2012年6月9日土曜日

新藤兼人監督 死去

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20120531朝日・朝刊 新藤兼人監督=2010年

 

20120531の朝日新聞と日経新聞の記事をそのまま、マイファイルさせてもらった。

新藤兼人氏を偲ぶことにしよう。

この稿全ては新聞記事をそのまま転載したものだ。

1面

新藤兼人監督 死去

映画「原爆の子」「裸の島」

「原爆の子」「裸の島」など社会性あふれる作品を数多く生み、日本最年長の現役映画監督だった新藤兼人(しんどう・かねと、本名・兼登)さんが、29日午前9時24分、老衰のため東京都内の自宅で死去した。100歳だった。

広島県出身。1934年、京都の新興キネマに入り、興亜映画を経て44年に松竹に入社した直後に召集される。復員後に脚本を手掛けて評判になり、50年、吉村公三監督らと独立プロ「近代映画協会」を設立。翌年「愛妻物語」で監督デビューした。52年に「原爆の子」で社会派として注目される。広島で被爆した子どもたちの作文をもとに、保母と子どもたち、その家族がたどる悲惨な生活を描いた。「原爆」は終生追ったテーマの一つで、原爆で全滅した移動劇団の最期を追った「さくら隊散る」(88年)なども監督している。

61年、瀬戸内海の小島の家族の生活をせりふ抜きで表現した「裸の島」(60年)でモスクワ国際映画祭グランプリに。ほかに「第五福竜丸」(59年)や「本能」(66年)「裸の十九歳」(70年)「竹山ひとり旅」(77年)「北斎漫画」(81年)など、人間の苦悩や生きる力、社会とのあつれきを粘り強く追求した作品が並ぶ。

76年に朝日賞、2002年に文化勲章。

独立プロ時代から苦楽を共にした女優の乙羽信子さんと78年に結婚。乙羽さんとの最後の出演作「午後の遺言状」(95年)の舞台化で99年、舞台演出も手がけた。

最後の作品となった「一枚のハガキ」(2011年公開)もキネマ旬報1位など高い評価を受けており、「周囲が許せば、もう1本、100歳の映画を作りたい」と語るなど、創作意欲が衰えることはなかった。

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20120531朝日・朝刊  「北斎漫画」で樋口可南子さんに演技をつける=1981年

 

37面

戦争体験 強烈に映す

新藤兼人さんの映画は強烈な反戦主義で貫かれていた。これは自身の戦争体験に負うところが多い。召集をうけた仲間100人がクジ引きで次々出撃して帰らぬ人となり、終戦を迎えた時に生き残っていたのはわずか6人だったという。

亡くなった仲間のことがずっと頭から離れなかったと、晩年の新藤さんは記者によく語っていた。「なぜ自分が生き残ったのか。なぜ生かされているのか」。反戦を訴え続けたのは、自分のやるべきことがはっきり見えていたからだ。

硬派な映画でも、観客を退屈させないサービス精神を発揮した。それは長いキャリアの初期を脚本家として過ごしたためだ。溝口健二監督に「これは脚本ではない」と一蹴されて奮起。吉村公三郎や木下恵介ら名監督に重用され、商業映画の脚本を量産した。その時に培われた映画屋魂が監督作にも息づいていた。

もう一つの特徴は、人間の強さやしたたかさをユーモアと愛情をもって描いた点だ。代表作の一本「裸の島」は瀬戸内の小島で淡々と暮らす夫婦の生命力をセリフなしで表現しきって、海外でも高い評価を得た。

高齢になっても創作意欲は衰えなかった。「これが最後の作品」と何度も言いつつ、無手勝流とも呼べる自由な境地でコンスタントに作品を発表した。

「本当にこれが最後」と宣言したのが「一枚のハガキ」だった。応召した100人のうち6人残ったという原体験をモチーフに、反戦主義と人間のしたたかさをひょうひょうと描き、新藤映画の集大成となった。しかも新藤さんらしく、きちんとヒットさせた。

2010年6月末、群馬での撮影現場にお邪魔したことがある。冷房の利かない酷暑の屋内で、孫の新藤風さんの押す車椅子に乗っててきぱきと指示を出す姿は、とても98歳のものではなかった。

撮影終了の日、無人になった現場で、涙が止まらなくなったという。「こんなことは初めて」と話していた。万感の思いの中心には、すべてを出し切った満足感があったと思う。映画に全てを捧げ尽くした人生。今頃は戦争で逝った仲間に再会し、褒められているに違いない。(右飛徳樹)

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20120531朝日・朝刊 「原爆と戦争責任」について、ドキュメンタリー作品に取り組む=1976年

 

映画ヒロシマ 晩年まで意欲

「死ぬまでに映画『ヒロシマ』を作りたいんです」。2009年の朝日新聞のインタービューに、新藤さんは故郷の悲劇を改めて映画化する意欲を見せていた。戦争から復帰して戻った広島は焦土と化していた。その光景が原爆孤児らの群像を描く「原爆の子」を作る原動力になった。「我々が百ぺんしゃべるよりも、『原爆の子』をいっぺん見ただけで人の心をひきつける」と広島県被団協の坪井直理事長。「亡くなっても映画は残る。たくさんの人に見てもらいたい」

新藤さんは当時を伝える被爆建造物が減ることに危機感を抱き、学者らによる「被爆建造物を考える会」が89年に発足した際に記念講演。被爆証言の大切さも説いていた。

 

俳優「魂に触れ感謝」

「一枚のハガキ」に出演した俳優は30日、一様に死を惜しんだ。主人公を演じた豊川悦司さんは「すさまじくも美しき100年、その魂に少しだけ触れさせていただけたことに感謝しています」。大竹しのぶさんは「私の中で、映画も監督も、永遠に生き続けます。監督、これからも私たちに正しいことを教えてください」と、それぞれコメントした。柄本明さんは4年前の出演作品を振り返り「『まだ撮れる、まだ(時間が)ある』と言っていた。撮影に入れば、年齢を一切感じさせない人だった」と話した。

