2019年4月6日土曜日

カレル・チャペックの『クラカチット』

東京演劇アンサンブルの拠点劇場・ブレヒトの芝居小屋の最終公演は、『ロボット』でおなじみのチェコの作家のカレル・チャペックの『クラカチット』だった。
化学者・プロコフはなぜ原子爆薬「クラカチット」を作りだしたのか?
まさか、この「クラカチット」が、その後の極めて破壊的な兵器になるとは、想像しなかっただろうか。

人間の欲望を描くSFファンタジー。

話しは少し変わるが、朝鮮民主主義人民共和国(この後は北朝鮮と呼ぶ)により核兵器の開発及び核拡散に関する問題が、今一番大きな国際問題になっている。
核を支配する北朝鮮をテロ支援国家だと、米国は指定している。
この北朝鮮の核の脅威をなくし、米国と北朝鮮の双国は休戦協定から平和協定を結び、さらに北朝鮮は米国からの経済の援助を願っている。
そんなことを、2019年2月に、和親的に米朝会談で締結したいと考えて、会談を開いたが成立しなかった。

北朝鮮が現在保有する全てのウラン濃縮施設を廃棄すると、米国と韓国に約束していると明らかにされていたのに、会談での合意はなかった。
こんなに、核の脅威が世界の重要問題になっていることは、他国の人々でも誰もが知っている。
なのに、早くも1900年の初めに、原子爆薬「クラカチット」ができ上がった。
原子爆薬「クラカチッチ」が、原子力爆弾、原子力発電その他の、こんなにも怖いモノになるとはカレル・チャペット氏は想像でもしていただろうか。

そんなこんなで、この芝居の案内書をいただいた時に観劇を決意した。


20190324(日)
14:00~17:15
TEE東京演劇アンサンブル公演
ブレヒトの芝居小屋 最終公演

演目/「クラカチット」

作/カレル・チャペック
訳/田才益夫(楡出版刊『クラカチット』より)
脚本/小森明子・桑原睦
演出/小森明子

同伴者は姪一人(私の長女の長女)だけ。
今春から中学生になる。小学校を卒業して、今は十分な期間の春休み。
短い人生のなかで、こんなに休みを貰えるのもそう度々ではない。
私にも小学校から中学校、中学校から高校、何年かの浪人生活から大学。
それぞれの狭間(はざま)、気分が真新しく新たな生活への希望に燃えていた時の、何と幸せな日々だったことか。
姪はこの何年間か?受験勉強に精を出していた。
それに対する私なりのご褒美の心算だ。
高次脳機能障害者で足腰のガタガタの私が一人で、西武新宿線の武蔵関町駅まで電車で行って、それからノコノコ劇場まで歩くのがちょっと大変に思われた。

それよりも、この東京演劇アンサンブルの芝居・「クラカチット」が、ブレヒトの芝居小屋での最終公演になることが重要なことだった。
このブレヒトの芝居小屋の敷地と建物を、大家さんにお返しするのだ。
今後の拠点になる場所を探しているようだが、兎に角、このブレヒトの芝居小屋が好きなんだ。
社長さんとお知り合いになったのは40年前のこと、30年近く、この芝居小屋にお芝居を観に来た。
社長夫婦の娘さんや息子さんが、小学生時代からここまで、気ままに付き合ってくれた。
その成長のさまを、見届けてきたものだ。
社長さんに先輩同輩後輩の役者さんたち、この芝居小屋だって、よくぞ付き合ってくれたものだ。




役者の大幹部=志賀澤子さんが立っているのが、
ブレヒトの芝居小屋だ。
「銀河鉄道の夜」の看板が掲げられている建物。





★このお芝居の脚本家で演出家の小森明子さんの文章を、
東京演劇アンサンブル発行のNO127のLETTERで見つけた。
この文章を下記に転載させていただいた。
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カレル・チャペック  「クラカチット」
「クラカチット」は、1922年から23年にかけて書かれ、その後の新聞連載を経て、1924年に出版されたチャペックのSF長編ドラマ。

主人公プロコプは、何年もの研究の末、ようやくある物質を作った。
それはある晩ひとりでに爆発し、大きな破壊力をみせる。
原子爆薬「クラカチット」。
この男に悪意はなかった。
ただ、物質にはエネルギーが潜むこと、それをとことんまで解放したい、という執念があった。
人間も同じで、折角生を受けたのだから、朽ち果てる前に、潜在している能力やエネルギーすべてを解放し最高をめざして生きたい、と。
それは解放なのか破壊なのか。

