん全部で『巨人』。『大鵬』は私1人」。

反面、「天才」ともてはやされたスター選手と並列されることには、違和感もあった」。私は天才ではない。努力だけで、ここまできた」。

その猛稽古を弟弟子の二所ノ関(元関脇金剛)はこう話していた。「毎日1時間近く土俵を占領していた。若い俺の方が先にへばっちゃうんだから」。

大鵬は、1961年に横綱に同時昇進した柏戸と「柏鵬時代」を築いた。「剛の柏戸、柔の大鵬」と評された通り、2人は好対照だった。山形の豪農に生まれ育った柏戸に対し、大鵬は極貧の少年期を過ごし、納豆を売り歩いて生計を支えた。ずば抜けた運動能力で「角界のサラブレッド」と評された柏戸に対し、ひたすら努力をして番付を上っていった。

強さの秘密は「やせていたからね」。入門時は身長184,5センチ、体重75キロ。「細い体で勝つために、何でもやった」。

横綱までの5年で約60キロ増やした後も、相撲勘の鋭さや多彩な技が生き続けたのは、技を駆使して活路を切り開いた新弟子時代があったからと話していた。同じく細身で入門して綱を張る白鵬を「似ている。私の優勝回数を超えられるはず」とかわいがった。

引退後に一代年寄となり、部屋をおこした。脳梗塞で倒れ、リハビリに励んだ。しかし後を継いだ娘婿の大嶽親方(元関脇貴闘力)が、2010年の野球賭博問題で日本相撲協会を解雇された。

現役時代から慈善浴衣などの収益金で献血運搬車「大鵬号」を日本赤十字社に贈り続けた。「70台も贈れたのはファンのおかげ」と語っていた。

自身は「忍」という字を愛していた。「心の上に刃(やいば)を載せて生きていく。必死に生きてきた私の人生を、この一文字が表している」。部屋の稽古場には「夢」と揮毫(きごう)した書を飾った。「みんなが書けというから。本当は『忍』と書きたかった。夢は、忍び続けた人生の末に訪れるかどうか。そうじゃないのかね」。

アマチュア相撲に励む孫たちが関取に出世し、いつか部屋を継ぐ。「それが最後の夢かなあ」。穏やかな笑顔で、そう語っていた。

 

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人々が共有できる価値観の象徴であったと思う。

1960年代、野球と相撲は大衆が好むスポーツ娯楽の中央にあり、子どもの弁当には卵焼きが添えられていた。巨人はプロ野球の盟主として存在し、大鵬は大相撲の中心にいた。

巨人には阪神、大鵬には柏戸という好敵手がいた。それでも、巨人、大鵬を卵焼きと並べることで、ライバルとは関係なく万人が認める価値を共有したいという空気があった。

高度成長期という時代背景。長嶋茂雄・元巨人監督がこう話していた。「時代がヒーローを要求し、その波動が長嶋茂雄を作っていったんですねえ」。横綱・大鵬も間違いなく時代が生んだスターだった。勝ち続け、成長し続ける未来が、国民の前に広がっていた。

今、私たちは共通の価値を見いだすことが簡単ではない時代に生きている。だからこそ、「巨人、大鵬、卵焼き」という言葉に郷愁を感じ、懐かしさを覚えるのだろう。

1人の大横綱の死去による喪失感は大きいが、それだけではない。大鵬を失って、時代の残り香のようなものが、すっと消えていく。そんな寂しさを禁じ得ない。

(編集委員・西村欣也)

 

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還暦記念の赤い綱を締め感慨深い大鵬親方=2000年5月31日、東京都江東区の大鵬部屋

 

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朝日・天声人語

敗戦5日後、ソ連軍が南下する樺太から最後の引き上げ船が出る。1500人がひしめく船内に3人の子を連れた母がいた。船は稚内経由で小樽に向かう途中で、魚雷で沈んだ。母親を船酔いにし、稚内で下船させたのは相撲の神様なのか。色白の末っ子は名横綱大鵬になる。

納谷幸喜さんが、72歳で亡くなった。母が生地の北海道から樺太に移り、ウクライナ人と出会ったのも縁だろう。その父親とは戦中に離別、少年時代は道内を転々とし、重労働で家を支えた。

大量の薪を割り、ツルハシで道を直し、スコップで砂利をすくう。険しい山に苗木を植え、柄が背丈ほどある鎌で下草を刈った。腰を入れて体全体で鎌をひねる動作は、得意技のすくい投げにつながる。

32回の優勝は別格だ。ライバル柏戸の剛に対して柔、自在な取り口で受けて強かった。対戦相手は「柏戸は壁にぶつかる感じ、大鵬は壁に吸い込まれる感じ」と振り返る。その姿、その所作静止画にたえる横綱だった。子どもが好きなものを並べて「巨人、大鵬、卵焼き」と言われた全盛期、巨人と一緒は面白くなかったらしい。「有望選手を集めれば勝つのが当たり前。こっちは裸一貫なのに」と。晩年、若手の没個性や、稽古量の乏しさをよく嘆いた。「日本は豊かになりすぎた」

貴乃花が土俵を降りて、きょうで10年になる。大鵬、貴乃花、白鵬。美しく強い綱の系譜はまだ伸びるのだろうか。相撲を取らずとも、ただ見とれていたい力士が少なくなった。

 

 

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日経・春秋

「大鵬さんは、最初から大きくて強かったのでしょう」「天才ですね」。そう持ち上げられるたびに、とんでもないと思ったそうだ。32回の最多優勝記録を持ち、柏戸とともに相撲の黄金期を築いて「柏鵬時代」と呼ばれた。その元横綱・大鵬が、72歳で亡くなった。

自分は天才ではなく努力の人間だと本紙連載「私の履歴書」で語っている。戦前の樺太(現サハリン)で生まれた直後は体の弱い子供だった。貧しさの中、小中学生のころから水くみ、まき割り、もっこ担ぎ、道路工事、さらに営林署に就職後は山中での雑草刈りと、生活のために働く中で体がだんだん鍛えられていく。

16歳で角界に転身したころは183センチ、70キロ弱の体で電信柱と呼ばれた。大学卒の力士に負けたくない一心で稽古に打ち込む。出稽古で初めて戦った柏戸に全く歯が立たず、以後の目標とした。横綱になってからもケガや病気に悩まされるが、再起不能説を何度も跳ね返す。入院中も病室を抜け出し、夜の公園を走った。

むしろ大ケガの後、以前より「淡々とした相撲」を取れるようになったと喜んだ。目の前に現れる困難や壁を常に自分の力に変えてきた。「勝つために稽古し、努力の過程で精神面も鍛えられる。最初から精神ができているわけではない」。なにくそっという根性を最近の力士に感じない。晩年の取材にそう嘆いている。