 

山田洋次監督の話

仰ぎ見るような先輩でした。ヒットするとかしないとかまったく考えないで、地をはうようにして映画を製作する。でも、経済的に苦労されたのではないか。僕なんか想像できないような苦しい思いをたくさんしてきたのではないか。肉声がスクリーンから聞こえてくるような作品でしたね。

 

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朝日朝刊

天声人語

「これは日本人だけが作れる映画だ。日本人だけが作る権利を持ち、より以上に作る義務を持っている」と、60年前の小欄が書いている。新藤兼人監督の「原爆の子」を見て、当時の筆者は「すぐにはペンを執れぬほどの強い感動をうけました」と記した。

占領下の日本で、原爆をめぐる記述や映像は厳しく検閲された。封じられ、忘れられたようだった原爆の悲惨を、この映画は真っ向から描いて突きつけた。「作りたい映画をつくる」を貫いてきた新藤さんの代表作である。

その訃報を聞いて、硬骨にして濃密な人生軌跡を思う。反戦平和への信念は、兵役の体験が根底にある。「ゴミみたいな中年兵の一人だ」だった。殴られ、しごかれ、「もう敵がアメリカなのか帝国海軍なのかわからなかった」。召集仲間100人のうち、実に94人が戦死していった。

終生のパートナーになる乙羽信子さんには、亡妻をしのんだ監督デビュー作「愛妻物語」の妻役として出会う。すでに新たな家庭があった。それぞれの葛藤は想像に余るが、長いときののちに結婚に落ち着いた。

乙羽さんの自伝にある言葉がいい。「(好かない男の砂糖より)好いた男の塩の方が甘い」。がんで余命わずかな乙羽さんが、夫のメガホンで燃焼しきった「午後の遺言状」は名作の誉れが高い。

「新藤組はシンドイ組」と言われた撮影への執念。それを携えての旅立ちだろう。4月の小欄で満100歳をお祝いしたばかりだった。天界では新たなロケが始まるころか

 

20120531 日経新聞 文化

新藤兼人さんを悼む  地道な労働への愛と誇り

映画評論家・佐藤忠男

新藤兼人監督がなくなられた。

つい先日100歳の誕生日を迎えて、たくさんの弟子や後輩やスタッフ、そしてもちろん家族の人々の集まる誕生祝いのパーティーで祝福されたばかりである。

かって、日本映画には、小学校、あるいは旧制中学だけの学歴の巨匠がたくさんいて、撮影所の下積みの苦労を重ねることのなかから自分の独自の表現を作り出してきた。新藤兼人はその最後の人である。農家の出身だが、父親の破産で農業を継ぐことはできず、映画界の仕事は撮影所の現像場の肉体労働から始めた。その労働に対する愛と誇りは新藤兼人の映画に一貫する重要なテーマになっている。

新藤さんは敗戦直後の頃にシナリオ作家として注目され、売れっ子になるが、まもなく同士とともに近代映画協会という独立プロを起こす。当時、思想的な理由で撮影所から追われて独立プロを起こした映画人は少なくなかったが、新藤さんの場合はそうではなく所属していた松竹の撮影所で吉村公三郎監督との名コンビを引き裂かれようとしたことに抗議して独立プロを起こしたのである。

独立プロでは経営的にとても難しいということは誰にもわかっていたので、、みんなびっくりしたものだった。あくまで作りたい映画だけを作るという信念、あるいは一緒に仕事する仲間をなにより大事にするという態度からそうしたのであろう。そして結局、60年もそれを続けてきた。これは大変な記録だと言っていい。

経営の難しい独立プロだから派手な映画は作れない。作品自体が貧相に見える場合もないではない。しかし、反戦、平和、そして貧しい人々のけんめいな生き方に対する一貫した支持、さらには自分を育ててくれた母親や姉たち、妻、そして小学校時代の教師、仕事仲間など、深く恩を感じる人たちに捧げる感謝。そういう主題は変わらない。「愛妻物語」「原爆の子」「第五福竜丸」「裸の島」「母」「竹山ひとり旅」「落葉樹」「さくら隊散る」「わが道」「三文役者」などの作品にそれらは結実している。

こんなに自分の心からあふれる思いを映画で描き続けることができたなんて、なんという幸せな映画作家だったことかと思う。それらの作品が、時として暗くてしんどく、エンターテインメント的には弱かったことは否定できない。しかし、年齢を重ねるに従ってそこに、初期の鋭さや叙情に加えてなんとも言えない滋味とユーモアもにじみ出てくるようになった。その結晶が遺作となった「一枚のハガキ」である。戦争反対を遺言のように真剣に語っているが、その語り口のなんという土くさい笑い。その笑いが怒りと同じくらい力強くて良かった。

日本の文化的伝統は階級によってそれぞれ独特のものがある。そのうち武士の伝統は黒澤明が表現しているし、町人の伝統は溝口健二が受け継いでいる。小津安二郎はかっての文人から近代の市民層の文化を表現していると思う。そして最も人口の多い農民の文化的伝統を映画で受け止めて映画で表現したのは新藤兼人である。地道な労働を価値ある大切なものとして描くことと、仕事の仲間や家族への感謝を大事にすること。個人のというより、仲間や身内の声として社会的主張を表現すること、などが特色である。

洒落た笑いよりも集団的でエネルギッシュな笑いがそれに加味されて、それがどう発展するか、楽しみにしていたのに、なくなられて悲しい。しかし本当にお手本にしたい生き方である。合掌。