ここで描かれる王女との大恋愛は、伝統に縛られて生きる王女と監禁されているプロコプの解放と自由を意味していた。
一方でこの恋愛は欲望と破壊的なエネルギーをも解放した。
どうしても相手を信用できず、互いに優位に立つことを望み、椅子取りゲームのような争いを繰り広げる。

最高、最密、最新ーーーーもっとも、誰よりも何よりも完全に完璧をめざして、と加速する文明はどんな未来をもたらすだろう?
それを形にしたのが「クラカチット」、原爆の予告だと思う。
わたしがこの本に惹かれたのは、そのような警告を男女の恋愛にも置き換える機知だった。
自由と解放は人間にとって是であり善だ。
科学者が宇宙のエネルギーである原子力に行きつくのも、多分当然。
制御できるかどうかなんて考えずに人は恋愛してしまうし、制御できるかどうかなんて考えずに人は探求してしまう。
そういう人間のサガをチャペックは描いてみせる。

一方で、この作品は以下のようなチャペックの主張のドラマといえる。
私は、人間の価値を貶めることなく、人間を屈辱と弱さにおいて示したかった。
結局のところ、これもまた、人間と人生の評価の試みである。
完全さの極致や、高尚で偉大な魂や、絶対的な真実や、超人的な理想や、その他の同様の事柄を描く者たちがいることを、私は知っている。
けれども、もしもその完全さの高みからは、私が出会う最初の隣人の人生が、私にとってなおさら無価値で矮小で救い難く見えてくるとしたら、その完全さは何になるだろうか?
私に言わせれば、人間性自体、心の社会主義自体、人間愛自体が、無限の寛容によって養われなければならないのだ。

我々にとってーーーカントによれば―――人間が、つまりあらゆる人間が、手段ではなく目的であるためには、自分の心と自分の脳から、あらゆる暴力を取り除かなけれなならないだ。
我々の理想や真実や布教や評価には、あまりにも多くの暴力がある。
(『苦悩に満ちた物語』)

こんなサガを持った人間が、どのようにして暴力と縁を切れるのか。
自由や解放の名の下に振るわれる暴力、発明される暴力装置を回避する道は、どんな発想から生まれるのか?
当時の未来予告を遙かに踏み越えてしまったいま、プロコプの終焉は、原作から離れて稽古場で作っていくしかない。
もろもろ大博打ですが、ぜひ観にいらしてください。

(小森明子)


ーーーーー
妄想

『ガリレイの生涯』の14場の広渡演出は忘れられません。
4時間の大作のラスト直前、弟子のアンドレアに『新科学対話』を渡した後の食事のシーンです。
広渡はガリレイ役の俳優に、延々と食事をさせます。
ゆっくりと、ひとさじひとさじ。
ガリレイがかみしめていたのは何なのかーーーカモを食べるガリレイを見つめながら考えるーーー観客はそういう時間を味わいました。

演出の妙だけではなく、ブレヒトが食を愛したガリレイを描いたことは、ガリレイも人間であったというだけでなく、食欲も知的欲求も欲望なんだ、とわたしには伝わりました。
知的欲求が、いわゆる忌避すべき「欲望」だなどと思ってもみなかった若いわたしには、それは驚くべき事件でした。
(それが自分の思い込みに過ぎなくても)。

つまり『クラカチット』に惹かれたのはそういう理由です。
知的探究心はプロコプの情欲と等価といっても過言ではない。
チャペックはこの作品で、ヴェールの娘アンチ、カーソン、ヴィレ王女、デーモン、娼婦の娘などを配して、「クラカチット」を生んだプロコプの欲望の根源を描いている、と感じました。
その姿は、ことの大小はあれど全ての人間に共通するものです。
なんせ人間は制御不能になることの多々ある肉体によって縛られているのですから。
疑うべきは自分自身ーーーそれが上演したいと思った動機です。

原子力が未開だった1920年代に書かれたこの本に放射線は登場しませんが、核分裂という莫大なエネルギーの連鎖反応がわたしたちの細胞や遺伝子に作用を及ぼし続けるように、人間の行動や言動は発した途端に運動を始め、作用が続く。
そのことにかなり無自覚なプロコプからは、原作の意図しなかったあやうさが見えるように思えました。
チャペックのSF空想小説は、わたしのなかに諸々の妄想を広げていったのです。

