2011年5月6日金曜日

先輩、八重樫さんが亡くなった

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(朝日新聞より。パスを送る八重樫茂生さん。1968年12月22日、東京・国立競技場)

私が夢遊病者のように早稲田大学ア式蹴球部で、のたうちまわっていた4年間〈1968~1972年)に、大先輩・八重樫茂生さんはよく、東伏見の我々の大学のグラウンドに顔を出してくれた。当時、彼は、日本サッカーリーグの古河電工に所属していた。紅白ゲームに参加して、当然私も参加していたのですが、何やら、こ難しい先輩だなあ、という印象だった。

確かに、当時のサッカープレーヤーとしては、何もかも身に付けた、優秀なプレーヤーだった。彼の足跡は、偉大な成果を残した。早稲田大学でも、古河電工でも、日本代表選手として、メキシコ五輪においては銅メダル獲得した日本代表チームの主将を務めた。

彼が所属したどのチームでも、チームの大黒柱を務めた。人望もさることながら、サッカーに対する愛着と意志の強さが彼を支えていたのだろう。

彼と同年代の選手やチームを後ろでサポートした関係者に言えることは、日本代表を少しでも世界レベルに比肩されるまでになって欲しいという共通の思いを強く抱いていたことだ。皮肉屋の私は、それゃ到底無理だ、と悲観していた。

当時の野津謙・日本サッカーー協会会長の要請を受けて、ドイツから日本代表のコーチに来たデットマール・クラーマーが、サッカーの基本の基本をがっちり教えて、その教え子たちは真面目に忠実に学習、体得した。その教えを、メキシコ五輪で花を咲かせることができた。生真面目な日本人には、ドイツ人のクラーマーとは相性がよかった。八重樫さんたちはクラーマー学校の優等生だった。20110504の朝日新聞の記事で、メキシコ五輪においては、八重樫さんは初戦のナイジェリア戦で相手のラフプレーを受けて負傷、その後の試合には出られなかったことを知った。それで、八重樫さんの訃報を兼ねたスポーツ面での評伝のタイトルは、伝説の主将 不滅の銅、とあった。

クラーマーの申し子が、立派に育ったことは、これはこれで、とっても有難かったのですが、逆に、このクラーマーの教えが、長年、日本サッカーの金縛りにもなったのではないだろうか。

私が大学生だった時、三菱企業グループがスポンサーのダイヤモンドサッカーという番組があって、ヨーロッパのサッカーの試合を毎週、週末夕方に放映されていた。この番組がサッカーを愛する者たちに与えた影響は大きかった。この番組が、サッカーのもつ本来の魅力、妙味、醍醐味、近年ではファンタスチィックという言葉を使うこともあるが、どれだけ多くのサッカーファンの心を虜(とりこ)にしたことか。

当時の私たちは、頭の中ではダイヤモンドサッカーを楽しく理解しながらも、目の前のサッカーでは、八重樫さんのような大選手が、手をとり足を操って、こうしてこうするんだ、なんぜここでこうしないんだ、サイドキックはインステップキックは、なんぜそっちへ走らないんだ、なんぜそんなところにいるんだと指導する、そんな基本的な定則に縛られていたように思う。

個人技を磨くことは、チーム力の核になる想像力や、イメージしたことを活かすことになる。指導を受ける側の私たちは、既に新しいサッカーに目覚め、新しい指導を求めていた。

そういうことで、八重樫茂生先輩は、一時代築いた立派な選手だったけれど、余りにも自己主張の強い性格から、あに図らんや、新しいサッカーへのブレーキ役にもなってしまったのではないか。だから、指導者としては長くやってもらっては困る、と危惧していたら、彼ご自身、そんなことは他人に言われなくても、お分かりだったようだ。

その後、八重樫さんのプレースタイルが、好(い)いにつけ悪いにつけ、どのチームにも模範になった。彼ののポジションから好選手が輩出したのは、日本人の特質もあるのだろうが、八重樫さんの功績でもあると確信する。

黄泉(よみ)の国へ旅立った八重樫先輩、大学での紅白試合中のことです、私のパスが余りにもヘンチョコリンだったことに、呆(あき)れ果てた表情をされたのです。確かに私のキックは、コースにしても強さにしてもまずかった。でも、あんなに口うるさいあなたが、何故、得意の、こうしてああして、と言ってくれなかったのですか。

大丈夫です、40年も前のことです。ますます隔世の感ありのサッカーの発展は続くでしょう、天国から今後もお確かめください。

八重樫茂生先輩は、今の日本のサッカーの土台を築かれた立派な人材だった。