8月の中頃、朝日新聞・朝刊で下のような記事を見つけた。
8月15日の終戦記念日に相応しい記事だと思った。
その記事をそのまま転載させてもらって、それからの話をしたい。
泰緬鉄道(たいめんてつどう)
元捕虜の人生紡(つむ)ぐ
遺族に伝えたい 豪の男性が10万人分データ化
タイに博物館を建設
第2次大戦で、当時の日本軍は東南アジア全域に侵攻した。
終戦から74年を経た今も、戦争の記録を追い続ける人がいる。
日本が終戦記念日を迎えた15日、アジア各地でも犠牲者を悼む式典が開かれた。
映画「戦場にかける橋」でも知られ、戦時中に旧日本軍がタイとビルマ(現ミャンマー)を結んで建設した泰緬鉄道。
過酷な労働現場に動員されて亡くなった連合国軍捕虜らの人生をたどり、記録に残す活動を25年間続けている男性が、タイにいる。
豪州人のロッド・ビーティーさん(71)。
タイ中部カンチャナブリに自分で作った博物館「泰緬鉄道センター」で毎日、一人で集めた元捕虜たちの情報をパソコンに入力している。
ワラン・ロバート 1903年1月6日、豪州ニューサウスウェールズ州生まれ。
捕虜としてシンガポールからタイに移動し、豪州・英国人捕虜からなる「Fフォース(建設作業のグループ名)で鉄道建設作業。
43年9月18日、マラリアのため死亡。
共同墓地のA15区画に埋葬。
「事実を突き詰めて、歴史を伝える。犠牲者の数だけではわからないストーリーがあるのだ」とビーティーさん。
英国や日本からも資料を集め、元捕虜たちの人生を調べてきた。
ジャングルを歩き、鉄道部品や元捕虜の遺品を探した。
そうして集めたデータは、建設に携わらなかった元捕虜も含めて10万人分を超えた。
活動の原点ともいえる思い出がある。
24年前、元捕虜の80代の男性が息子に支えられてやってきた。
「自分が働いていた場所を思い出せない」という。
ビーティーさんが資料をもとに男性が当時いた現場を割り出し、連れて行くと、男性は「私は今、あの時の23歳だ」と言って、息子の腕を振り払って歩いたという。
ビーティーさんは歴史を残す意味を感じたと話す。
ビーティーさんがタイに住み始めたのは1993年。
当時は宝石商だった。
たまたま、知り合いに元捕虜の追悼式の手伝いを頼まれ、生き延びた元捕虜の話を聞いて「忘れてはいけない母国の歴史だ」と感じ、泰緬鉄道について調べるようになったという。
95年からは、約7千人の元捕虜らが眠るカンチャナブリの墓地の管理も任された。
博物館をオープンしたのは2003年。
この墓地の脇に作り、集めた鉄道部品などを展示している。
その中には、日本語が書かれた、線路の枕木を固定する犬釘がある。
鉄道完成記念のものだ。
当時、鉄道連隊中隊長だった東京都の菅野廉一(てんいち)(100)から「あなたは信頼できる」と言われ、贈られたという。
捕虜や、東南アジア各地から集めた人々に過酷な労働を強いて作られた泰緬鉄道は、旧日本軍による残酷な行為の一例として語られることが多い。
だが、ビーティーさんの集めた情報で、豪州政府が主張する日本軍の暴行の事実が覆されたこともあったという。
ビーティーさんは「日本を擁護するつもりはない。事実の追求は、戦争で苦しんだ人への敬意だ」と言う。
毎年、数十人の元捕虜の遺族が「祖父の最期を知りたい」とやってくる。
「彼らの家族のストーリーを伝えるのは、私にしかできない。体が動く限り続けたい」と静かに語った。
(カンチャナブリ=染田屋竜太)
25年間、泰緬鉄道の建設に携わった連合国軍の元捕虜のデーターを集めてきたロッド・ビーティーさん=7月、タイ中部カンチャナブリ、染田屋竜太撮影
戦時中、泰緬鉄道の建設をする連合国軍の捕虜たち(1942年ごろ)
泰緬鉄道
日本軍が連合国軍の補給路遮断をねらい、英領だったインドの北東部を攻撃しようとした「インパール作戦」で、自軍の補給路確保のため1943年に完成させた。
タイービルマ(現ミャンマー)の約400キロを結ぶ。
東南アジア諸国の人や連合国軍捕虜が動員され、工期圧縮をめざした過酷な労働によって数万人が命を落とした。
鉄道の一部は今も使われている。
8・15アジア各地で慰霊式
○華人ら平和を祈念・マレーシア
マレーシアの首都クアラルンプールで15日、第2次大戦でマレー半島に侵攻した旧日本軍に殺害された多くの華人(中国系住民)を追悼する式典が行われた。
現地の華人団体が昨年末に700万リンギ(約1億7700万円)かけて建てた慰霊碑の前で主催。
華人ら約100人が平和を祈念した。
華人団体「中華大会堂」の翁清玉会長は「(戦後)74年が経った。若い世代にも戦争の歴史と平和の大切さを知ってほしい」とあいさつ。
参加者は「侵略者の日本は誠実に謝罪するべきだ」などとする共同宣言を読みあげて献花し、平和を願って風船を放った。
(クアラルンプール=守真弓)
○「インパール」追悼・タイ
第2次大戦中に旧日本軍のインパール作戦に参加して亡くなるなどした元兵士らの「戦没者慰霊祭」が15日、タイ北部チェンマイ郊外のバンカートなどで開かれた。
遺骨収集を続けた佐賀県の僧侶が現地の学校に建てた「タイ ビルマ方面戦病没者追悼の碑」前ではチェンマイの日本人ら約100人が集い、平和への思いを新たにした。
インパール作戦は旧日本軍が連合国側の補給路を遮断しようと実施。
インド北東部の攻略を狙ったが失敗し、多くの日本兵がビルマ(ミャンマー)を通ってタイ北部などに敗走する過程で犠牲になった。
(チェンマイ=貝瀬秋彦)
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今年の6月からは、毎週火曜日に保土ヶ谷図書館に通っている。
週1の図書館通い。
何も、図書館から面白い本でも見つけてやろう、なんて気障は気持ちはなく、館内で読む本は、日頃読んでいるものを、唯、読み進めるだけだった。
図書館から面白いと思われる本など探ってみたって、これは酷(ひど)いことになるだろう、と勝手に思い込んでいた。
だが、そんな私だけれど、7月に暇を見つけて棚に整理されている本を、気楽に見て廻った。
そこで、私の目の中にグサリと入り込んできたのが、
「泰緬鉄道 吉川利治(著)
機密文書が明かすアジア太平洋戦争」だった。
決して泰緬鉄道という書名のことは当然のこと、その内容についても詳しくは知らなかった。
泰緬鉄道という言葉だけは知っていた。
そして立ち読み状態で、ぺらぺらとページをめくってみて、これはとんでもない内容が書かれていることに、先ずは吃驚仰天。
タイ(泰)とビルマ(緬甸(めんでん)、現ミャンマー)の国境地帯を結ぶ415キロの鉄道を、旧国鉄の現職職員を主体として編成された軍属部隊、第四特設鉄道隊、第五特設鉄道隊に満鉄(南満州鉄道株式会社)が合流して事業を始めた。
その程度のことなら多少なりとも知っていても、この本の中身は、あっちこっちの資料も含めて、とんでもないことを知った。
それから何度も図書館に通ったが、いつも通りの時間潰ししかしなかった。
日照りが強く、気温には頭が可笑しくなるほど苦しみ、夕方のビールを飲む所定の時間までなかなか待ち難かった。