私に以下の文章を綴る気を起こさせたのは、朝日新聞の社説と天声人語だった。私は新聞の記事を読んで、怒ったり、反論したり、歓喜や悲嘆の涙を流したり、喜んだり、そんな日々を豊かに過ごさせていただいている。そんな新聞と私の関係を著しておくことを、080829の社説を読んで思いついたのです。その後、私と新聞の馴れ初めを告白することにする。
河野洋平衆議院議長が、かって宮沢喜一内閣の官房長官として、村山富一総理も同じ内容で旧日本軍の慰安婦問題や大陸に侵犯したことについて、真摯に日本の行為を時の政府コメントとして謝罪した。河野談話、村山談話と言われているものです。そのコメントの内容は私の心を強く打った。これで、戦後からの隣国との不幸な関係は終わって、新たな友好のスタートを切れるものだと思っていたら、あにはからんや、小泉とか安部とか不思議な政治家が総理になって、改善されるどころか、隣国を逆撫でするように、友好のネジは逆に巻かれた。靖国参拝、慰安婦問題、沖縄集団自決についてです。直近では下村副官房長官が、河野発言を見直さなくてはならん、なんて発言した。その前には、安倍元総理の慰安婦問題発言では、アメリカの議会からお灸をすえられ、現在の政府も河野談話を尊重しています、と急転回して平謝り。安倍元総理を含めた中川昭一たちは、慰安婦には日本軍が関わったことを証明するものはない、とか言い張っていた。沖縄の集団自決にも、軍は関与したことは認められない、とか。それで、一旦は教科書から削除された。そのことを知った沖縄では大県民大会を開いて、抗議した。これらの諸問題については、私のこのブログの別の項でとりあげてきた。
その当の河野洋平氏、今は衆院議員議長という、立法府の議長にありながら、政治の諸事に自説を主張されていることに、心のうちで快哉を叫んでいた。新聞は、その河野議長のかっての談話の内容について高く評価した。今回(080829)の社説「議長の発言・率直な河野流を買いたい」では、河野氏の議会外での言辞を支持している。今回の社説にしても、私が思ったことと同じ内容のことが、文字になり記事になった。そうなんだよ、そうだろう、と私も気丈夫になる。私は、そんな記事と歩調を合わせて生きたい、と思うのです。この社説は、この一番後ろの部分に添付しました。
私は毎朝、自宅に新聞が届けられるのを楽しみにしている。配達する人の都合などで、いつもよりほんの少しだけでも遅れると、居ても立ってもいられなく、家の中を檻のなかのライオンのようにうろうろして、果ては家人に新聞屋さんに電話させるのです。家人は新聞屋さんに恐縮しながら、「まだ配達されていないのですが、ーーぐじゅ、ぐじゅー」。家人は、言外に「ほんとは、少しばかり遅れてもかまわないのです。主人がうるさくてしょうがないから、電話したのです。そんなに気にしないでもいいですよ」、とでも言いたげに、私には聞こえるのです。犬の散歩を終えて、新聞を見ながら朝食をとる。昨日の朝刊と昨夜の夕刊をもって、ハブ、ア、朝風呂です。風呂に持ち込めば、新聞はぐべちょべちょになるから、その日の朝刊は、家族用に手をつけません。昨夜の酒っけを抜くために湯の温度を上げます。そうすると、汚い汗が臭いをともなって噴出すのです。できるだけ細かく読みます。だらだら、と。長く読めば、たくさんの汗がでる、酒っけが抜けて、しゃきっとした頭がもどるのです。会社に出て、同僚が私の知らない記事を話題にしたときは、ショックです。私には、新聞を完全に読みきっている自負があるのですから。
ここまでが、現在の私の新聞との関わりで、これからは、「私が何故こうなっちゃた」の巻きです。
何故、こんなに新聞が好きになったチュウか、中毒気味にまで侵されてしまったか、ということについては、高校生時代に遡らなければならないのです。私の生まれた村に近い大きな町といえば宇治でした。生家のある村は、山間谷間の寒村でした。そんな村で、立派に育った、タモツ少年は、山猿そのものでした。小学校と中学校はこの村にありました。私が小学校の低学年の頃、町制に変更された。宇治田原村と田原村が合併して宇治田原町になったのです。学校へ行くときには、ちゃんと服を着ていくのに、帰り道は夏なら裸で、冬なら服にいろんなものもの飾りつけたり、手製の刀や槍を身につけていたそうで、近所の人からは元気モノと見られていた。現実に、元気過ぎて年上の子供や、同級生たちには、随分迷惑をかけたようだ。本人にはその自覚がないのですが。
