2020年7月3日金曜日

「金閣寺」が天声人語に


あれほど真剣に読んだ三島由紀夫の「金閣寺」と水上勉の「金閣炎上」が、7月2日(2020)の朝日新聞・天声人語に書かれていた。
前日の7月1日、嗚呼(あ~あ)今日から今年の後半の始まりになるんだね、と感慨深げに話して、家内から、あなたちょっと可笑しいねと笑われた。

天声人語は下記★ーーーにそのまま転載させていただいた。
生まれも育ちも京都と滋賀と奈良の丁度真ん中部分の京都府綴喜郡宇治田原町。
山間谷間(やまあいたにあい)の寒村だった。
京都のことは何も知らず、聞かず、学びもしなかったが、ただ金閣寺と銀閣寺については名称だけは知ることは知っていた。

鹿苑(ろくおん)寺金閣は昭和25年7月2日、未明焼亡した。
臨済宗相国寺派の寺院だ。
三島由紀夫の「金閣寺」は三島の美意識が最大限に表現された文学作品。
金閣寺を美の象徴として憧憬していた青年が、金閣寺の徒弟となってから、自らその金閣寺を焼失させるまでの心の屈折を描いた作品だ。

当時の他の作家や文芸評論家たちの反響も総じて良好で、連載中から「傑作」と称され、評価が高かった。戦後派文学に対し懐疑的で黙殺していた旧『文學界』同人や鎌倉文士を中心とした主流派の文学者も、三島を自分たちの正統な後継者と認め出し、それまで珍奇な異常児扱いであった三島が一目置かれるようになった。また三島を日本浪漫派の「狂い咲きの徒花」、ブルジョア芸術派と敵視していた左翼文学者たちも、三島の才能や実力をそれなりに認めるようになった、とネットにはあったが、この作品については私には特別な想いは何もなかった。
表現の仕方や言葉の使い方については、それなりの感激をしたことはした。
が、三島由紀夫と私とは心の奥まったところ、心情についてどうも相容れないものがあるようです。

私は、いつの頃か、この作品を映画化したものを観て、頭の隅っこに数々の映像がしこりのように残っていた。



水上勉の「金閣炎上」はノンフイィクションに近い記録文学作品だ。
そのため事件そのものについて興味があったので、この作品は我武者羅(がむしゃら)になって読んだ記憶がある。
物語は長編になっていたが、生まれも育ちも京都府宇治田原町なもんだから、京都以外の地域は、それはそれは真剣に中学校時代に買ってもらった地図を脇に置いての読書になった。
それほど、本に密着したのは久しぶりだった。
下記のwikipediaの内容を詳細に追っているので、その長編にも余り気にすることなく読めた。
水上勉に痛く興味を持ち始めていたので、読書中、当面のことには注意が集中しない、何も興味を持てないほどの上(うわ)の空(そら)状態。



★---------(天声人語)-----------------------

70年前のきょう、京都で金閣寺が焼失した。
14歳の徒弟僧だった江上泰山(たいざん)(84)は午前3時ごろ、異様な音に眠りを破られた。
障子には炎が映る。
慌てて飛び出すと、天を突く火柱が見えたという。

「シャッ、シャッと松の葉が音を立てていました。散水器も消火用の砂も役に立ちませんでした」。
すさまじい火勢にだれもが立ちつくす。金閣を囲む鏡湖池(きょうこち)に火の粉が花火のように降り注いだ。

21歳の兄弟子が火を放ったとわかったのは夜が明けたあと。
点呼に一人だけ姿がない。
居室はもぬけの殻で、碁盤と目覚まし時計が残されていた。
夕刻、寺の裏の左大文字山で発見され、連れていかれた。

兄弟子は出所からまもなく26歳で病死する。
「いくら考えても、火を放たなくてはいけないような事情は思い当たらない。あの夜、あの一瞬だけ何かが外れたとしか言いようがありません」と江上さん。
刑務所からは「お許しください」と懺悔する手紙がたびたび届いたという。

取材後、三島由紀夫の『金閣寺』を読み直した。金閣の美に魂を奪われたとの見立てはなお古びていない。
もう1冊、水上勉が20年かけて動機に迫った『金閣炎上』は、地味ながらズシリと心に響く。
終戦から5年、貧しい学僧の胸には、復興の上り坂からひとり取り残されるような焦燥がなかったか。

