私の人生の最終章はどうあるべきなのか、通勤中、ふとしたことから考えだした。
今回は、会社を辞めてからの私の人生だ。
老後、何を何処でどうしたら充満な生活が送れるか。安定的な精神と闘志の充溢が一番望ましい。何とも難しい問題だ。
先日、長いお付き合いの和さんと、酒を飲み交わし話した。
「和さん、俺の最後の締めくくりはどうしたらエエのかな?」 和さんも頭を抱えながら同じようなことを考えているようだった。
楽(らく)して!! 儲(もう)かって!! なんてことは、チィートも考えていない。
この年で、お金に拘(かかわ)って暮らしたくない。
正直に言えば、生きがいのある老年を過ごしたいってことだ。世のため他人のために、何かをして充実した生活をしたい。
簡単に言えば、只、それだけのことなんだがーーー。
生きがいとは、人生の意味や価値などに、その人の生を根拠づけるものだ。
2017年6月4日。
今まで、それなりに頑張ってきた。
他人が何と言おうが、私は私のやりくりしてきた人生に自負がある。
豊かではなかったが、貧しくはなかった。
子供の頃から遊びが大好きだったから、山や野原や田畑で、思いっきり遊んだ。
小さな寒村での生活が、私には気に入っていて、何もかもが好都合だった。
父母は、山には薪の手入れや樹木の世話、主に茶畑や水田で働いていた。
山から運び出す薪や柴は、台所の竈に、緑茶の葉を茹でるのに必要だった。番茶の製作にも使った。
父は元気者の水呑み百姓だった。
※水呑み百姓とは、①江戸時代、土地を持たない零細農民の蔑称。本百姓の田畑を借りて耕作、または出稼ぎ・日雇に従事。無髙百姓 ②貧しい人
この①でも②でもない、貧しかったけれど頑張っていた本百姓だった。
祖父が山岡本家からいただいた茶畑に水田は、父にとって余りにも狭かったようだ。
ささやかな農地からの収入は、びびたるモノだった。
それのせいか、終戦10年ごろから国策で作りあげた金融機関からお金を借りて、農地を倍にした。
少しだけの農地では、生きてゆくには難しかった。
父が亡くなって、なけなしの貯金や田畑の権利書をチェックしていた時に、この金融機関からの融資を知った。
兄だって、何も聞かされていなかったようだ。
国として、農業をやる気のある人には、ドンドン資金を出して、豊かな農家を作ろうということだった。
金融機関の名は、何とか興業とか、何とか勧業、何とか殖産だとか、聞いたことのないものばかりだった。極めて低利だった。
小さい頃、あっちこっちの畑や田に連れて行ってもらったが、どの田畑が新しく買い込んだものか分からなかった。
小学校、中学校は最終学年になると、皆の学業成績を学校に残さなくてはならないので、ちょっと勉強してくれよ、と担任から言われた。
だからか、小学校の6年生の時も中学校の3年の時も、クラスで2番以内、学年で5番以内には入った。高校も予定の学校に難なく入った。
公立学校で普通科は宇治の城南高校だけだった。
当時普通科は城南高校の1校しかなかったのに、今では10校ほどある。宇治界隈は、人口が猛烈に増えたのだ。
村には塾はなく家庭教師もいなかった。
農業中心の部落だったからか、誰もが目くじら立てずに勉強なんてしなかった。
今から60年前のことだ。
中学校の時はバスケットボールに高校の時はサッカーに自惚(うぬぼ)れた。
心と言うか精神というか、偏狭(狂)な私には見事にそれだけ、それしかなかった。
金がか無くて、やれることはこれしかなかった。
何もかもやれるほど器用でもなかった。
その時期に、器用でない私には勉強も頑張るなんて気は起こらなかった。
高校を終えてからの浪人であれば、頑張れば結果は何とかなると決めていて、案の定、その通りになった。
当時テレビで人気のあった素浪人・月影兵庫だ。
褒められることはない、間抜けな2浪だった。
サッカー日本一の大学に行くと腹を決めた。
この学校は東京にしかない。
技術は極めて貧困なのに、恥ずかしながら都の西北を目指すことにした。
