2012年6月30日土曜日

司法書士・銀さんの老後に、幸あれ

20120627水曜日、会社は営業部が定休日。

司法書士の銀子(名ではなく、姓です)さんが、俺は今月であの事務所から身を引くことにしたからよろしく、と挨拶された。横浜天王町のビジネスパーク2Fの弁当コーナーで、390円弁当を食っている時のことだ。

昭和51年、私は昭和48年に大学を卒業して入社した観光会社から、子会社の某電鉄系不動産会社に移籍させられた。27歳になる少し前、入社してから3年目のことだ。このときに、司法書士・銀子さんに初めて会った。

不動産屋になるとは露ほども想像しなかったが、仕事は、興味をそそることばかりで、移籍してからの数年は無我夢中だった。面白かった。公私の別なく、夜は同僚たちと酒を酌み交わしての仕事談義、休日も休まないで仕事に没頭した。知的欲求を満たしてくれた。何故、そこまで夢中になれたのかと振り返ってみると、やはり、大学時代にサッカーにうつつを抜かし過ぎたことが影響していると思う。勉強しなければいけない学生時代に、勉強をしなかった後ろめたさもあったのだろう。

二浪して大学のサッカー部に入部した。が、二浪の時代に学資金稼ぎのためのドカタ稼業で、私の体はサッカーのようなスポーツにはふさわしくない体に変化してしまった。

この大学のサッカー部は、日本のサッカー界の歴史に大きく貢献した誉れ高いクラブだ。そこでの練習は私にとって過酷過ぎた。入部当時、体力、技量は素人並みだったから。

私は皆に追いつくために、多い日には1日9時間もグラウンドにいた。正規の練習、係属高校の練習に参加、それに自分勝手な練習。定休日の月曜日は晴雨にかかわらず、遠くまでランニングした。勉強は完全に放棄した。お母さん、お父さん、今はサッカーをやらせてください。社会人になったら、誰にも負けないほど勉強しますからと、誰も居ないグラウンドで、西の方の夜空に誓いをたてた。そんな日々を4年間過ごした。

そして、社会人になって、さあ、これから頑張るぞ、なんて意気込んだところで、何をどうすればいいのか、とっかかりが掴めなかった。勉強しなくちゃイカンことは、分かっている、頭から離れなかった。同期で入社した者のなかに、学生時代によく勉強してきたな、と感心させられる奴がいなかったことも、拍子抜けの原因だった。

そんな時期に、子会社の不動産会社への移籍の辞令をもらった。新しい仕事に着いてみて、驚かされたのが業務上の数々の法律の網だった。法律、条令、政令、指導要綱、施行細則などなど。何を判断するにしても、何法の何条を知っていないと、身動きが取れない、間違いを起こしかねない。

そんな意気盛んな素人不動産屋の私の前に現れたのが司法書士・銀子悪醜氏だ。この稿では不思議な名前をつけさせてもらったが、本当は見た目にも美しい文字を並べた姓名なのだが、今はこれで辛抱してくださいな。

知り合った当時、銀子さんも、又、ホッカホカの生まれたての司法書士だった。学んだ知識を実務で生かしたくて、ウズウズしていた時期だった。何でも知りたがり屋の私と、ピカピカ司法書士1年生の銀子さん。二人がどっぷり・ベタベタの人間関係に陥るのに、そんなに時間はかからなかった。彼は、サッカーファンでもあったから、尚更のことだ。

私が判断に悩むことが発生した時は、必ずアドバイスを受けた、作成した文章を添削してもらったり、各種の法的手続きを教えてもらった。法的な部門の私家版・知恵蔵だった。社内に、安全運行第一を旨とする電鉄出身者で、不動産の契約管理専門の上司がいたことも、幸いだった。教えてくれる先生は多い方がいい。

それから35年の付き合いになった。

銀さんは、長年、情熱的喫煙家だったが、お酒だけにはどういうわけか手を出さなかった。ところが、10年ほど前から、我等の立ち飲みグループ、初老たちの飲んベイ不良仲間に加わってきた。この年になって、酒の味を覚えた奴の悲惨な末路を多く見てきたから、私は秘かに、ちょっと可笑しな危険性も感じていた。

2年半前のこと、立ち飲み屋のカウンターで、毎年定期的に行っている健康診断で、食道に腫瘍の影が映っているらしいので再検査をすることになった、とこぼした。その程度の腫瘍なら、誰だって持っていますよ、大したことないですよ。本気で、彼の話に耳を貸そうとはしなかった。

ところが、その再検査の後の再々検査で、食道の胸の真ん中あたりに大きな腫瘍が見つかり、ベッドが空き次第手術することになった、と告白された。横浜市大病院だ。この時点でも、本人には、悪性の腫瘍だと伝えられていなかった。

この腫瘍が見つかる半年前、60歳を過ぎた頃のことだった。そろそろ、仕事を止めて、老後の生活に入りたいと思っているんだ、大型バイクを買ってあっちこっち走り回りたいんだ、と話した彼に向かって、不遜にも、そんな馬鹿げたことを考えてないで、もっと働こうよと説諭した。そんな間抜けたことを考えているから、変な腫瘍ができたんですよ。気の合う者同士、いつまでも一緒がいい。引退したって、何する心算? と半ば脅迫的だった。こんな暴言にも優しい表情で聞いていた。根っからの好人物なのだ。

本人には、腫瘍が悪性なのかどうかは、知らされていなかった。

そして、6時間の大手術をした。食道の中ほどにガンができていたので、それを全部摘出して、胃の入り口の部分を引っ張り上げて食道の切った部分に繋げた、手術はそんな内容だった。術後、医者から本物のガンだったとはっきり宣言された。

3ヶ月前には、以前の食道ガンの摘出手術の影響か、脱腸の手術をした。ガン摘出の際、腹腔の腸のおさまりが悪くなって、緩(ゆる)んで腹部に出っ張ってきたのを、再び腹を切り開いて、腸をおさめるべき所におさめた。これは、深刻な手術ではなかったようだ。

ガン摘出2年後の今日、弁当を食いながら、その後コーヒーを飲みながら、仕事を止める最終宣言を直に伝えたかったようだ。この時ばかりは、私は彼に冗談は言えなかった。そりゃ、そうやなあ、銀子司法書士は命拾いしたんだから、この辺で切り上げて、自由気ままな生活に入るのはいいことなんではないか。余生を楽しんでくださいな、と話した。

懐かしい、35年間の思い出話で、いつまで経っても椅子から立ち上がれなかった。

俺は、まだまだ10年以上はやらなければならないことがあるサカイに、仕事上で悩んだ時はいままでのように、相談にのってくださいな、とのお願いに、それは、なんぼでも、相談にはのるけど、報酬を頂いて、役所に行くことはできないからね、と釘をさされた。

会社の何かの行事には、お声をかけますから、その時はよろしく、と言って分かれた。梅雨の合間、青空が広がって、木々の緑は濃く、空気は爽やかだった。

彼は65歳、私はもう少しで64歳。