2011年7月28日木曜日

世界最強のでたらめ国家だ

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(高速鉄道が脱線し落下した事故現場。一夜明け、地上では重機で車両(右下)を埋める作業が続いた=24日、中国浙江省温州、樫山晃生撮影 20119725朝日新聞朝刊1面)

 

さすが、中華人民共和国は世界最強のでたらめ国家だ。

細心の注意を払い、用心に用心を重ねていても、種類は違えど、悲惨な事故に遭うことはある。歴史は、二度とそんな惨事を起さぬように、克服する努力の積み上げだ。今回の中国の高速鉄道事故に関しては、やはりと言うか、やっぱりと言うか、そのように実感した人が多いようだ。彼らは、何かが抜けている、何かが欠けていると感じていたのだろう。後々の災禍を予感していたのだ。

この事故に対応する中国鉄道省の処理が、今までの我々の常識では考えられない。

事故から一夜明けた24日早朝から、追突したと思われる先頭の車両の計器類が詰まっている運転席部分を破壊して、その残骸を廃棄物のように、近くの野菜畑にシャベルカー7台で穴をあけて埋めてしまった。友人から聞いた話だが、落下した車両には遺体と思われるのが、まだ処理されてもいないのに、急ぐあまり重機で車両を引きずっていたらしい。早く隠したかったのだろう。又、死傷者を全員保護したと政府の発表があってから12時間後に子どもが救出された。遺体が入ったまま、車両を埋めたとも地元で流布されたようだが、そんなことだって、あり得るのではないかと思う。

日本が半世紀かけて作り上げたものを、ほんの数年で、施設や車両、安全装置などを整え、運行できるまでになった。外国からの技術導入に頼った部分が大半だが、日本らが長年に亘って磨き上げてきたモノと、同等のモノを短期間に作り上げるには相当無理があったのだろう。日本からは、車両と運行管理、信号の3点をセットにしての売込みだったようだが、中国側はそれを受け入れなかった。この大事故以外にも、各所で、不具合、混乱が頻発していると聞く。

この車両を埋めている作業が報道され、政府は猛烈に批判を受けた。我々の常識では、原因が完全に究明されるまでは、事故を起こした車両は保存しておくものだ。

その批判に応えるかのように、今度は掘り起こしたのである。埋める際に破壊したのだから、掘り起こされたものは、ただのクズ鉄にすぎない。何をこのクズ鉄から調べようとするのだろう。こんな馬鹿げたことを本気でやる、というのが怖いのだ。バカでもアホでもない、本気で狂っているのだ。

事故から1日半後、事故原因の正式な発表もないまま、事故現場を高速鉄道は走り出した。兎に角やることが早い。

こりゃ、無茶苦茶や。

どこの誰が、このような指示を発するのだろうか。今でこそ外国の報道関係者でも規制は受けるが取材できるようになった。以前は、取材はさせないで、国(共産党)のやりたい放題だったのだろう。自国に都合の悪いことは隠す。今回は、事故に遭遇した乗客がマイクロブログに書き込んだことで、事故が明るみに出る発端になったそうだ。

今朝20110728の新聞では、中国では怒りを隠さぬ市民が、ツイッターやミニブログで政府の事故対応を批判している様子や、デモが行われたが、抗議に理解を示す警官たちはデモを阻止することもなかった、むしろ市民に同情的だった、と報じていた。

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これからは、20110725の朝日新聞の朝刊1面の記事そのものです。

中国浙江省(せっこうしょう)温州市で23日夜に起きた高速鉄道の脱線事故は、落雷による停電で緊急停止していた同省杭州発福建省福州行き高速鉄道D3115号に北京南発・福州行きのD301号が追突した事故だった。合計千数百人とみられる乗客のうち、外国籍2人を含む43人が死亡。(山岡追加=その後の報道では、死者は増えているそうだ。)

国家の威信をかけて建設し、最高速度や営業距離で世界一を誇る高速鉄道で多数の死傷者を出す事故となり、共産党政権に衝撃を与えている。胡錦濤国家主席は24日、調査と被害者の慰問のため、張徳得副主席を現地に派遣。上海鉄路局長ら3人の幹部を免職した。

事故原因について、中国鉄道省「落雷が設備故障を引き起こした」と説明し、詳細は「調査分析中」と述べるにとどめた。

中国の高速鉄道車両は日本の新幹線のほか、独仏、カナダから技術を購入、国内で製造している。停車車両はカナダから技術を導入した「CRH1」、追突したのは日本の東北新幹線はやてをベースにした「CRH2」型とみられる。いずれも最高速度250キロ仕様で、北京ー上海などを走る同350キロ仕様の車両とは異なる。落下した車両はすべて追突した列車だった。

中国は2005年、在来線の高速化を含む高速鉄道網の建設に着手し、07年に上海ー杭州線などから開業。日本の新幹線網の約4倍にあたる9千キロ以上の路線網を築いた。