有難いことに、法政、明治、中央にも受かったが、本気で行く気はなかった、サラサラ?なかった。各校に申し訳ないことになった。
恥ずかしながらゴールを狙い、逆に相手攻撃陣を打ち壊すことだけだった。
浪人と言っても、唯の素浪人では何にもなーれーない。こういうときの得策は、きっと土方(ドカタ)稼業だ。
土方は差別意識を伴って使われることが多く、土木作業員の中でも特に、資格や技術を必要としない部署で働く日雇い労働者をイメージして使われた。
土方には嘲笑う意を込めた派生語、「ドカチン」という表現もあった。
土方に関してのことは、心身ともによく理解していた。
竹馬の友からは、笑いながら、私のことをドカチンと呼んでいた。
4年間の大学での授業料や生活費を稼いでおけば、2兎を追えるものだと決めた。
そんなことで、2年間の浪人時代に300万円近くの貯金ができた。
宇治田原町農業協同組合に私の銀行口座を作った。
私は高校を卒業したばかりなのに、大人並みの日給だった。仕事の量は、十分大人並みだった。日給の額は忘れてしまった。
大学での3年間の授業料と入学金は自腹で処理できた。
父母は喜んでくれたのだろうか。
仕事は、山中に建つ関西電力の送電塔の基礎部分を創る作業だった。難しい部分は我々の組にはやらせてくれなかった。簡単な仕事だからこそ、私にもやれた。
朝から昼の1時頃までに、1日の仕事を終わらせた。休憩は勿論、ゆっくり話すことだって許されなかった。
労働時間は8時から午後1時までの5時間、と決まっていた。親方は、愚図愚図とゆっくり仕事をするのが嫌だった。
でも、1時頃からゆっくり昼飯を食って、帰途につく。
帰り道に親方の家に寄って、ビールをいただくことも多かった。
だが、このドカタ稼業のために、サッカーのプレーには良くなかった。
下手糞の言いわけではないが、悲しいけれど、効(よ)くなかった?
サッカーは、体力は勿論、技術が微に入り細をこなす。
悔しいことに、手足をはじめ体全体がコチコチに固まってしまった。
近畿予備校の国公立大学入試コースに半年は通った。
でも、このコースは、予備校なのに入試があってそれに合格しなければ行けなかった。
私は合格した。
でも、この学校群のどの学校でも、私の望みは叶えられないと思いきや、直ぐに止めた。
2年間の浪人の果てに希望通りに入試突破、内容は兎も角、人生行路は立派に進みかけた。それからの学生時代の4年間は、いつも通り器用でなかった。
サッカー以外は波乱万丈?だった。逆に言えば、それほど面白かったのだ。
1年生の初め2か月は普通に授業があった。
私の入った学部は、どうしても都の西北に行きたい、他の学部には入れなかったと悔しがる学生ばかりで、狭(せば)まれた意味では賎(いや)しかったが、訳もなく面白かった。
だから、数少ないクラス会ではもうどこの学校のことも、自分たちの能力の無さを悔しんだり、そんな馬鹿みたいなことはなく、楽しかった。
私には土方(ドカタ)とサッカー部員というプライドはあったが、ほとんどの学生が現役だったので、これからの生き方なのか、過ごし方なのか、皆とはズレを感じた。
女子学生が2人いて、その1人がラグビーのマネージャーになった。
サッカーのグラウンドの隣りがラグビーのグラウンドで、なんぜ、サッカーのマネージャーにならなかったんだ?と嫌な言葉を吐いた。
でも、でもだ、誰よりも、仲良くなったのは、判ってもらえるだろう、
昼間は朝から晩までサッカー一筋。
入学して2年間は、学生会館の管理体制や授業料減額の紛争のため校内には入れない。
ロックアウトだ。
世の中では、70年安保闘争。当然、授業は約2年半はなかった。
・朝、7時だったか8時だったか忘れたが、寮長の起床の号令で叩き起こされ、寮の前で体操した。
・午前中は体育の授業の補佐をした。
授業科目はサッカーで、講師はサッカーのコーチを兼ねていた吉さん。場所は東伏見駅近くのホワイトハウスと我がサッカー場。
ちょっとばかりのアルバイト料をいただいた。