梅雨の晴れ間に金閣寺を歩く。
再建がかない、昭和の大修理をへて、世界遺産にもなった。70年前の青年僧の一瞬の狂気の跡は、境内のどこにも見えなかった。

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焼失後の金閣寺

Wikipedia - ウィキペディア

事件の経緯


焼失する前の金閣(1893年

焼失する前の金閣(1905年

木造足利義満坐像
1950年7月2日の未明、鹿苑寺から出火の第一報があり消防隊が駆けつけたが、その時には既に舎利殿から猛烈な炎が噴出して手のつけようがなかった。当時の金閣寺には火災報知機が7箇所に備え付けられていたが、6月30日に報知機のためのバッテリーが焦げ付いていたため使い物にならなくなっていた。幸い人的被害はなかったが、国宝の舎利殿(金閣)46坪が全焼し、創建者である室町幕府3代将軍足利義満の木像(当時国宝)、観音菩薩像、阿弥陀如来像、仏教経巻など文化財6点も焼失した。
鎮火後行われた現場検証では、普段火の気がないこと、寝具が付近に置かれていたことから、不審火の疑いがあるとして同寺の関係者を取り調べた。その結果、同寺子弟の見習い僧侶であり大谷大学学生の林承賢(本名・林養賢、京都府舞鶴市出身、1929年3月19日生まれ)が行方不明であることが判明し捜索が行われたが、夕方になり寺の裏にある左大文字山の山中で薬物カルモチンを飲み切腹してうずくまっていたところを発見され、放火の容疑で逮捕した。なお、林は救命処置により一命を取り留めている。

動機

逮捕当初の取調べによる供述では、動機として「世間を騒がせたかった」や「社会への復讐のため」などとしていた。しかし実際には自身が病弱であること、重度の吃音症であること、実家の母から過大な期待を寄せられていることのほか、同寺が観光客の参観料で運営されており僧侶よりも事務方が幅を利かせていると見ていたこともあり、厭世感情からくる複雑な感情が入り乱れていたとされる。
そのため、この複雑な感情を解き明かすべく多くの作家により文学作品が創作された(詳細は後述)。一例として、三島由紀夫は「自分の吃音や不幸な生い立ちに対して金閣における美の憧れと反感を抱いて放火した」と分析したほか、水上勉は「寺のあり方、仏教のあり方に対する矛盾により美の象徴である金閣を放火した」と分析した。
また、服役中に統合失調症の明らかな進行が見られた(詳細は後述)ことから、事件発生当時既に統合失調症を発症しており、その症状が犯行の原因の一つになったのではないかという指摘もある。

その後

事件後、林の母親は京都市警による事情聴取のため京都に呼び出され(禅宗の僧侶であった父親はすでに結核により他界)、捜査官から事件の顛末を聞くこととなったが、その衝撃を受けた様子から不穏なものを感じた警官は実弟を呼び寄せて付き添わせた。しかし、実弟の実家がある大江への帰途、山陰本線の列車から亀岡市馬堀付近の保津峡に飛び込んで自殺している。
林の精神鑑定を行ったのは後に国立京都病院精神科を設立し医長となる加藤清である。1950年12月28日、林は京都地裁から懲役7年を言い渡されたのち服役したが、服役中に結核と統合失調症が進行し、加古川刑務所から京都府立洛南病院に身柄を移され入院、1956年(昭和31年)3月7日に26歳で病死した。
親子の墓は親戚のいた舞鶴市安岡にあるが、墓は今も清掃され花が手向けられている。

再建


再建後の金閣舎利殿
現在の金閣は国や京都府の支援および地元経済界などからの浄財により、事件から5年後の1955年に再建されたものである。金閣は明治時代に大修理が施されており、その際に詳細な図面が作成されていたことからきわめて忠実な再現が可能であった。
事件当時の寺関係者の回顧談等によると、焼失直前の旧金閣はほとんど金箔の剥げ落ちた簡素な風情で、現在のように金色に光る豪華なものではなかった。また修復の際に創建当時の古材を詳細に調査したところ金箔の痕跡が検出され、本来は外壁の全体が金で覆われていたとの有力な推論が得られたことから、再建にあたっては焼失直前の姿ではなく創建時の姿を再現するとの方針が採られた。

事件をテーマにした作品

この事件を題材に、長編小説では三島由紀夫金閣寺』や(その小説を原作とする映画『炎上』もあり)、水上勉五番町夕霧楼』が書かれた。
水上は舞鶴市で教員をしていたころ、実際に犯人と会っていると述べている[2]。水上が1979年に発表したノンフィクション『金閣炎上』は舞鶴の寒村・成生の禅宗寺院の子として生まれた犯人の生い立ちから事件の経緯、犯人の死まで事件の全貌を詳細に描いたもので、事件の経緯を知るための一次史料となっている。