2019年6月1日土曜日

ハマのメリーさん

  
20190529の朝日新聞・夕刊の記事(★)を転載させてもらう。

この「ハマのメリーさん」に最初に会ったのは約40年程前、横浜駅前にある天理ビルのエレベーターで二人っきりになった時のことだ。
本社は池袋だったが、横浜勤務を命じられ20階の事務所兼営業所に務めていた。
その時は、余りに特異(妖怪、妖鬼?)な人だったので、エレベーターを乗り降りしていた間の緊張感は大変なものだった。
悪戯(いたずら)な言い方は許されないだろうが、寒気を催したのだ。

私は山野と茶畑、水田だけしかなかった田舎の出だ。
東京での私の学生生活は、高田馬場駅から大学構内までと校庭の一部。
それに、グラウンドは西武新宿線の東伏見駅に近くにあったから、その界隈だけ。
その世間なら多少は知っていても、貧困学生だった私には、化粧をばっちりしたお年寄りには縁がなかった。
サッカーの練習とクラス討論会だけに心身は破戒寸前だった。
お金を持っていないヤマオカも、私の品性の一部だった。



上の写真は(横浜の街に立っていたメリーさん=1990年代、写真家・森日出夫さん提供)

会社に戻って同僚たちに、このお年寄りのことを話して、初めてメリーさんのことを知った。
皆からは、物事の知らない私を笑止千万(しょうしせんばん)、楽しく笑ってくれた。
各人が各様に、彼女のことを話してくれたけれど、一向に私には理解できなかった。

それから、関内駅、伊勢佐木町や福富町、桜木町駅界隈でも通路を歩く姿や、ビルの壁に寄り添っている姿を見ることはあった。
それっきりに彼女のことを忘れ去っていたら、女優・五大路子さんが、メリーさんを主人公にした芝居をやりだしたことを新聞で知って、記事になる度に興味を持った。
私の知らないメリーさんの行動をもっともっと知りたくなり、女優・五大路子さんの強引な発意に、何故、どうしたのだろう?と思うようになった。




上の写真=五大路子さんが見つけた手紙
下の写真=稽古をする五大路子さん(横浜市)


★「ハマのメリーさん」
   直筆の手紙見つかる

白塗りの化粧に純白のドレス。
そんな姿で横浜の街に立ち、「ハマのメリーさん」と呼ばれた女性の直筆の手紙が見つかった。
親交のあったシャンソン歌手に宛てた晩年の文面で、メリーさんを題材にひとり芝居を演じてきた俳優・五大路子さん(66)が見つけた。
映画や歌のモデルにもなったメリーさん。
戦後社会を生き抜いた女性の率直な思いがつづられている。

親交あった歌手へ 横浜への思いつづる

「彼女は、私たちが思い出したくない過去や、認めたくない現実を一身に背負って街に立っていたのではないか」と五大さん。
今年3月、メリーさんの支援者で、五大さんにとっても舞台活動の理解者だったシャンソン歌手の故・永登(ながと)元次郎さんの遺品を整理中、衣装箱から手紙を3通見つけた。

「伝説の娼婦」といわれたメリーさん。
親交のあった人たちの話によると敗戦後、神戸に出て進駐軍の米兵相手に袖を引いたが、やがて将校と恋に落ち、一緒に上京した。
だが、将校は帰国。
独り身になったメリーさんは横浜に居つき、伊勢佐木町や馬車道などに立った。
老いてからは雑居ビルのエレベーターホールや廊下で寝泊りする日々。
好奇の目にさらされつつも街の名物となり「ハマのメリーさん」と呼ばれるようになった。

メリーさんは1995年、横浜から突然いなくなり、故郷の中国地方に戻り、養護老人ホームに入った。
封筒の裏には本名が書かれ、入所先のホームから投函されていた。

一字一句、丁寧な字。
「どんなことが有ってもご健康が一番大切ですから、良く御充分に御気を付け遊ばしませ」(2004年1月)とがんを患った永登さんを気遣ったり「私早くもう一度横浜市に帰りたくてたまりません」(同年6月)と横浜への思いをつづったりしていた。
金銭的な支援へのお礼も書かれていた。
メリーさんが亡くなったのは翌05年。
84歳だったという。

横浜に生まれ育った五大さんが初めて出会ったのは1991年5月、「横浜開港記念みなと祭」の審査員席に座っていたときだ。
ふと左斜め下を見ると、腰をかがめながら大きな荷物を持っているメリーさんがいた。
歌舞伎役者のような白塗りの顔。
濃いアイシャドー。
だが、気品あふれる雰囲気に、ハッと息をのんだという。

「『あなた、あたしをどう思うの? 答えてちょうだい』と問われているようでした。
あの白い化粧は、何かを演じるための儀式だったのかもしれません」と五大さん。
脚本家の杉山義法さん(故人)と一緒にメリーさんをモデルにした芝居作りを始め、「横浜ローザ」という題名で、東京・三越劇場を皮切りに96年からひとり芝居を演じるようになった。
今年も31日から6月4日まで上演。
横浜赤レンガ倉庫1号館3階ホールが会場になる。

焼け野原になった敗戦後の日本。
生きるために家族を養うため、夜の世界に身を落とし、やむなく体を売った女性もいた。

五大さんは言う。

「メリーさんは街娼として誇り高く生きた女性でしたが、悲しい歴史を忘れることはなかったのではないでしょうか。
『私は一体だれ?』という問いは、令和になっても生きています。
今回の芝居では、見つかった手紙をもとに新たなメリーさん像にも迫りたい」

(編集委員・小泉信一)