この講師はいい加減な人で、雨の日などは来ない。でも、私にとっては面白かった。
学生にルールを教えたり、試合をさせて笛を吹いた。
・11:30から、近所の中華料理屋=芳葉で1時間、皿洗いや客席に品物を運ぶ仕事。
私は、レバー野菜炒め定食をいただいて、アルバイト料をもらった。
・13:00からは、サッカー部の正規の練習。
部の練習が終わったころに、大学の系属高校が練習にやってきて、彼らの練習に参加した。遊びながらでも楽にこなせたので、楽しかった。
・そして17時ころ、やっと私は義務から放される。
それからが、私だけの練習だ。
宙に吊られたボールにヘッデング、敵を意識してボールを操り、ボードに種々のコースを蹴りあげる。ゴールラインからゴールラインまで猛烈に早く走る。
それが終わったら、タッチライン、ゴールラインに沿って、サッカー場を何回も何回も、早く走ったり、ゆっくり走ったり。
暗闇が迫り、体もグロッキー気味。
今日もよくやったものだ、と小さな満足感。
・それから、グラウンドの傍の合同風呂に入って体を休めた。
歌を歌ったり、故郷の友人たちのことを思いだした。お世話になった小学校や中学校の校歌の放歌。
この風呂は学校のもの、無料だ。
晩飯はできるだけ、昼間にアルバイトした中華料理屋・芳葉に行った。
昼飯時にアルバイトをしていた縁で、ご飯はいっつも普通料金で大盛りだった。
・有り余るほどのお金に恵まれてはいないが、誰かが一杯飲みに行こうと誘ってくれる。俺なあ、お金ないンや!と言っても、何とかなるよの甘言。
人参をガブガブ喰らいつく馬みたいだ。このお相手は金さんだ。
グラウンド関係の管理を一手に引き受けているタキさんにビールを御馳走になることも多かった。ご自宅に飯をいただきに行ったこともある。
それにこのタキさんから、グラウンドの周囲のどこかに、直径5メートル深さ3メートルの穴を掘ってくれと、年に3,4度頼まれた。
タキさんはこの穴にゴミを捨てる。
浪人時代はドカタ稼業に精をだしていたので、この程度の仕事は軽かった。
幾等、お駄賃をくれたか忘れてしまった。お金の多少に気を揉むことはなかった。オジサンの言うことが、嬉しかったのだ。
変チョコリンでサッカー下手の私を可愛がってくれた。
あんなにみすぼらしい私だったのに、4年生では関東学生選手権と全日本大学選手権の2冠に輝いた。2試合に1度は試合に出してもらった。私にとって、夢のような出来事だった。そこでも知恵を得た。
現在の私のベッドの脇に、全日本でいただいた優勝を顕彰した金メダルがある。
何故か、この金メダルだけは放したくない。
サッカーを人一倍頑張っていけば、いい社会人になるための一要素になるだろう、と割と真剣に考えていた。
クドイように付け加えなければならないことを、くどく書く。
それは、この大学には日本の各地から優秀な人間がどうしてこんなに集まるのか?不思議なくらいだった。
当然、彼らの見つめる目標は、[ワセダ、ザ、ファースト]だった。
上手な選手がいっぱいいる中で、私は地平線なのか海面なのか、どうしても必要な水準に居なければいけないのに、大きく引っ下がった貧しい選手だった。
私にとって、この貧困さは、なかなか耐え辛いものがあった。
この貧困さに耐えるために、この頃から読書に励みだした。精神的に参っていた。
よりによって選んだ本が良くなかったのだ。
学校は卒業さえすればいい、と決めていた。
大学に入って最初に目を通したのは太宰治だ。
自殺未遂や薬物中毒を克服し、戦前から戦後にかけて多くの作品を発表した。
普通の常識的な小市民的な生き方をしないで、荒れた生活をし、それらを作品に著した。
井伏鱒二さんが媒酌人になって結婚した。
その影響があって、井伏鱒二さんの本もいくらか興をもった。
中学校の教科書にも載っていた「山椒魚」、「黒い雨」これらも面白かった。
太宰治、坂口安吾、織田作之助、石川淳、壇一雄、田中英光らをデカダン、無頼派とか新戯作派といわれた。
田中英光は三鷹・禅林寺の太宰治の墓の前で自殺した作家だ。