宇治にあった府立城南高校の普通科に進学した。すぐにサッカー部に入部した。美人と天才が生まれたことがない学校でした。が、私にとっては自由奔放に過ごさせてくれた貴重な高校だった。実家は専業の百姓だったからか、我が家では勉強というものに重きを置いてないどころか、勉強を馬鹿にしている風でもあった。感謝すべきは先生、先輩、後輩、友人だ。校風が、私にぴったりだった。
高校の3年間で、サッカーに入れ込み過ぎた。だからと言って、サッカーでいい成績をあげられた訳でもないのです。成績は、全然ダメでした。特別優秀な生徒ならば、文武両道、スポーツも勉強もなんでもかんでもきちんとこなすのでしょうが、私にはそんな難度の高いことはできなかった。英語も数学も、日本史、世界史、政治経済も、化学も生物、物理も、そんなに何もかも無理だったのです。そこで、私は、国語関係の現代国語、古文、漢文の勉強を省いた。この国語関係では、学習のために時間を費やさない、と覚悟したのです。中間テストの時も期末テストの時も一切復習はしなかった。どういうわけか、現代国語と古文、漢文の3教科を同じ先生が担当で、それも3年間も。ラッキョのような顔をしたその先生は、登山の顧問でもあったのですが、出席をとらなかったのです。授業に出たくない奴は別に出なくてもいい、ただし、最低の点数以上は採らないと、赤点にする。なんじゃかんじゃと言って来ても妥協はしない、追試は行わない、という原則だったのです。私は、そのことをいいことにして、サッカー部の部室でひたすらボールにワックスを塗っていた。裏山で煙草を吸ったり、部室で音を出さないでエレキギターを弾いたりしていた奴もいた。私は、ワックス塗りが終わったら、サッカーの雑誌を読んで過ごした。ここまで書くと、よっぽどサッカーが好きで、さどかし上手だったのでしょう、と想像されるでしょうが、その点は、客観的に見ても、情けないほどみじめなものでした。高校を卒業してからの1浪中も2浪中も、参考書を開けたことはなかった。結果、漢文は全然ダメ、古文は雰囲気だけしか解らない。
その代わり、新聞だけは精読しようと決めたのです。紙面に並んだ漢字の読み書きや文章の意味を確かに理解すること。内容については、学校の教科書よりも、身近な出来事が多く、教科書のように面白くない文章をダラダラ読むよりも、興味深い内容のものが多かったから、楽しかった。全ページを読んだ。文学ではないので、難解な文章はない。誰もが読みやすく、解りやすい記事でも、全ページは当時の私にとっては大変な量だった。が、文章で使われている漢字くらいは、憶えなくてはと、憶えようとする漢字を、何度も書いて憶えた。内容は兎も角、読む癖をつけた。
新聞に興味を持ち始めたのは、中学時代からだ。中学3年生のときの国語の先生が、自分の知り合いに新聞記事の気に入ったところを、原稿用紙に清書している人がいるのです、と話してくれたことが頭に残っていたのだ、と思う。その頃から、新聞に興味を持ったのでしょう。先ず、社会面の左上の漫画だった。時には、この漫画も難しいものがあった。私だけしか、理解できないの、と悄然としたこともしばしば。それから、スポーツ面だった。京都府峰山高校出身の野村克也の活躍には心躍らせた。政治、経済においては、大人はなにやら、大変なことに、一所懸命頑張っているのだ、と感心するだけで、その内容は理解できなかった。
そして、ほぼ50年後、今から10年ほど前に、朝日新聞で報じられたのです。川崎の人で、その人は朝日新聞の毎日の社説と天声人語を400字原稿用紙に書き写しているとの内容でした。その人は、清書しながら、文章を吟味し、構成を学び、大変勉強になりました、と。そしてその人は学習の成果として、自分の文章を本にできるまでのレベルにやっと達することができました、と語っていると報じていた。この新聞記事の内容は、私には大変インパクトがありました。
