2019年6月15日土曜日

義父の法事で学んだこと



20190526(日)
10:30より京都の5条烏丸東の西念寺で、義父(妻の父)=小松良一(この後、義父と書かせてもらう)の33回忌の法事に参加した。
新幹線で京都駅に着いたのが09:30、お寺まで京都駅から歩いて、20分ほどかかった。

道々、古い京都の街並みや各商店の品揃えや職人さんの働きぶりをゆっくり見られた。
古風豊かな寺社関係のお店の職人さんたちには、訳の解らない一見物人に見えただろう。
東本願寺(お東さん)の前を通ったが、その通りには和尚さんが使う衣装や数々の仏具を売る店、染物屋、遠く離れたエリアからの参詣者用の宿がいくつもあって興味が湧いた。
中古住宅の玄関に掲げられた掲示板にしても、これから9人が宿泊できる旅館を作りたいと告ぐものが掲げられていた。
易く泊まれるこの小規模の宿泊施設も、この本願寺界隈では貴重なようだ。
我々、横浜に住んでいる人間には、珍しい光景だった。

思えば、この33年間は長かった。
私の近縁では、33回忌までやるのは初めてのことで、頗(すこぶ)る関心した。
それよりも、何よりも、法事というモノについて何も知識がなかった。

33年前だとすれば、亡くなったのは1987年の5月、昭和62年になる。
病気は癌、満62歳だった。
義父が体の不具合を言い出した時には、癌が随分進んでいて病院に通い出してからは、見かける第三者には辛かった。
それにしても、62歳は若過ぎたワ。


法事のことを、ネットで知ったことをここに著しておこう。
法事を責任もって行おうとするものを、施主と呼ぶ。
法事をつとめる人の中には、法事は先祖供養のためだと思っている人がいますが、そうではありません。
お釈迦さんは、死んだ人の周りでお経をあげたところで、死者が浮かばれるものではないと教えられている。
法事をしたからといって、死者がよりよい世界に生まれるわけではではないのです。
では、何のために法事をするのかというと、むしろ法事をする意味は、亡くなられた人のためではなく、法事を営む人々のためのものです。
その法事をご縁として、今生きている人も、やがては必ず死んでいかなければならないことに気づかされます。
亡くなられた人をご縁に、自分もやがて死ななければならない。
という無常を見つめるご縁になるのです。

今回、この西念寺の和尚さんは念仏を口語文で唱えあげた。
お坊さんに確認すべきだったのだが、上で述べたような結果、「弥陀たすけたまえ」から、やがて、「たすけてくれて有難うございました」に変わってきたのだろう。
仏教のことを何も知らない私が、「念仏者はすべて平等である」と唱えられているように感応した。


昭和61年は、チェルノブイリ原発事故、スペースシャトル「チャレンジー号」の爆発事故、ハレー彗星の大接近、三原山の大噴火があった。
昭和62年には石原裕次郎が、翌々年には美空ひばりが両氏とも52歳、癌で亡くなった。
当年、翌年と色々あった年だった。

参加者は義父の子供と子供たち夫婦、その夫婦の子供たち、義父の甥(おい)叔母(おば)。
参加者の総人員は20人ほどだった。
義母は92歳の高齢で、今は横浜の我が家で私たちと同居している。
足腰が弱く、法事の為に横浜からはどうしても無理で、出席できなかった。
私が家を出ていく際に、義母に「貴女(あなた)の夫の33回忌に、京都まで行ってきます」と声を掛けた。
嬉しいのか、嬉しくないのか、「ご苦労さん」とだけは言った。
私の妻(長女)が介抱しているので、妻も出席できなかった。
よって、この法事についての責任者は、妻の弟(長男)がなしとげた。

会食=「お斎(おとき)」が、鴨川に沿ったところの料亭だった。
「お斎」の「斎」という字は、仏教用語「斎食(さいじき)からきている。
結婚式や披露宴などにも随分使われているような、古風で高級感に溢れた料亭だった。
法事での会食を「お斎」と言うらしい。
施主の長男がみんなに、会食開始のご挨拶をし、私がカンパイと言って飲み物を注いだ杯とグラスを胸の前から上に掲げた。
それから、何時間か?お斎は進んだ。

その料亭のお店の名前は、問題があると困るので、明らかにするのはやめましょう。
鴨川の流れを眺めながら爽やかな心地よい風を味わえ、初夏の京都をう~んと楽しめる立派な料亭だった。
大きい広間の各席に出された料理は、鮎や鮒、鱧、夏の京野菜など、この季節ならではの食材をふんだんに使った絶品の数々。
お酒はいくらでも用意してくれた。
私は、他人のことなど意に介せない無器用者ぶりを大いに奮い立たせて、誰よりも誰よりも大いに飲んで、好きなことを喋らせてもらった。
みなさん、すまなかったです、御無礼を謝ります。
最後の挨拶は、施主の息子が行った。