しかし、「何がやりたいのかわからないーーー」と、わたしの言葉のマズさや不足、わたし自身の欠陥と無能さを思い知らされる日々。
自然、稽古場は俳優たち自身が考える場、動く場、話す場、となりました。
スタッフワークでも、大道具・小道具・衣装それぞれが知恵を絞って得意分野を生かして、フルに動いています。
ブレヒトの芝居小屋で新作をつくる最後の時間。
稽古場に感謝しつつ、おもしろい恐ろしい舞台になることを目指します。

(脚本・演出/小森明子)

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クラカチットの公演にあたって

私の翻訳家としてのキャリアは、遅まきながら1992年の、まさにカレル・チャペックの『クラカチット』の翻訳出版によって実質上始まる「楡出版、その後青土社に引き継がれる)。
とはいえ名声もキャリアもない無名の自称翻訳家が己の成果を顕示すためには、それなりの苦労が要る。
その苦労については以前、どこか別のところで述べた記憶があるのでここでは略す。

ところで、我が国での読者の反応は、いささか冷淡だと言ってもいいほどのものだった。
翻訳者自身はきっとすぐにも版を重ねることになるだろうと期待していたのが、そうはならず、(出版社側の言い分によれば)一向に売れなかったとーーーー。

ではチェコ人にとってはどうだったのだろう?
チェコ文壇の大御所、作家イヴァン・クリーマはチャペックの評伝『カレル・チャペック』(拙訳・青土社2003)で述べている。

『クラカチット』は空想科学小説である以上に、はるかに多くのこと、かなえられる愛についての、また、自分の可能性をはるかに超える大きな、むなしい願望についての比喩にもなっている。
最後に読者の心に残るのは、危機と絶望からの脱出の道をさぐろうとする哲学的思索というよりは、むしろ謙虚な和解の響きである。
このロマンにおいてチャペックは私事的主題を仮構の物語と自分の哲学のもとに、緊密に結びつけ、最高の成果をあげた。
まさしく、その結合のゆえに『クラカチット』はカレル・チャペックの頂点を極める作品の一つと見なすことができると評価する。

カレル・チャペックがほぼ百年前(正確には1924年)に発した警告は今でも有効であることは先日の、もの別れに終わった米朝会談からもわかる。
それは、チャペックの警告の延長線上にあるものだし、なぜか『クラカチット』のデーモンのセリフを思いだしてしまった。
現代の世界の情勢を見てみても、相変わらず、戦争は世界中のどこかで、絶え間なく起こっている。
それにまた、核兵器を持とうと望む、あるいは、より強大なものを作ろうとする企てもなくなろうとしない。

デーモンのセリフには次のようにある。
「おわかりですか?あなたは世界を支配することになるんです。クラカチットと電信局を操ればね。あなたのお望みのところにクラカチットをパラパラっと。そして決められた時間に大爆発。何日かすれば奴らは和平を求めてきます。地球を一つの国家にすることだってできる。あなたが世界になるのです」

そんな国際情勢の中で、東京演劇アンサンブルがこのテーマを取り上げ、苦心の末、舞台用の台本を作り上げ、上演の運びにまでこぎつけたことは、アンサンブルの公演史の中でも特筆すべき出来事だと確信する。

(翻訳/田才益夫)

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21世紀にも通じる科学
   および技術の正邪の両義性

『クラカチット』が書かれたのは1924年で、欧州の人々にとって空前の悲惨な体験だった第一次世界大戦の終戦(1918年)の直後です。
大戦で初めて大量殺戮兵器が使用されました。
毒ガスがそれで、本作でもその体験を主人公のプロコプに語らせています。

科学や技術の両義性、すなわち、科学や技術の果実は人々の幸福のために使われる義にもなり、戦争などで人々を不幸に導く悪にもなりうるという事実は、ドイツ帝国の毒ガスの開発と実戦使用の指揮を執った科学者のフリッツ・ハーバーによって体現されています。

ハーバーらは、空気の体積8割を占める窒素を工業的に(即ち採算がとれるほど安価で大量に)アンモニアとして固定する方法を1906年に発明し、そのアンモニアを原料に窒素肥料が作られて食糧が増産され多くの人々が救われ、賞賛を浴びました。
その一方、同じ合成アンモニアはニトロ基の非天然的供給源として使われ、それを用いたニトロ系爆薬が第一次世界大戦で破壊のために使われます。

こういう時代に、核兵器を思わせるフィクションの「爆薬」である「クラカチット」(名称は1883年大噴火したクラカタウに因む、2018年にも山体崩落)を登場させ、それを巡る人々の思惑を描いたのが本作です。
粉末状であること、電波によって爆発する設定、放射線の害が語られていないのは、科学的知見が乏しかった当時の事情によりますが、「学問的興味」が大量破壊兵器を生む科学者・技術者の社会的倫理・道義の問題は、約100年経った21世紀の現代にも共通です。

