2008年9月12日金曜日

新聞拾い読み5話

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(080812)

朝日朝刊

①体操「美しさ残して」

編集委員・潮智史

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「難しさばかりを追い過ぎている。体操に美しさを残してほしい」。(北京五輪)開幕直後、国際体操連盟(FIG)のグランディ会長が唐突な批判を選手に向けた。10点満点から上限なしへと採点方法が変わって初めての五輪で、その新採点方法が物議を醸している。

得点の上限をなくしたことで、簡単にいえば、大技をより多くをこなせば得点は伸びることになった。選手は完成度を後回しにして、演技に大技を詰め込む。これまで以上に体力も必要になった。「難度を求める部分と出来栄えを求める部分とのバランスをどこまで取るかという難しさに、頭を悩ませることになった」。FIGの加藤沢男・男子技術委員は選手に同情的だ。

全種目をこなす個人総合で68,72年と五輪を連覇した元王者はさらに「単種目化の傾向が進むのではないか」と心配する。12日の男子団体決勝(全6種目)は、1チーム6人から各種目3人を選んで演技し、3人の合計得点で争われる。新採点方法同様、この競技方法も種目ごとのスペシャリストを育てる、ここ10年の流れを加速しかねない。オールラウンダーとして8個の金メダルを手にした加藤氏は「体操が陸上競技のように細分化されていくのではないか」と寂しげだ。

団体予選を首位で通過した中国は、バランスよくスペシャリストを採り入れてきた。一方、日本では、全種目をこなす総合王者を評価する風土がまだ根強い。その分、スペシャリスト育成という世界の流れに遅れをとるジレンマを抱えながら、団体決勝で中国の背中を追いかけることになる。

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(080831)

朝日朝刊

②イチロー40盗塁/力を「抑えながらです」

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「いろいろ(手を)抜きながらやっていこうと思う」。マリナーズのイチローは開幕前に話したが、盗塁もそのうちの一つだ。

29日のインディアン戦の1回、三盗を決めた。今季40個目の盗塁は、ア・リーグの盗塁王争いで2位。首位のエルズベリー(レッドソックス)とはたった1差だ。だが、イチローは言う。

「(力を)抑えながらですね。盗塁の数に関しては、やりすぎないように、という感じかな」

一つでも多くのタイトルを、という貪欲さがイチローの美学にはない。過去にどれだけ多くのシーズン盗塁を成功させた選手がいたとしても、イチローは「目いっぱいやってたんでしょ?目いっぱいやったら、いかんわね」。彼にしか分からない野球観だと言える。(クリープランド=山田佳毅)

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(080803)

朝日朝刊

「天才バカボン」「おそ松くん」

③赤塚不二夫さん死去

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「シェー!」「これでいいのだ!」「ニャロメ!」など数々の流行語を生み、「おそ松くん」 「天才バカボン」などで笑いのブームを巻き起こしたマンガ家の赤塚不二夫(あかつか・ふじお、本名赤塚藤雄)さんが2日、肺炎で死去した。72歳だった。葬儀の日取りは未定。喪主は長女りえ子さん。事務所兼自宅は東京都新宿区中落合1の3の15.

中国東北部(旧満州)生まれ。新潟県内の中学を卒業後に上京。化学薬品工場の工員をしながらマンガを描き、56年に貸し本マンガ「風をこえて」でデビュー。石ノ森章太郎さんら多くのマンガ家が住んだアパート「トキワ荘」で本格的な創作活動を始めた。

58年、初の月刊誌連載となった「ナマちゃん」を「漫画王」に発表。62年に六つ子を主人公にしたドタバタギャグ「おそ松くん」を「週間少年サンデー」に、変身願望をくすぐり少女漫画「ひみつのアッコちゃん」を「りぼん」に連載して人気マンガ家として躍り出た。

67年、前衛的笑いの集大成「天才バカボン」と、”反体制的ネコ”ニャロメが登場する「もーれつァ太郎」が連載開始。多くの作品がテレビアニメ化され、一大ブームを巻き起こした。02年に脳内出血で倒れて以降は、東京都内の病院で、意識が戻らない闘病生活を続けていた。

65年に「おそ松くん」で小学館漫画賞、97年に日本漫画家協会文部大臣賞を受賞した。

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(080831)

朝日朝刊・天声人語の一部

④戦争被害者

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広島原爆の日、山口県下松市の集会に野坂清子さん(79)は姿を見せた。市原爆被害者の会の会長を務め、毎回出席している。「私たちにはもう何もできません。ただ体の続く限り、こうやって集会に出るだけ。あの日を風化させないように」

横浜市に住む成田富男さん(78)は、自作の紙芝居でシベリア抑留の苦難を伝えている。40枚の絵をめくった後、「日本に帰ってうれしかったのは、戦争をしない国になっていたことだった」と話を結んだ。

細菌戦で知られる731部隊の隊員だった千葉県の篠塚良雄さん(84)は各地で証言集会を開いてきた。「部隊にいたころ、考えることをやめていた。自分の行動の意味を考えれば気が狂ってしまう」。自分達がしたことを闇に葬るわけにはいかない。そんな一心で全国に足を運ぶ。

盛岡市の駒井修さん(70)の父親は、捕虜虐待の罪で戦犯として処刑された。息子として謝りたいと昨夏、被害者の元英兵に会い、手書きのカードを手渡された。「過去を悔やみながら振り返らないでください。二度と帰ってこないのだから。現代を賢く改善してください。未来に向かって恐れず進んでください」とあった。

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(080814)

朝日夕刊・窓/論説委員室から

⑤戦後はつづく

〈三浦俊章〉

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あす8月15日で、戦後は63年になる。63年たっても「戦後」という単位で時代を測っているのは、日本ぐらいだろう。ほとんどの国では「戦後」とは復興を果たした1950年代までのことだ。米国人に聞けば、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争と多くの「戦後」がある。

実は日本人だって、これまで何度も「戦後」を終わらせようとした。

高度成長の幕開けの頃、56年度版経済白書は「もはや『戦後』ではない」と宣言した。80年代は当時の中曽根首相が「戦後政治の総決算」を掲げた。最近では安倍前首相は「戦後レジームからの脱却」を説いた。しかし、いずれも歴史の物差しを変えるまでに至らなかった。

なるほど憲法を始めとする戦後改革が今も日本社会の大枠であることを考えると、時間軸は連続している。

だが、それだけだろうか。「戦後」が終わらないのは、日本人の心の中で「戦前」も終わってないからではないか。

日本は戦後50年の村山首相談話で、戦前の日本が国策を誤り、多くの国々に損害と苦痛を与えたと謝罪したが、肝心の「国策の誤り」とは何であったのかは、あいまいなままである。

日本近代の歩みをどうとらえるか議論が深まっていないのに、その後に続く時代に区切りをつけるなどできるのだろうか、と疑問に思う。

かくして長い「戦後」が続いている。37年後の2045年には「戦後100年」を語るのだろうか。