葬儀の日のことを思い出してみた。
33年前の葬儀の日、少し雨が降って、私の4人目の子がまだまだ幼女のままの身勝手なところがあって、私は傘を差しながら、4人目の子どもを抱きかかえて寺の外回りをうろうろしていたのを思い出す。
私の両手を振り払うよにして、掌(てのひら)を大きく広げ雨の滴に触れていた。
そんな33年前だった。
きっと私は36,7歳だったのだろう。
私の長女、長男、次女は寺の中で、和尚さんの読経その他の仏事を神妙な顔をして接していたのだろう。
義父の死は、癌があっちこっちに転移して、死を遠からず近からず覚悟していたので、大涙をたらたら流すような悲しい光景はなかった。
義父が勤めていた会社の「社葬」然にしていただいたので、有り難かった。

私は横浜・保土ヶ谷に住んでいて、義父は京都・北区紫野に住んでいた。
義父は日本酒が好きで、魚釣りが好きで、このことに関しては少しばかりの思い出がある。
画像
上の写真はハゼ科の「ゴリ」です。

和尚さんが法事の式次第の一部として、皆さんの中で小松良一さんとの何かが心に残っているようなことがあったら、皆さんに話してくれませんかと尋ねられた。
「お斎」は、参列者全員で食事をしながら、思いで話をして故人を偲ぶ目的もあるのです。
二番目の話し手として私が指名された。
私は義父が横浜に来た時に、喜んで行った彼方此方(あっちこっち)での魚釣りのことを話した。
その話で一番強調したのは、先ずゴリだった。
ゴリ編は京都の巻だ。

日本の各地にゴリと呼ばれている魚は幾種類もいることを、ネットで知った。
ゴリは吸盤状の腹ビレで川底にへばりつくように生息している。
確かな記憶ではないが、滋賀県の琵琶湖西岸の安曇川に行ったと思っている。
私にとって初めての河だけれど、義父にとっては長年の良域だったようだ。
釣りではなく台所で使う網を川上で持って、適当な石を取り除いては、川下からその場の底に身を潜めていたのを掬(すく)うのです。
そんな掬い方?がゴリ釣り!だ。
2時間ほどで、小さなバケツの2分の1ぐらいは採れた。
そろそろ終わりに成りかけた頃、義父がバランスを壊して顏の一部が小さな石に触れ、血が流れた。
ちょっとでも血などを見ると、仰天してしまう私には大きな出来事だったが、義父にとっては何てことのないものだったようだ。
気にすることなく、ゴリ採りを躊躇(ちゅうちょ)することなく続けた。
義父は、こと魚釣りに関しては強引・剛直・欲張り!だった。
見た目にはそんなに恰好の好い魚ではないが、甘辛く煮たものは、なかなか妙味で私の好物でもあった。

横浜編の魚釣りは、先ずは葉山町森戸海岸の少し出っ張っている岩に腰を掛けて釣竿を張った。
私の大学時代のサッカー部の先輩が、ある電機会社の保養所の責任者だったので、家族と義父とはそこで寝て、食事をした。
敷地内にプールもあって、私たち家族には最高のレジャー施設だった。
孫を海に連れ出して遊んでくれることはあったが、海と言えば釣り場所だった。
砂浜や岩肌から釣果にかかわらず身動きしなかった。
保養所に帰ってきても、釣り糸や針、餌の確保に集中していた。
酒を飲んでは、釣りのことばかり言う言う。
義父の頭の中は、酒と孫、釣りのことしかないようだった。
小さなカサゴと小さな鯵と名も知らない魚が少し採れて、漁獲はただそれだけだったが、本当に嬉しそうだった。

もっともっと魚釣りの話はあるが、魚釣りについてはいつもいつも真剣だったことは確(たしか)だった。
葉山町の長者ケ崎、横須賀市の佐島でも大いに釣りをした。

私は大学時代、クラスではサッカー部に所属しながら革マル派の仲間に引きずられた。
学校当局から出る学生会館の使用方法や授業料アップ、政府与党の米国に対する方針には、体を突き張って反対した。
そんな私だけれど、私が政府を批判することに、義父はいつも和みをもって話し相手になってくれた。
当時、今はよく知らないが、民商という集団が、京都市内の中小企業にそれなりの影響力があって、義父もどちらかと言えば十分民商派だった。
確か、当時は共産党か社会党あたりが支援していたような気がする。
私が学校で悩んだことや、社会人になって悩んでいる事などには、強い興味を持ってくれた。
が、もっと徹底的に話したかった。