上に述べた合成アンモニアの「民」から「軍」への移転とは逆に、第二次大戦後は核兵器、ミサイル、軍事電波技術から原子力発電所、民生用人工衛星、民生用電波技術という「軍」から「民」への移転がありました(但し原子力発電が幸福につながるのかは甚だ疑問)。
21世紀初頭の現代は、民生用で大発展した情報通信技術および宇宙技術(この2つは出発点は軍事用)や最近急成長した人工知能(AI)といった技術を、戦争のためあるいは監視社会化のため、あるいは監視社会化のために使用することが画策されています。

科学や技術が社会でどう使われるのかに無頓着なのが21世紀初頭の現代の日本の科学者・技術者の陥りがちな態度です。
しかし、昨年(2018年)戦争利用を拒否する声明を出したテスラ社やグーグル社の一部の社員のように、専門知識を持つ者として社会的責任を果たすべきです。
科学者・技術者も恋もすれば生活もする人間なんだから。

(石附澄夫/国立天文台・天文学)


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人間てどんな生き物だ?
クラカチットはチャペックが生み出した架空の物質だが、わずかな量でとんでもない力を発揮する人間の手におえない物質というものが実在して、それが莫大なお金を生んだり外交のカードに使われたりするのが当たり前の世界に生きる現代の私たちには、その悍ましさがより身近に感じられる。
クラカチットは二度の爆発を起こし多くの人が犠牲になる。

私は考える、一体プロコプはどこで人間の道を踏み外したか?

それはクラカチットを作り出した時ではなくクラカチットに価値を見出し利用しようとした時なのではないか。
危険で厄介な代物であったクラカチットを、戦争のためであれ世界平和のためであれ利用できる有用なものであると認識した時に、彼は人の道を踏み外したのではないか?
彼は自分で自分の生み出したクラカチットの価値を転換させてしまった。
そのことに気づかず「どうして私はこんないろんな目に遭ったんですか」と最後に神様に問う。
神さまは「原因があんたの中になかったのなら、あんたの発明の中にもなかったはずじゃ。人間が自分からそれを作りだすんじゃ。いいかな、この際、よう考えて見るんだな。」と答える。

私事だ、去年子どもを産み一児の母になった。
小児科の先生が「子どもはどうすれば親から愛されていると感じると思いますか?
それは子どもが心地よく過ごしていると感じること。その積み重ねです。」とおっしゃっていたことを思い出す。

愛、思いやり、やさしさーーー

暗い欲望を実行するのを阻止するものがそういう身近な愛であればいいと思う。
使命感や正義感や義務や命令でなく。

プロコプは間違える。
人の道を踏み外してそのことに鈍感である。
私はプロコプの鈍感さに割り切れないじくじくとした嫌悪感を抱きつつ、同時に鏡を見ているような思いがする。
人間てどんな生き物だ?
「クラカチット」が私にずっと問いかけているようでならない。

(脚本/桑原睦)







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■あらすじ

①プラハ
プロコプは新型原子爆薬「クラカチット」の製造に成功する。
直後、予期せぬ爆発で大怪我を追ったプロコプは、友人トメシュに助けられ、その製造の秘密を明かす。
借金まみれのトメシュは、金策のため実家へ戻ると告げて姿を消す。
そのトメシュを訪ねてひとりの女性がやって来る。
自殺をほのめかしていたトメシュを追って、小さな包みを届けて欲しいというヴェールの娘。
その娘の一途さにほだされたプロコプは、トメシュを追う旅に出る。
それは「クラカチット」をめぐる長い旅の始まりだった。

②ティーニツェ
トメシュを追って実家を訪ねたプロコプは、大病で倒れる。
目覚めたプロコブは記憶をなくしていた。
そこでトメシュの父のドクトルと娘のアンチに手厚い看護を受け癒された。
そのプロコプの目に、新聞の3行広告が飛び込んでくる。
「尋ね人  クラカチット!住所をしらせられたし カーソン」

③カーソン
慌(あわ)ててプラハに戻ったプロコプだが、トメシュの手掛かりが掴めぬまま自分の研究室に入った。
そこに新聞広告の主カーソンがやってきた。
カーソンは、あれやこれやと言って「クラカチット」を手放せと迫る。