早稲田大学の漕艇部だった彼は、小説の中で、ボートは気で漕げ腹で漕げと度々雄叫びを上げていた。
ロサンゼルス・オリンピックに出場した。
その時の恋愛物語=「オリンポスの果実」などスポーツに激しく恋をしている私には最高だった。N機関区、国鉄の労働組合専従だった。
大学を卒業して10年以内に太宰、織田、田中の全集を買った。坂口は選集を買った。またまた、適度に読み漁った。
これもあれも、読む本は全部面白かった。
この本から得たモノも、社会人として、何かのためになるのではないか、と我儘に納得した。
本を読むことは、仲間とのコミュニケーションにも良いだろう。
地方色のある単語から種々彩々な漢字、副詞・助詞・助動詞、接続詞、修飾語に述語の数々。文節・文章の作り方、構文、新旧の物の言い方なぞ、道理で物知りにはなった。
時には面白い表現に出くわし、吃驚することもある。
卒業して20年前後に朝日新聞の本田勝一を読み漁った。
横柄な権力に反抗する本田さんを好きになってしまった。
探検物や冒険物の違いをあらわにし、その世界でのやり手とその作品の紹介が面白かった。何故か、私も反逆児になりたいと思い始めていた。
編集者の一人である「週刊金曜日」も創刊してから、しばらくは真剣に読んだ。
この本田勝一に並行して読み漁ったのは、高橋和巳だった。
河出書房新社から発行された高橋和巳作品集全9巻。
卒業して間もなく読んだ「悲の器」のシコリがこの作品集を買って、高橋爆弾は爆裂した。
高橋和巳の文学の特色は、否定の精神に基づきながら知識人の運命と責任、その倫理性を追究することにあった。
代表作は、「邪宗門」、「憂鬱なる党派」、「わが解体」、「堕落」、「散華」、「我が心は石にあらず」、「日本の悪霊」、「白く塗りたる墓」、「黄昏の橋」、などだ。
どの本も、涙しながら読んだ。
いくつもの大学で教鞭をとっていたが、京都大学の助教授時代、全共闘世代の間で多くの読者を得ていた。
夫人の小説家・高橋たか子さんの夫の死を知った時の文章をここで利用させてもらう。
高橋和巳の葬儀委員長は、高橋が尊敬していた埴谷雄髙氏だった。
高橋たか子ーーー絶望、破滅、堕落、暗黒に沿ったモチーフの根源を、高橋和巳はひたすら殉教者のように負った。登場する主人公たちは、いずれも栄光のある国家、社会、組織から宿命的に弾劾される。いや、自らの選良忌避の告認である。
本題の「これからの生きがいは?」の深い小さな原因がこれらの本の読書にあるのではないか、と考えだしたのだ。
他にも、野間宏、井上光晴、島尾敏雄、宮沢賢治、三島由紀夫、井上靖、開高健,野坂昭如を手当り次第に、盲滅法(めくらめっぽう)に読んだ。
そして、卒業後に入った鉄道系の会社が、余りにもノ・ー・チ・キ・リ・ンで革命を知らなかった。進歩して、社会の役に立つことなんて、これぽっちも考えていなかった。安全・安心・安楽に人を運ぶのが会社の極めになっていた。
いつまで経っても、心の奥底にまだまだ私的な革命論を秘めていた。
今までの会社のやり方に、異を唱えたかった。
よって、つまらなかった。
社長は経済界の二世モノだ。他人の目には優良で善良な経営者として評価されていただろうが。
全国的な種々のスポーツ団体や組織の会長に選ばれ、本人もだらしない勘違いでもしていたのだろう。
この会社からは、仕事の髄?人間の本当の生き方を教えてくれなかった。
その後の会社の崩落や社長さんの失楽ぶりが証明されている。
創業者は近江出の張りきりマンで会社を立ち上げた。地元では立派な経済人を輩出したことになる。その上に、衆議院の議長にもなった。
この会社が、俺を悩ましい人間にしてしまった。
入社したのが35人。
私の入社試験の総合得点は15番。
私と同じ大学の人間が私より先に1人、付き合いの長い友人はその5,6番後だった。
ここで、私の得点に怒ったわけではないが、何故15番なんだと頭にきた。
誰もが認めるように、私は学校に行っていない、、、、だけどそれで、何で15番なのか!