そして、私の「新聞好き」が新たなステージに入るのです。
私が日ごろ考えていた事柄が、紙面にうまく整理された文章で載ったときなど、私は我が意を得たり、とニンマリすることがあるのです。これが、嬉しいのです。スポーツ、とりわけサッカーの試合などの辛口批評や、選手の一人ひとりのプレー分析など、私と同じ考えだったときなど、筆者の潮智史さんや忠鉢信一さんは立派な記者だ、と勝手に賞賛させていただいている。解説者のセルジオ越後さん、金子達仁さんには感心させられ放しだ。前の4者が書く記事には、私のサッカー感は共振するのです。政界においても、妥協の産物を不承ながらも、認め合うことが多いなかで、正論を頑として主張する政治家のことを、社説等の記事で持ち上げているのを読むと、私も同調者でゴジャルと胸を張る勇気をいただくのです。この一番前の部分で触れた、河野談話関係などがその一例です。
私が、一番打ちのめされ易い記事に巡り合ったときの幸福感は、なかなかいいものです。弱い者、ハンディを乗り越えて頑張っている人の記事、艱難困苦、事情があっても障壁を乗り越えて頑張っている話、そんな実話が私の全身全霊、体を戦慄(わなな)かせるのです。弱者を助け、正義を貫く、悪事、虚偽を諌(いさ)める、どこまでも民主的であること、そんな記事を、今後もワ・タ・シは読み続けたい。
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(080829)
朝日社説
議長の発言/率直な河野流を買いたい
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河野洋平衆院議長の、このところの積極的な発言が注目される。
ひとつは、全国戦没者追悼式での式辞だ。63回目の終戦の日に「特定の宗教によらない、すべての人が思いを一にして追悼できる施設」を真剣に検討するよう政府に求めた。
小泉政権時代、首相が靖国神社への参拝を繰り返し、中国など近隣諸国との外交がおかしくなったのは記憶に新しい。国内でも論争を巻き起こした。
戦争で亡くなった人々を、だれもがわだかまりなく追悼できる施設がほしい。当時、官房長官だった福田首相に有識者の懇談会が提言した「無宗教の追悼施設」は、そんな考えに基づく。
首相が参拝を控え、近隣国との関係も落ち着いてきた今こそ、この議論を詰めたらどうか。これが河野氏の言いたかったことだろう。
同じ式辞の中で、議長は領土問題にも触れ、「互いに内向きに領有権を主張するばかりでなく、真摯に向き合い、話し合いによる解決を」と述べた。韓国と争いになっている竹島が念頭にあったのは間違いあるまい。
いずれも、中国などアジア諸国との関係を重視してきた河野氏の信条に根ざした発言なのだろう。
これに対し、中立であるべき議長なのに特定の立場を表明するのはいかがか、時と場所をわきまえていない、という意見もある。
しかし、そうだろうか。
議長が議会運営に当たって与野党の主張をくみ、公平に差配するのは当然のことだ。その立場から、言動に一定の自制が求められるのも確かである。
だが、だからといって、国の基本的なあり方について、立法府の長が自らの思いを語ることまでしばられるべきではなかろう。
戦争の反省を踏まえ、追悼のあり方や近隣諸国と良好な関係を持つ重要さを説くことが、追悼の場にそぐさないとも思えない。
河野氏は、小泉時代の06年の追悼式でも「戦争責任をあいまいにしてはならない」と発言した。三権の長のひとりが、そうしたメッセージを内外に向けて発した意味は大きかった。
もうひとつは、G8の下院議長会議を広島に誘致したことだ。米国のペロシ下院議長にも直談判し、来月2日の会議出席に快諾を得たという。
原爆投下をめぐっては、それを正当化する米国の認識と日本との間に大きな開きがある。現職大統領のひとりとして被爆地を訪れたことがないなかで、大統領継承順位3位という、これまででもっとも地位の高い下院議長を招く意義は大きい。
議長というと、議会の公正な行司役といった役ばかりに目が向きがちだが、批判を恐れず、率直に信念を語るという議長像もあっていい。