④バルチン
トメシュの居場所を知るカーソンに連れられて、バルチン王国を訪れたプロコプは、そこで軟禁状態に置かれていることを知る。
自由を奪われたなか、プロコプは王女ヴィレに出逢い恋に落ちる。
東京演劇アンサンブルが約40年間拠点として来た「ブレヒトの芝居小屋」最後の本公演は、本邦初、チェコを代表する作家カレル・チャペックのSF長編ロマンの脚色上演。
小森明子、桑原睦の書いた本をベースに、稽古場での討議を経て脚本が作られた。

⑤デーモン
ヴィレとの恋に破れたプロコプは、実業家のデーモンに拾われる。
デーモンは巨大な電信局を所有していた。
そこでプロコプはヴェールの娘に似た娼婦に出会う。

⑥グロトゥプ
デーモンからトメシュの居場所を聞き出したプロコプは、トメシュのグロトゥプ爆薬工場へたどり着いた。
そこで、工場の係員にトメシュに会いたいことを求めた。


王女ヴィレとの大恋愛は、伝統に縛られて生きる王女と監禁されているプロコプの解放と自由を意味していた。
それとも恋愛の破壊だったのか。
否、何も王女との恋愛だけではなくプロコプはどの女性とも、可能なものではなかった。
実業家・デーモン、新聞広告主のカーソン、この二人だって何を考えていたのだろうか。
デーモンは巨大な電信局を持ち、自分の作戦のことをイの一番に考え、新聞広告主人のカーソンだって、王女を巻き込み自分の作戦を練った。

ところでプロコプは、この「クラカチット」が末には原子爆弾という極めて破壊的な兵器になるとは知らなかったのだろうか。
何故、こんな大量殺戮破壊兵器になるであろう、こんなモノを作ってしまったのだろう。
原爆の予告を意味することになった。
そんなことを秘められていたのが、不思議な気がした。

※原子爆弾の予告編とも考えてみた。


ーーーーーー
■作品について
原子爆薬……まだ原子核の中に陽子しか発見されていなかった1923年、SFならではの発想で書かれた『クラカチット』。

科学的には荒唐無稽だが、後のアインシュタインら科学者の責任と後悔を先取りした問題意識が描かれる。


純粋な科学的追究であれ、莫大なエネルギーの放出が人間や地球に何をもたらすのか?
それを考えずに開発に走ってよいのか?


制御不能な爆薬を作ってしまった主人公プロコプに対する問いは、そのまま原子力政策を推し進める日本初め世界各国への問いとなる。


プロコプに対してくり返される問い「何のために?」
また、この新型爆薬の強大なエネルギーに吸い寄せられるように様々な誘惑がプロコプを襲う。

男たちは囁く――戦争、名誉、金、自由な研究、世界の覇者……。
女たちは誘う――清楚、若さ、情欲……。
プロコプは自分の中に様々な欲望が渦巻くことを知る、
そんな自分だからこそ、クラカチットを造ってしまったのだということを。
人間の好奇心は留まることを知らない。
それが人間の原動力である一方、それは破滅へ向かう道にもなり得る。

第一次世界大戦を経験したチャペックは、
『ロボット』『山椒魚戦争』『絶対子工場』『クラカチット』などで繰り返し破滅への警鐘を鳴らしてつづけている。


カレル・チャペック/作 
田才益夫/訳 
(楡出版刊『クラカチット』より)
脚本/小森明子+桑原睦
演出/小森明子
音楽/国広和毅
衣裳協力/稲村朋子
音響/島猛
振付/原田亮
舞台美術/入江龍太 
照明/真壁知恵子
映像/三木元太
宣伝美術/奥秋圭
制作/太田昭
※ 入江龍太さん、体に注意してくれよ。
出演
プロコプ     雨宮大夢
イジー・トメシュ 大橋隆一郎
秘書       山﨑智子
大プリニウス   坂本勇樹
ヴァルト教授   松下重人
ヴェールの娘   正木ひかり
アンチ      仙石貴久江
ドクトル     浅井純彦
ナンダ      奈須弘子
カーソン     公家義徳
ハーゲン公    坂本勇樹
ヴィレ王女    永野愛理
ホルツ      小田勇輔
ローラウフ中尉  篠原祐哉
ドレーバイン   真野季節
ポール      永濱渉
シャルロッテ伯母 志賀澤子
デーモン     松下重人
ジョン      洪美玉
ロッソ      永濱渉
娘        正木ひかり
門番       小田勇輔
助手       篠原祐哉
少年       山﨑智子
老婦人      原口久美子