私以外の人間たちは、特別の勉強やクラブをこの4年間何もしていないのに、どうしてもっと点を採れないのか、と腹が立っのだ。
立派な学校の卒業生ばかりで、もっと勉強できた筈だ。
そこでも、私に心を強めることが得られた。
何でもいいから、頑張っていれば、アホのように過ごしている奴に比べて負けることはないのだと。
鉄道会社の持ち株会社に入社したが、グループ会社の都合で不動産会社に転籍した。
この会社を9年7か月目に退社することを決めた。
昭和57年ゴールデンウィークあけだ。
何故?と聞かれても、応答できない。
だって、それほど大した原因があったわけではない。10年以上は居たくないと決めていた。
不動産に関しての全ての知識から技術について、一不動産屋の社長以上に身につけていた。
変な社長さんなんかには、絶対負けなかった。一人前になっていた。
寧ろ、サラリーマンよりも経営者になりたかった。
退社?風邪ではない。隙間風がそれこそ、突然吹いてきただけのことだ。
退社届を出すと決めたのは、提出する日の前夜だった。誰にも相談していない。
夜になると多少お酒を飲む時間がとれて、それなりの大家(たいか)と言われる人たちと会話を楽しんでいた。世の不動産屋に興味をもった。
そのなかに、2人の痛快な人にあった。
奇人の鈴さんと左翼系知識人の渡さんだ。
商売人としての魅力いっぱいの鈴さんが、熱心に私の入社を願ってくれた。この人の会社では、私の能力が一番活かせるのではと思った。
仕事だけならば、楽しい人だ!!と思った。案の定、横浜にいる間は、常々彼のお世話になった。
泥酔のあげくビールを頭に引っかけられたこともあるが、これも楽しい思い出だ。
渡さんは、学生時代、反帝学評の学生運動家で、ちょっと警察にもお世話になった。
そのことはちょっと、隅っこに置いて、彼と話をしていて、私の反権力精神がムキムキ、反社会人になりたかったようだ。
灯に火と油を注いだ形になった。
私にだって、友人に革マルがいた。
母から、東京では偉くならなくてもいい、金持ちにならなくてもいい、けれど、警察や税務署のお世話だけにはならないでくれ、これが田舎を去る時の母からのお告げだった。
実家の農業に精を出す兄貴のことを思ってのことだった。
話していて、このような渡さんと一緒に仕事をしたいものだ、と実感した。
御利巧で、考えることも利に叶っていることが多かった。
そんなことで、渡さんの会社に入社することになった。
入って3,5年は楽しいことばかりだった。私は不動産部の部長さんらしく、面白いことは何から何まで私にやらせてもらった。
そこで、私の不動産屋としての能力は磨かれた。
そんなことでアタフタしていたら、本業の方の出来栄えが悪くなって、それよりも一番拙かったのは、渡さんに事業欲が薄らいできたようで、決定的に敗北のタネだった。
それでも、渡さんのように仕事をお利口にやれば、何とか生きていける、私にだって小さな知恵はある。
そんなある日、山岡さん、俺たちの会社はこれで終わりにしようと思うのだが、君は別の会社を創って自由にやってみてくれないか。
渡さん、私が別会社をやることについては、何も異論はありません。でも、社長さんはこの会社からは辞めてもらうことになります。
この話を伺ったとき、持ち込まれた話がイイもワルイもなかった。
今やりかけている仕事をやり遂げるには、今のまま、仕事をやるしかない。
こんなことで、私は思わぬ不動産屋の社長になってしまった。
その後、仕事が順調に進んでいたある日、本業は倒産した。
私はお世話になっているいくつかの金融会社に、ことの実態を話した。
これが不思議なのだが、担当者は本業の批判はしたけれど、弊社に対しての批判は殊(こと)の外(ほか)なく、これからも頑張ってくださいな、と励ましのお言葉。
仕事は順調にドンドン進んだ。しかし、好悪色んなことで苦戦していた。
そんな時、今弊社の社長でなんとか頑張ってくれている中さんが入社してくれた。
中さんの兄が私の友人の一人で、中さんの頼みなら断る理由は何もなかった。
それから、社長の中さんとの激しい付き合いが始まった。
この顛末については、いつか詳しく話すことがあるだろう。
そして、今に至るのだけれど、私の老後に気を使ってくれる人がいない。中さんは性格的によく考えてくれるが、何よりも仕事が多過ぎる。
私はこれからの老後のことを本気で考えだした。これが、この稿の根拠だ。
誰か? 心ある人たちよ、私に何かを教えてくださいな~。
お金に胸は乱れていない、健康や生活の苦楽に差はあるだろうが、幸せになりたいのだ。
今、私は68歳。この9月23日で69歳になる。昭和23年生まれだ。
こんな年になって、こんな具合にしか自分の老生活を考えられないとは! 第三者的に考えて恥かしい話だ。
70歳がビジネス社会でのゴールだとすれば、これからの半年間で道筋をつけたいものだ。