大学時代のサッカー部の後輩が、久しぶりに弊社に顔を出してくれた。
松さんだ。
卒業して入った日本でも有数な重電系大手を35年勤めて、定年後に再就職した会社の営業を兼ねての訪問だった。営業をしかけられた内容には、今後できるだけ協力すると約束を交わした。かって、15年ほど前には、私も経営に参加したトナーカートリッジのリサイクルの仕事で、松本さんが勤めていた会社から常時、大量に受注させていただいていたので、その恩返しの意味も込めて、協力したいと思う。
その重電系大手は、色んな分野を手がけていたが、彼は、街角などでよく見かける飲み物などの自動販売機を扱うセクションに所属していた。自社で製造したものを、いろんな方面に販売する営業の係だった。銀座のクラブで女性を侍らかし、お酒を飲んでのサービス残業に精励、お陰様で糖尿病になっちゃいました、と笑っていた。ゴルフは、接待ゴルフで相当腕に自信をつけたようだ。
彼は、昭和44年頃のこと、浦和南高校が高校サッカーで三冠を獲得したときのメンバーだった。有名な松本暁司先生率いるチームだった。その勢威(いきおい)で、我らの大学に入部した。優秀な選手だった。このチームからは、その後、古河電工に入社した永井良和氏、日本サッカー協会の田嶋幸三氏やサッカー解説者の水沼貴史氏らを輩出した。
私が大学でサッカーに明け暮れていた頃、サッカーが盛んだった地域は、北から埼玉、東京、静岡、京都・大阪、広島だった。明治40年代に大学でサッカーをしていたのは、東京帝国大学と東京師範学校だった。この東京師範学校の卒業生が教職員として散らばったのが、埼玉、静岡、広島だったようだ。私の出身である京都府も教員のサッカーチームが強かった。この影響が教育にも行き届いたのだろう。中でも、群を抜いていたのが、埼玉、静岡、広島だった。
酒を飲めば、出てくる話は昔の学生時代のことばかり。話は、喜怒哀楽込み込みの四方山盛り?沢山。私たちの青春時代、4年間、熟(う)れることなく青い果実のままだった。
彼は私たちの大学のサッカー部(私たちの大学ではア式蹴球部と呼んでいる)を、一時的に抜けたことがあった。その原因は、OBで日立製作所サッカー部の三太郎さんに、練習時間中ではなくプライベートに呼び出されてイチャイチャ文句を言われ、それに対して若者らしく激しく逆らった結果だったらしい。実に、下らない先輩から下らない忠言を受けたらしい。馬鹿はいつの時代も健在だ。
しばらくグラウンドから遠ざかった彼は、やはり、再びグラウンでプレーすることを部に対して切望した。申し出を受けた我ら4年生は、8人、この件で話し合いをもった。学生自治だ。ある者は、我が栄光の大学サッカー部を舐めているんではないか、軽く見くびっているんではないか、と言う。ある者は、失敗やミスや愚かな行為を、強く反省しているのならば、何度でも、受け入れていいのではないか、と言う。
松さん、俺はあのとき、あなたの復帰を支持する最左翼だったんだよ。
話し合いの内容は、こんな内容だった。私は、栄光だとか名誉あるチームだということは理解できても、この件を判断する何の基準にも成り得ないと思っていたから、彼の復帰を迎えたかった。
本音で、仲間が一人でも多く居て欲しかったのだ。こんな話し合いだったが、腹を割って話し合うと、随分、自分と異なる意見を持っている者もいることに、気付かされた。これから巣立って行く社会も、このように千差万別、色んな考えが入り乱れているのだろう。
話は、転職した会社のこと、今までの会社でのこと、家族、とりわけ子供たちのことについては、力を入れて話していた。話しは尽きなかった。私の会社の、今の状況についても詳しく話した。
大学時代に同じ釜の飯を食った仲間は、いいもんだ。自宅は新小岩だそうだ。